4話  瞳に映る世界の色が変わるまでは

 光を拒絶した世界は、なんて物寂しいものだろうか。


 風化した景色の中で蘇る自分以外の感情。未来に訴え掛けてくる心はガラス細工のように脆く、心臓の奥を締め付けようとする。重圧が未来を苦しめても顔色は一切変えず、壊れたレディオみたいな雑音では彼女の心には届かない。


 目の前の真実を見据えれば。


 同情を買おうとする、涙頂戴の捏造劇にそう易々と騙される訳がないのだ。


 嫌気が差すだけだ。


「覚えている。……ここは、虚構の世界なんだ」


 キャンバスを灰色に塗り替えた虚構の空間では、躍り狂う高揚の舞踏会も、祝福に溺れる讃美歌さえも、全てが幻想に過ぎない。幼い頃に焼き付いた記憶と瓜二つの景色を眺めたところで、眼前に広がる景色はフェイクそのもの。


 偽装なんて興味がない。


 再び虚構空間に迷い込んだ少女が唯一求めているものは。


 過去という墓場に無くした、黄金の鍵だ。


「……本当は、思い出したくもなかったんだ」


 大地は深く抉れ、枯れた木々は宙に浮かび、細い根を晒している。遊具は完全に腐りきっており、錆を纏う実物は禍々しい。建築物もそうだ。人類が築いた叡智の結晶は廃れてしまい、光の灯さない灰空市は廃墟化した。まるで、未来以外の物体が無重量状態の住人だと言わんばかりに。


 人の認識できない、忘却の狭間で、未来は静かに佇んでいた。


「私は、誰かの背中に隠れながら見ているだけだった。ただただ守られるばかりの、お転婆で無邪気な私。それでいて泣き虫で意気地無しの、私……」


 孤独に染まる。


 右も左も分からない。平衡感覚を狂わせる暗闇の世界。


 心臓を握られる感覚に襲われる。大切な人達の温もりが途絶えて、記憶の面影はガラスみたいに砕かれていく。足掻いても苦しみは消えない。精一杯の幼稚な精神では打破することも出来ず、不安を抱えたその瞬間。


 ───乾いた心の中に恐怖を思い出した。


『……嫌だよ』


 見えない絶望に怯え、泣きじゃくる姿は一滴の奇蹟を探して。


『誰か、助けてよ……』


 手掛かりもなければ助かる保証もないのに。

 他人の手を借りなければ、二度と現実の世界に戻れないのかもしれないのに。


 体感じゃ分からない。どれほどの時間が経過したのだろうか。

 一向に助けが来る気配がない。誰もが分かる絶体絶命。命を露出する美しい悲劇こそ、人生で最も光輝くものであると、当時の未来は思い知らされた。


 未来は『孤独』だった。


『嫌、いやあああああああああぁぁぁぁぁァァァァァッ───!!』


 あまりにも無謀で。あまりにも無能で。あまりにも無力で。


 前が見えない。希望が見当たらない。


 助けてと窮地に陥る未来。暗黒の大地に這う謎の気配にメンタルが崩壊。

 蛇腹に蠢き、徘徊する存在がどこかにいる。徐々に近付いてくる振動が身体に堪えて、未来の思考は真っ白になり、絶望を目の当たりにする。


 泣いている自分は。


 どうして、悪夢を覗いてしまったのだろうか。


「……あれから10年。忘れたこともない。これは、トラウマの続きなんだ」


 一層と鋭くなる視線の先にあるのは。


 月日を重ねた言葉の重さの意味を、未来は誰よりも知っていた。


「悪夢はまだ続いている」


 腐食した建築物が次々と倒壊していく。


 凪ぎ払われる衝撃とその風圧に耐え切れず木っ端微塵にされる。

 爆音は灰空市のような都市全体に轟き、巻き上がる砂塵は景色を覆い隠す。濃霧の中にシルエットが見えた。明らかにヒトではない。年月を掛けて縦横無尽に地形を破壊し、虚構空間に徘徊する人影の巨人は、呪詛を含んだ恐ろしい産声を上げては向こう側にある世界の最果てをまだ知らずにいる。


 朽ち果てた大地を耕すシュールな光景。まるで、四つん這いの幼児のように。


 震動は遠退いていく。


「……忘れ物。忘れ物を探さないと」


 握り潰す胸の苦しみは未だに続いている。


 確かに息苦しい。フラッシュバックする恐怖の衝動が鮮明に蘇るけれど、弱音は吐かない。過去の経験に焼き付いた記憶が拒絶しているだけだ。


 その程度のトラウマだろうが、抗い続ける未来にこの拒絶は無意味に等しい。

 何よりも、泣き虫だった過去の自分が情けなくて。


 怒りが込み上げてくる。


 心踊る高揚を略奪されて。両親の慈愛を渇望する幼い頃の未来は、矮小な人間性に傾いた中途半端な自分だ。青碧眼の少女が見せたちっぽけな奇蹟に縋るだけの、臆病者で未熟だった自分を許すために。



 ───未来は過去を清算する。



 自力で進められなかった一歩を大地に刻んで。再びリュックを背負う未来は面影のある桜花公園とお別れをして、何も振り返らずに踵を返す。

 俯いている暇はない。

 決して地面に触れることのない落ち葉や障害物を掻き分けながら、かつて自分が虚構空間に迷い込んでしまった禁足地を目指して進む。


 当時、何も見えなかった。


 手に触れた感触も分からず、静寂は何も教えてくれない。誰かの応援が届かない暗黒の世界で悲嘆するだけの未来には辟易している。


 縋る姿はあまりにも惨めだろう。そこに恥ずかしさの欠片もない。

 何度倒れようが何度でも立ち上がる。身体が傷付いても、心がボロボロになろうが生きることに精一杯だった。地面に這いつくばり、拳を握るのを諦めない少女の反骨精神だけは、マッチ棒程度の火を灯していた。


 生き残るんだ。


 必ず、当たり前の日常に帰るんだ。


 そんな、現在と過去と重ね合わせた意志の証明は。

 届くハズがないと頭の中では理解しても、それでも伸ばした手は挫けなかった。


 前に進む。進み続ける。


 歩みを止めるな。瞳に映る世界の色が変わるまでは───。

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