2話 真夏の有頂天
あの時。どうして必死に握りしめていたのかを、未だに分からない。
夏祭りの戦利品、玩具の鍵を───。
◆
微睡みに溺れる瞳の奥に。新しい光が差し込んでいく。
「んぐ……、あと、もう少しで……」
蘇る世界。
数多な色彩が出迎えてくれる。
眠りこけていた未来は瞬きを繰り返し涙目を擦る。自分はうだるような蒸し暑さの日々を過ごしていたことに気付く。いつの間にか眠っていた。けれど妙に冷たい感覚に起こされて、不意に視線を移してみると、お気に入りの私服にはカラフルな模様が滴るように描いているではないか。
「ハッ……!?」
手元に残ったのは『ハズレ』の棒だけ。
意識が鮮明になる前にアイスキャンディーは美味しそうに溶けていたのだ。
「……」
なるほど。理解した。つまり、純粋な寒気で目が覚めたのか。
棒を投げた。
「未来は悪くないもん。未来が寝ちゃったことも全部、アイスが悪いんだよ!」
こぼれる無邪気な愚痴。これ以上何を溢すのだろう。熱気に劣らない反逆の声ではあるが、服を汚したことは紛れもなく自分が悪い。ハズレの棒に悪戦苦闘をしていると、くれ縁に続く廊下の奥から物音がこちらに近付いてくる。
洗濯物を取り込み、鼻歌を口ずさむ母の姿があった。
対して、ハズレの棒に攻撃的になる未来は母の気配に気付いておらず、一生懸命真っ二つに割ろうとするが、手が滑ってしまい、棒は宙に飛んでは円を描き、最後には母の顔に直撃。そのまま洗濯カゴにシュート。
「あ」
ご機嫌だった母の笑顔が強張っていく。
北極よりも凍てつく慈愛の視線。母に怒られるのは時間以前の問題だった。
鼻歌が消える。
「……未来、知らないでしょうけど、あなたの服が汚れているの。着替え、カゴの中にたーくさんあるから。怒らないから、さぁ、こっちに来なさい?」
「うぎゃあぁぁぁ!」
大人の脚力には勝てない。
母は強しというが、その通りだと思う。逃げようとしたところで距離を詰める母は首根っこを掴み、鬼の形相に思わず未来は絶叫する始末。
「鬼! 怒らないってお母さんの嘘つきー!」
「お母さんは怒らないって言いました。でも、叱らないとは言ってませーん!」
「ご、ごめんなさーい!!」
紆余曲折を含めて、未来が大嫌いな季節。
今年も『夏』がやってきた。
肌を刺す太陽の日差し。コバルトブルーの空に立ち上るもくもくの積乱雲。公園ではセミ達の限られた喧騒が毎日のように繰り返す。どれだけアスファルトの地面を追い掛けたとしても、逃げ水は未来を相手にしてくれない。
「……なんで、未来から逃げるの?」
頬を拭っても汗は止まらない。帽子の裏で出来た影が全然活躍してくれない。
子供の好奇心は大人達の目を丸くさせる。
発想力が柔軟だからこそ、常識の枷が外れてしまう。毎日が新しい冒険だ。心の疑念は七月の快晴のようにさっぱりと晴れていく。
───そんな、夏の有頂天が続いたある日を境に。
熱気で疲弊した心を癒す特別な夜景を、五歳だった未来の瞳に焼き付いた。
盛大に響き渡る轟音と共に。
雲一つない夜空に燦々と咲き誇るのは大輪の花。
儚く散ってはまた咲いて。
息を呑み、瞬きを忘れてしまうほどの鮮やかな花模様。
本当はもっと眺めていたいのに。空気が読めない風は気の向くままに居場所を見失った白煙を空の彼方に運んでは去っていく。
儚いけど、ちっぽけな視界で見出した景色は、とても綺麗だった───。
「これが、花火……」
朧気に照らす淡い街灯に包まれた街並み。
人々の足音は次第に消えて。その特別な輝きに言の葉さえも途絶える。
その日。
───同じ夜空をみんなは眺めていた。
花模様の残滓が宙に溶けていく。花火はなんて儚いものなのだろうか。一瞬だけの記憶に焼き付いた煌めきに困惑していた心は涙が溢れてしまう。
胸の奥に付き纏う痛み。締め付ける感覚に瞳は潤う。きっと涙は屋台から出る煙の仕業だったのかもしれない。そうやって自分自身を誤魔化そうとするが、大切な人達の眩しい笑顔を覗いた瞬間、情緒は陽炎のようにユラユラと揺れていた。
───そうだった。
夏祭りという、どこか懐かしい言葉の響きに釣られて。
苦難を乗り越えて、感動の再会に心が弾む一方で。全てが正しいとは限らない。
もしも目の色を変えなければ。
当たり障りのない、平凡的な理想郷を描いていたのだろうか。
それでも現実は理不尽に。
真実を下す天秤は、他人の意思のように、悲劇を待ち望んだに違いない───。
◆
「ぐ、苦じい……」
ぎゅう詰めになる人の往来。喧しいくらいの不協和音が閑寂の空を台無しに。
気分が削がれた未来は心底うんざりしていた。
予想外の立ち往来。流石に感情が煮える。日々のフラストレーションを発散するつもりが余計にもどかしい。今年の中でも一番イライラしているに違いない。次第に痺れを切らした人達が突如強引に人の往来を掻き分けてしまう。
───マズイことになった。
あまりにも非常識で融通が利かない行為。その様子を伺っていた群衆は注意換気を促した途端、当時の新聞に掲載されるほどの大騒動に繋がってしまった。
五歳でも分かる。
明媚に映る夜景のハズが。
無価値に等しい鬱憤によって雰囲気が壊れることを。
散乱するくしゃくしゃの紙袋。飛ばされる可燃ゴミを遠目で眺める。
堪忍の緒が切れた報復の応酬は続く。場違いなほどの狂乱のカーニバルは無関係な人達さえも巻き込んでいく。
時間が勝手に落着するだろうと。
頭を冷やし、冷静を欠いた感情が元通りになるだろうと。
誰もがそう思っていた。
「……え?」
だがしかし、ほんのわずかな膠着状態の間、未来が違和感を覚えたところで一度破損した感情は誰にも止められず、事態の深刻さは一層と加速していく。
この時。父と手を繋いでいた未来はまだ知らないでいた。
逃げ惑う群衆が。
振動に伝う不安と恐怖の叫喚が。
突然、唐突に暴徒と化した老若男女による嗜虐的な反乱分子が起きたことを。
───『憤怒』は感染する。
照準を定める眼光。狂気に満ちた鋭利な目付き。
嘲笑う。心髄の奥底に抑圧されていた狂暴性な一面が顕著しており、正常な感情をコントロールさせる潜在意識は皆無状態。景色に紛れ込むのは、ただただ破壊の衝動を尽くし、吹き飛んだ理性はまるで憤怒に支配された畜生の姿。
言葉を足すとするならば。
檻を抉じ開けた空腹の猛獣が、無作為に獲物を飛び掛かるところだろうか。
それでも、特別な一日を蝕む異様は止められない。
「なにこれ……」
拒絶した悲鳴がどんどん遠退いていく。
幼い知性が覚醒する前に。熱を帯びた心の高揚が冷めていく。
血の気を引く未来の視界は悪くも現実を突き付けた。色付く景色が褪せていくと共に鼓動を打ち続ける心臓の音が速くなり、恐怖と対面する動悸はこれから起きるであろう悲劇に危惧を促す。
頬に伝う汗は止まらない。
感覚が警戒している。あくまでも悲劇はほんの序章に過ぎないと。
「ッ!? 未来───!!」
視界に迫る群衆の波に耐えきれず、騒動に呑み込まれた未来は繋いでいた手を離してしまう。はぐれる両親を前に手を伸ばそうとしても届かない。
安心する声が遠退いていく。
危機から逃れようとする本能は欺けない。不安は常に隣り合わせみたいに。
群衆の波の一部に染まる未来は戸惑いを隠しきれない。その一時の戸惑いが不安材料になる前に、温もりが残る華奢な手を握ってくれる人がいた。
「掴まって!」
両親が見付けてくれたのだと、最初はそう思っていた。
けれど、可愛らしい声音の主は、未来と同じくらいの凛々しい女の子だった。
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