6話  青き旅人

 溶け込んだ心の闇に、暖かい光が差し込んでくる───。


 たとえ迷子になったとしても。

 たとえ取り返しのつかない過ちに後悔しても。


 心の奥にある強い『意志』は生きる喜びを得る為に闘志の炎を灯す。

 ボロボロのバケツで汲み取っても底を尽きそうにない恐怖の遺産さえも、悲愴な過去を克服する為にあるワケじゃない。


 感情は表裏一体。


 怒りも憎しみも、全ては優しさに生まれ変われる。


 赤の他人を歪む必要はなかった。


 目の前に阻む人影の化物の脅威に肩を落とし、絶望に耽る。ちっぽけな思考回路では正解に辿り着けそうにない。麻痺した感覚と震える華奢な身体。まるで全身が石にされたかのような迫る恐慌。涙が止まらない。恐怖に屈してしまった幼い頃の未来は自分の不甲斐なさを嫌なほど覚えてきた。


 非力な自分が憎い? 何も出来ない中途半端な自分は必要としていない?


 それは違う。


 他人を傷付ける簡単な自分の姿が恐ろしいだけだ。


 守りたい人達がいる。その人達の気持ちや期待を裏切りたくはない。同じように苦しんでいる人達が大勢居るのに、吐き出した弱音はワガママに過ぎない。


 本当は。


 未来は『大人』になりたかったのだ。


 強い大人になれば。優しい大人になれば。格好いい大人になれば。


 ───正しい大人になれば。


 きっと時間が教えてくれるだろう。将来の自分が築いた景色が、鮮やかな日常に満たされている世界のことを。


 全てはこれからの未来の為に。

 本当の世界を見上げたい。どんなに失敗したって、逃げなければ勝ちだ。


 自分の名前を。仙崎未来の名前を忘れなければ。


 勝ちなんだ。


 魑魅魍魎の影が這う狂乱の世界で。


 崖っぷちだとしても少女は必死に食いしばる。暗澹とした曇天を見上げて、天上を求めた眼光は抗い続けるだろう。二度と身体が動かなくとも、心臓の鼓動を打つ限り、凝らした瞳は決して淀むことはない。


 迫る極彩色の視線が、弱った未来を精神的に殺しに掛かろうとしても。


 凝らした瞳に収まるのは。



『何事にも諦めない。これが、仙崎家が繋いできた『精神』なんだ。───未来』



 巡る光彩の旋律。


 流転していく権威の照覧に、悚然に芽生える影は、強烈に怯え始める。


 目の色が変わった世界で。


 見届けた希望の顛末は絶対に忘れられない。


 見慣れた強い背中。大きく見えてしまう『精神』の強さ。

 多くは語ることはなくても、困難を乗り越えてきた場数は計り知れず、それでも身近に感じてきた慈しみは、他の誰よりも絆を繋いでいる証拠だった。


 全ては幸せの為に。


 歩んできた人生の輝きは、今を見据える瞳の灯火として宿り続けるだろう。


 鉛色に浸す、偽りの景色を見通す天上の眼を。


『───未来。もう帰るよ』


 舞う埃を着物の袖で凪ぎ払う未来の祖母、仙崎美知子は優しい言葉と共に笑顔で迎えにきてくれた。





 誰かの想い。


 母の惹かれる優しさ。父の憧れる強さ。


 沢山の愛情が注がれて。

 未来は何不自由のない生活を送る日々を過ごしてきた。


 友達。クラスメイト。親族のみんな。最初はぎこちない関係だった。けれど言葉を交わせば案外難しいことじゃない。金平糖ほどの勇気さえあれば困難が訪れた時、たとえ心が通じなくても、人は一致団結できる。


 僑軍孤進だとか。一人が優秀だからとか。


 人々を牽引するリーダー格を担う為に課せられた使命のつもりではない。


 ───『みんな』が居たからだ。


 独りでは乗り越えられない巨大な壁があるだろう。

 言葉の壁を越えて。手を繋げなければ、他人を許す心がなければ、解決することのない問題が山ほどあって。


 なのに、歪み合う現実の世界はどんなに虚しいものなのか。


 未来は知っている。


 本当は自分が間違っているかもしれないのに。それに気付かないのは自分自身のことも知らないだけ。故に他人の視線は鋭い。怖いと思うのは正しいからだ。


 一人では生きれない。


 それは間違いない。紛れもなく本当のこと。


 どんなに傷付いて、どんなに傷付けて、沢山の人達を困らせて。幸せよりも痛みが走る世界は想像する以上に過酷なのか物語っている。


 だからって、可能性を、奇跡を、無下にする必要なんて何処にもない。


 ───嫉妬を擦り付けるな。


 視界の片隅で覗いているような、誰かの視線。影の中でしか活動できない悪意の集合体はずっと未来に手招いていた。知らない素振りをして、穏やかな日常に紛れ込んだ狂気を静かに見据える未来は、欠点だったメンタルを鍛えてみせた。


 立ち塞ぐ壁が徐々に小さくなって、過酷な環境に変えても、心の底から沸く野心が跳ね返す。絶望を噛み締めた過去の悲劇には到底及ばない。


 負ける気がしなかった。


 奇蹟を信じた未来に不安という言葉は無縁。現実を直視できる未来は自分自身が散撒いた問題から逃げるつもりはない。


 事の全てはあの夏祭りの日に見出した目標の為に。


 理想の大人になる為の目標。



 それは祖母の認める正しさ。人影の化物に示す、揺るぎなき反骨心だ。



(あの人は一体……)


 煙幕に呑み込まれていたハズの未来。


 ほんの少しだけ冷たい突風が霞んだ視界を晴らしてくれた。


 目の当たりにする脅威。人影の存在に再度身構えるが、化物は微動だにしない。それどころか青い亀裂が全体に走っており、対して一撃を炸裂したであろう背中姿の少年は、以前助けてくれた祖母と同等のただならぬ風格を漂っている。


 極彩色の世界に相反する青き奇蹟。


 同じくらいの年齢だろうか。

 私服姿の少年。見た限りだと身長は同級生の男子よりかは低い印象だ。それでも未来よりも身長があるワケで、人影の化物と対峙する姿勢は年齢云々関係ない。


 けれど、悪意を断つ奇蹟の強さには、鳥肌が立つほどの迫力を感じた。


 彼の存在自体に身震いをしてしまう。


(目が合った……!)


 不器用な風の仕業によって被っていたフードが捲れてしまう。露わになる横顔。気怠そうに、それでも凛とした瞳は濁ることを知らず、虚構空間の現状を理解した表情は、波紋一つない静かな水面のように映す。


 その瞳には、未来の鏡像を見据えていた。


「あなたは誰……? もしかして、前に会ったことがある……?」


 息切れが妨げる。未だに心臓の鼓動が激しい。肩で息をしていることを見せないように意地を張る。解離する温度差に危機感は反復横跳びを繰り返す。


「───それは」


 もう一人の訪問者、ホワイトパーカーの少年は口を開く。


 喉に引っ掛かる生唾を飲む音を隠す未来。勝手に緊張感が漂う。季節は秋のハズなのに熱気は何処から来るのか。たどたどしい姿に気にしている場合じゃない。


 彼の存在そのものがイレギュラーなのに───。


「こっちのセリフ」


「うん?」


 一瞬。時間が止まったような。未来の勘違いだったのかもしれない。


 第一印象が崩壊した。


「ちょっと待って、聞き取れなかったかも。え? 今なんて言ったの?」

「それはこっちのセリフ。波動の残滓を辿ってみると、偶然化物に油を売っている君の姿を見掛けた。……まあ、見事に燃えてはいたんだけど」

「ただの倍返しだよ!?」


 思わず反論したくなる見当違い。

 多分本人は小馬鹿にしてないが、人影の化物の誘惑に自力で見破った未来の苦労がシニカルにまとめられた。


 しらけた反応にどうも納得がいかない未来はちょっと不機嫌になった。虚構空間に迷い込んだ過去の経緯を話せば、彼の認識は平坦なものに変わるだろう。


 弁明が欲しい。


「……10年前、都市開発の影響で夏祭りが最後になったあの日。当時五歳だった私は荒れ果てたこの世界に落とされた。何も見えないし、案の定、人の影みたいな化物に襲われそうになったけど、お祖母ちゃんが助けに来てくれた。でも、大切にしていた宝物は結局見付からなかったんだ」


「つまり、無くした貴重品を君は探していて、思い当たる節があった。その様子だとまだ見付かっていない、と」


 険しい目付きは崩さず、素直に自己見解に辿り着く少年。


「そうか……」


 能動的に。思慮を重ねる仕草。

 想像以上に未来の話に耳を傾けてくれる。途端に息苦しさが消えて、誰かに打ち解けられない非現実なノンフィクションが色彩を取り戻していく。


 そこで未来は理解した。


 少年は虚構空間に詳しい。そして、人影の化物を倒す奇蹟があることを。


「……私の話を信じるの? 決定的な証拠なんてないのに」


「俺は信じる。何も、君の目は───」


 言葉が途切れた。


 極彩色の反撃。青い亀裂が走る隻眼に放たれる超粒子砲。

 全身を震わせる人影の化物の一撃はレーザーポインターのように細く。

 油断した未来だけに定めて、震えた金属音と共に、凝縮された悪意をぶつけようとする嫉妬の思惑。敵対する少年を無視して、全ては衝動の限りを尽くす。


 ドロドロになった感情で蠢くモノに。


 破壊の衝動は未来に届かない。寸前のところで少年が防いでくれたからだ。


「……驚いた。動けるのかコイツ」


 人差し指と中指に挟んでいたお守りのような紙片で超粒子砲を受け止めており、未来を庇う形でボディーガードを担う。しかし負担が大きいのか、それとも余程の出来事なのか、完璧に防ぎ切れてはいない。


「ボロボロなのに、あの化物は不死身なの? どこまで貪欲なんだ……」


 熱線で焦げる空気。


 陽炎の中で揺れる人影の化物は小刻みに震わせていた。首を傾げる動作は不気味に、亀裂だらけの全身が短期間で修復されていく。


 盾代わりの紙片が灰となってしまい、形跡は暗闇の彼方に眩ます。


 残る紙片は二枚。


 未だに危機は去らず、安全地帯は雀の涙。不安と恐怖が押し寄せてくるばかり。乱雑に立てられた鳥居の足場に四足歩行の人影の大群が迫る。双眼が二人を睨み、伸ばす手は泥めいた液状のようなモノを纏う。決して触れてはいけない。そう自身に戒めるのは容易で、四面楚歌の状況はあまりにも芳しくない。


 分かるように絶体絶命だった。


「囲まれちゃった……」


 極彩色に塗り潰された眼光。景色に紛う異端は悪意の集合体そのもの。


 羨望の一つ、『嫉妬』はどこまでも追い掛けてくる。


 奴等は日常の影に紛れ込んでいた。


「質問! 打開策とかあったりしますか!?」

「……打開策。正直厄介だ。先に護符が無くなると思う。それほどに事態は深刻」

「なるほど。そっか、要するに逃げる場所がないってことか」


 見えないプレッシャーが押し寄せて、互いの背中を預けることに。


「つまり、ピンチじゃん!?」


 今更だ。もしも注意を怠るような初歩的ミスが起きてしまえば、視界は忽ち憎悪の波に飲み込まれ、二度と太陽が拝めなくなる。それだけは御免だ。


 狭ばる距離の中、背後から声が聞こえる。


「どういう経緯で今日に至るのかは知らない。でも、相当恨まれていることは原因の発端が過去の君にあったりして。……まあ、あくまでも推測の域だけど」


「それは違いますー! 全然恨まれてないって! ちゃんと見て!」


「どう見ても恨まれているじゃないか!!」


 怨言潤沢。窮地の片隅に爪先で立っているのに残念な始末。


 諍いを起こしている場合じゃないのに。


 意識はそう理解しているのに、悪足掻きの戯れに現を抜かすのは少年の持つ奇蹟に縋ろうとしているからか。一向に打開策は浮かばず、図星を言われ焦る心を少年に見透かされると思うと恥ずかしくて思わず誤魔化してしまう。


 茶化してしまった。


 一時の反省が余計に息苦しくなってしまうのに。


 積年の怨念は根深く。いずれ精神さえも内側から抉っていく。


 他人の不幸は蜜の味と言うが。欲望というカタルシスは人の生存本能を鏡合わせしたもの。二人を詰め寄る双眼はどこか見覚えがある。


 片隅で嫌味を含んだ嘲笑の視線。


 それはまるで、人間の『本性』そのものだった───。


 顔が覗いてくる。


(……!?)


 詰め寄る双眼に未来は硬直。蛇に睨まれた蛙の如く警戒心が表情に出てしまう。引きずった狼狽顔は少年に見抜かれ、化物が襲来する寸前で、未来の華奢な身体は宙に浮かび、破滅の濁流から逃れることができた。


 重い身体を。少年に担がれる未来は気概が欠けていて。


「正気を保て。心を飲み込まれるな! 奴等は本物の人間じゃない。怪魔だ!!」


 意識が覚醒しようとする。


 空気が恋しくなった肺は再び動き出す。すぐにでも空気を取り込みたいのか息が尋常じゃないほど荒い。吹き出す汗は生理的忌避感によるもので、極彩色の双眼に覗かれたとき、保っていた未来の理性が唐突に瓦解した。


 心に潜む悪意の具現化。人類を脅かす忌々しき存在。嫉妬の人影は。


 怪魔は。


 知らない誰かの顔を浮かべていた。


「……知らない。知らない知らない知らない! あの顔は、誰なの……ッ!」


 叫喚は止まらない。アレは一体何なんだ。熱くなる目元は視界を霞むが、未来はそれどころの問題ではない。脳裏に絡み付いた誰かの顔が離れない。


 抉られた両目は光を吸い込む深淵のように。


 小さな女の子の顔は。不気味に笑顔が裂けていたからだ。


 たとえ化物が本当に人間じゃなくても。過る人の面影に拳は翳せない。誰かの顔だからこそ余計に衝撃を浴びてしまい、人情を弄ばれた未来は満身創痍に。一方で未来を米俵として担ぐ少年は顔色を変えず、嘲笑の面相を繰り返す怪魔を睨み、護符を片手に力強く握り潰す。


「……どこまでも、悪夢をひらけかすつもりか」


 奇蹟を宿す心の強さ。絶望を砕く芯のある声音が木霊をしていく。


 仲間の背中によじ登る怪魔。伸ばす腕は決して少年を触れることはない。過去に怯えることも。敗北に喫することも。彼女が希望を諦めることも。


 悲劇は何処にも到達しない。


 拳を真横に振るう。それだけのことだった。


「心の底に潜む悪意が悲劇を踏もうとしても、人は何度も逆境を乗り越えてきた」


 曇る心に照らす光と共に。


 揺るぎなき意思は『因果律』さえも凌駕する───。


「事実を眩み、幻想に隠れ、視界が霞んだ時点でお前の嫉妬は無意味だ」


 未来は目撃した。


 鋭い衝撃波に顔を一刀両断される怪魔の姿を。

 閃光は瞬き、連鎖する爆発音。腕で隠す視界の片隅で見たものとは、羽虫を凪ぎ払うような感覚で化物達を撃墜していく光景だ。伸ばした腕を木っ端微塵にさせ、恐怖を上書きさせた圧倒的な支配力を示す奇蹟の少年は。


 空席の空を制していた。


 極彩色の世界と対立する、蒼天色に帯びた日本刀を身構えて。


 青き旅人は目の色を変える。


「さあ、怨敵調伏といこうじゃないか」

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