5話  私の宝物

「地面が捲れている……」


 悲惨な変貌を遂げた瓦礫を避ける未来の足取りは軽かった。


 終末を迎えた古色蒼然の街並みと一滴の涙を枯らす蹂躙された世界。絶世の絵画にもなれるアナーキーな景色に溶け込む誰かが乗った痕跡のある四輪車。日常的に乗りこなしていたであろうボロボロの自転車は未来の横を通り過ぎていく。


 気になる箇所がある。


 荒廃したこの街は合わせ鏡のように灰空市と酷似していることだ。


「似ている。似ているけれど、微かに違う気がする」


 完璧とまでは言えないが、未来が住んでいる現実の灰空市の情景と近い。あまり地図が読めない未来を自虐してはいるものの、傑出した未来の土地勘だけは誰よりも譲れず、灰空市だけは詳しいと自負している。


 流石に間違えようがない。


 なのに、心に靄が掛かるのはどうしてなのだろうか。


 阻害する猜疑心を華奢な手で凪ぎ払い、禁足地に行き着く未来が見たものとは。


「嘘だ……」


 背筋に伝う冷気が逆撫でる。


 険しい道程で全身の筋肉を使った身体は熱を籠っていたハズなのに、それ以上に強い恐怖に直面した途端、驚嘆する視線は知らずに釘付けになっていた。


 真実を目の前に。未来は為す術もなく。


 何度も。


 現実を突き付けられた。


「……おかしい。ありえない。今日の灰空市と変わらないなんて……」


 総じてではない。


 出来る限りのことは覚えている。悲劇が訪れる前の夏祭りの舞台は人々の活気が賑わい、特別に映る夜景を待ち遠しく眺める瞳は一瞬の煌めきを望んでいた。屋台から出た炭の匂いが服に染み付きながらも、全てを風物詩に任せて、淡い街灯に照らされる親しい人達と共に特別な今日を安らかに過ごす。


 本当は、それだけで良かったのに。


 伸ばした手が掴んだ世界。目の色を変えた景色に、動揺は確信へと変わった。


 真実を覆い隠す濃霧を必死に掻き分けた。

 五歳の未来に。


 辿ってきた道程を見失うという、考えられない失態が起きてしまう。


「何もかも、道は間違っていなかったんだ……」


 灰空市が好きだ。当時から土地勘に優れていた未来が見間違えてしまった。その起因として天に届きそうな摩天楼の建築物が聳え立っており、沢山の交差点が並ぶ街並みはまるで天気予報で見掛ける首都圏そのもの。


 知らない内に未来は都会に迷い込んでしまったのかもしれない。


 実際は違う。


 折れた信号機。塗装の剥がれた歩道橋。


 骨組みだけのビルの摩天楼に懐かしさはなかった。傾いた液晶掲示板は遠い昔に機能していない。それでも転倒したバスの残骸は昨日利用した車体とほぼ一緒で、10年前に見た面影が現在とあまり変わりない。


 むしろ、この灰空市は都市開発が進んでいる方だ。


「この灰空市は、私が生まれる以前に存在していたんだと思う。そうじゃないと」


 ───きっと矛盾する。


 ギリギリ決壊していない道を通り、周辺を見渡せる丘を探す。

 風だけが生きている。けれど人がいた痕跡は見付からない。あの時と同じだ。再開発する前の灰空市を過ごした未来の脳裏にフラッシュバックする。


 あの頃のノスタルジックな景色は二度と戻らない。


 未来にとって最初で最後の夏祭りだった。

 足を運んだ人達も名残惜しそうに屋台模様を眺めていたに違いない。

 風が運ぶ、大切な人達と過ごした時間。その優しい思い出は今も心に刻み続けている。あの日見た満開花火の景色を忘れないように。


 温和怜悧に成長した仙崎未来は、生きた証明を探している。


「探すんだ。赤い灰空市で無くした私の宝物を。夏祭りを経験した証のことを」


 暑いのが嫌だった。まだ寒い方が平気。

 だからこそ夏になると不機嫌になってしまう。


 毛嫌いしていたのに、子供の感性は不思議なものだ。燦々と照らす太陽の日差しが欲しくて、思わず手を翳してみたものの未だに青空は遠くて。あまりの真夏日に溶けてしまいそうなアイスキャンディーの気持ちを考えてみる。


 幼少期の記憶が仙崎未来を作るように。


 無くした玩具の鍵は、向こう側に続く世界の架け橋となる、希望の宝物だ。


「必ず見付けてみせるよ。たとえそれが罠だったとしても」


 見付けた。

 無残に荒廃したスクランブル交差点。


 都会の景観に釣り合うことのない木製のオブジェクトの存在が一層と非現実的を色濃くさせる。無数に聳え立つ鳥居の城こそが未来を待ち受けており、天上に輝く希望の象徴は、極彩色に染まる残酷な世界を照らす。


 歩く。慎重に上る。


 少ない足場を頼りに。徐々に高所になっていく景色の様。

 強風に煽られて思わず足を掬われそうになるが、未来は受験生の身分。連想する言葉を必死に噤む。身近に潜む恐怖と向き合いながら、長い時間を掛けてようやく上り詰めた未来が見た頂きは、紛うことなき孤高に相応しい景色だった。


「───私が、白黒をハッキリさせてやる」


 螺旋状に浮遊する残骸の嵐の中央に。願いが込められた宝物が眠っている。


 明確な根拠はないけれど。


 時を刻む針が停止した世界で、鼓動を打つ者は未来しかいない。

 その先にある真実がもたらす結果は誰も見当が付かない。事象を起こすには、己を犠牲にする相当の覚悟を背負う者にか許されなかった。


 後悔との決別。


 過去が繋がって現在に至る。未来はそっと手を伸ばそうと試みるが。


「え? ……今、何か動いたような」


 背後に気配がした。


 本能的に振り向いてしまう。周辺を見渡すが誰もいない。あるのは惨劇が起きた世界の痕跡だけなのに。


(これは、なに……? 誰なんだ。どうして、私に何を伝えようとしてるの?)


 走る感情。脳裏に浮かんだ女の子のシルエット。何を訴えかけるように叫ぶ姿が焼き付いて頭から離れない。顔は見えないのに必死そうな面影が切実で、恐怖とは別の感情に本能が揺れている。強烈な危険信号に未来は腑に落ちない。


 噛み切れない感触。


 暗雲が漂う、曖昧で曖昧な感覚は躊躇いを生じさせる。


 本当に。


 頂きに触れてもいいのだろうか? 本能のままに覚悟を全うすべきだろうか?


 現実を目の前にして。

 この異様な胸騒ぎには狂乱が潜んでいるに違いない。


 一時の危惧感が思考を硬直させる。最終通告のような、取り返しのつかない混沌の雰囲気に抗おうと未来は首を左右に震えて。


 誘惑に負けない。自制心を保つ為に、もう一度瞳を閉じて、目の色を変えた。


 そして、身構えて、伸ばしていた手を引いてみせた。


 代わりに拳を作る。


「……違う。私は選ばない」


 全否定。


 未来が決意した不安定な答え。


 蛇足の一途を辿り、不毛な時間を肥やす優柔不断の烙印。まさに愚者の行いだ。無神経の極みである覚悟は臆病者とよく似ており、過去の自分自身を重ねた無様な姿は懈怠の権化。相応しくない。期待外れの哀れな結末だろう。


 興醒めな選択は、自身の首を締めることになるのだが、


「私は恵まれている。家族も。友達も。福引きで電化製品当てたこともある」


 変わらない声音。いつもの調子で自慢話に花を咲かせる。

 明白に違う未来の覚悟。最悪の顛末を揺るぎない意思が覆す。透き通るほどの本音と共に強気な微笑は暗雲を凪ぎ払う。


「テニスの県大会に出場して勝ったこともある。流石に入賞しなかったけど、習字は得意。料理はもちろん家事全般こなせる。教えてくれる人達がいたから、競い合える人達がいたからこそ、私は沢山努力をしてきたつもり」


 目標を実現する為には。行く手を阻む巨大な壁を越える為には。


 多種多様に浸透した存在意義を認めることだ。


「……これは自慢じゃないよ」


 今日を生きる。 


 シンプルで当たり前な理由が、10年の月日を越えて仙崎未来を確立させた。


「人生の一部なんだ。私達は勝手に産まれてきたんだよ。『特別』じゃない。平等だったんだ。この世に生まれた瞬間、人は自由を掴む権利がある」


 両親の愛情が。信じてくれる友達の存在が。

 退屈に感じる日常が。


 未来にとって普通のことで、他人を知らなければ視界は狭いままだった。幸せになることに運勢は関係ない。本当の自分自身を見失わない限り。


 嫉妬の感情なんて、ちっぽけなものだ。


「だから私は選ばないことにした! だって、これは『偽物』だからね」


 不協和音が生じる。


 世界が震えていた。挑発を促す否定の勇姿はハッタリではなく、強大なマイナスの感情さえも跳ね除ける心は超常現象を覆す。迷いのない、確信めいた笑顔。湧き水のように溢れ出る自信。羨望を抱くことも億劫な眩しすぎる人生に、震え上がる嫉妬の感情は拒絶をするしか選択は残されていなかった。


 本当に臆病者だったのは。


 将来という黄金の岐路を投げ捨てた、底知れぬ狡猾そのものであった。


「ねえ、『本物』は何処に隠したのかな?」


 爆ぜる光。


 偽物と呼ばれた物体は金属音を含んだような甲高い悲鳴を上げる。

 悲鳴と連動するように残骸の嵐は螺旋状に巡り、未来の周囲に浮いてきた水滴が黒いシルエットに変化。極彩色を放つ眼光を向けて睨んでいた。


 ヒトではない影がそこにいる。


「……10年振りかな、覚えている? 私の宝物を盗んだつもりの天邪鬼さん」


 未来を虚構空間に落とした元凶。負の感情が具現化した姿。人々の心の中に潜む悪意が本来戻るべき目的地を見失い、変わり果てた結果。


 生きる者を憎しみ。成功する者を妬んだ。

 姑息で小癪の権化。


 二度も虚構空間に引きずり落とした。だがしかし、所詮はそれだけだった。未来の抗う意思に到底敵うハズもなく、絶望に貶めることも不可能なのに。


 嫉妬に溺れた人影は猛り狂う。


「本当のことを言っただけなのに、なんか逆上してきた!?」


 揺れる。


 甲高い悲鳴が轟き、共振された空気は鳥居に亀裂を走らせ、不安定になる足場に思わず未来は体勢を崩れるところだった。

 再び身構えた未来は見上げる。そこには恐ろしい絶景が待ち構えていた。残骸の上で這い寄る人影の化物がカサカサと迫ってくるではないか。


「あれってもしかして……」


 怪訝を浮かべる暇さえも事態は与えてくれない。


 共鳴を始める福音音楽。拒絶を帯びた厭悪の声が根深く刻まれていた。


「殺虫スプレーで退治したくなる、生理的嫌悪感を覚える人類の敵……?」


 無機質な視線を浴びる。


 それでも、束の間の静寂は長くは持たなかった。

 飛び掛かる人影の化物。四足歩行で走る速度が本能的に無理。突如電流が迸る。


 ───逃げよう!


「やっぱり!! もうゴの付くヤツだよ!!」


 心が拒否していた。素早い動き。身近に起きる限局性恐怖症が呼び覚ます。


 崩れかけの鳥居の階段を必死に下りていくが、四足歩行で暴れだす人影の化物の体重に鳥居は耐えきれず木っ端微塵に粉砕。何を囁きながら地上に落下していく人影達。その伸びる腕に戦慄を覚えるものの、雑念を消す未来はとにかく虚構空間から脱出することだけを考えた。


「呪詛のような声が、頭の中に響いて、痛い……ッ」


 両手で耳を塞ぎたい。


 けれど、後ろを振り返ってはいけない。


 振り返れば死ぬ。背後に迫る極彩色の双眼。想像するだけでもおぞましい。


 弱音を吐くな。


 一瞬見せた気の緩みで全てが水の泡になる。元々運動神経が良かった未来は自慢の脚力で鳥居の階段を下りてはいるが、着地を誤れば一寸先は闇。それ以前の問題として、スタミナという活動期限が底を尽きる方が早いのか。


(走れ。走るんだ……!!)


 呼吸が辛すぎる。


 闘争心でカバーしなければ、見えない絶念に呑み込まれてしまう。


 地獄絵図だ。己の身体能力を信じるしかなかった。


 亀裂が走る鳥居の城。終わらない悪魔の囁き。入り乱れる負の感情。地上に降り注ぐ大量の腕は未来を探し伸びていた。めげずに出口を探す未来は咄嗟に壁や地形を利用して障害物を避けるように飛び移る。


 生と死を反復して、十死一生のパルクールはこれ以上続くかと思っていた。


 しかし、目の前に訪れた『嫉妬』には為す術がない。


「ッ……!?」


 四足歩行とは違う。全く別の個体。


 ほとんどの人影の化物は重力に逆らえず落下していた。なのに、未来の前に降下してきた仇なす存在は姿を隠す必要もなく宙を浮かんでいたのだ。


 行き場を拒む強敵。現実になる脅威の遭遇。


 光を拒絶する影に。


 未来が身構えることも。目の色を変えることも許されず。


 双眼に閃光が迸る。人影の化物は動きを停止したまま、未来が瞬いた途端、視界を鮮血に染める極彩色の破壊光線が羨望染みた悲鳴と共に放たれて、死をもたらす衝撃波は周辺全てを融解させる。


 助からない。


 というか。そもそも避ける術があったのだろうか。


 結局分からずじまいだ。


 何せ、痛覚が到達する寸前。未来の意識が全ての記憶を失ってしまう前に。


 あの日を彷彿とさせる、青い奇蹟を目撃した───。


「───明鏡結界・穢流し」


 極彩色の悪意を断ち切る蒼天の一撃。

 無慈悲に。負の感情という『穢れ』を葬る熾烈な閃光が世界にどよめいた。


「何が起きて……?」


 静寂は取り戻す。


 立ち上る煙幕に思わず未来はケホケホと咳き込んでしまう。


 息苦しいが一応生きている。正直死んだかと思っていた。必死にぱたぱた扇いでいると、霞んだ視界が晴れて鮮明になっていく。そして、眼前に佇んでいたのは、人差し指と中指の間に数枚の護符を挟むホワイトパーカーの少年がいた。


 青い亀裂が走る人影の化物に向けて。前に翳す手を振るう少年と。


 偶然と目が合う。


「誰……?」


 意味も分からずに、仙崎未来と日比谷航の奇妙な物語が始まるのであった。

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