1話 現実と虚構
憎愛。
まだ真実の届かないその世界で。少女の心は虚飾の影に沈んでいた───。
◆
真っ白な吐息が溢れる。
旅人を歓迎する乾燥した秋晴れの空気。
季節を越す小さな旅客は翼を羽ばたいて、寂寥感に包まれた寒気の訪れと共に、灰空市の空に秋曇の世界を描いていた。
特別でもなければ、変哲もないそんな坂道を、一人の少女は駆けていく。
辺りを見渡してみると。
見慣れた青天井の風景が歓迎するように広がっていた。
伸ばした手が届きそうな空の表情。
眺める度に模様が変わっていて、瞳に浸す半透明な蜃気楼に時間を惚けてしまいそうになるけれど、少女はその先に続く世界を眺めていたい。心に焼き付けた記憶を辿るように、走り出した物語は成長した彼女と共に綴ることだろう。
小さな視界で夢を眺めていた、幼少期時代よりも。
来年で高校生になる今の彼女には、一体何が映っているのだろうか。
もしも瞳に映る景色が欺瞞で満ちたノイズの海だとしても、たとえ瞳に映る景色が狂気に覆われた有象無象の狂乱だとしても、曇る世界が晴れてしまえば、一時の息苦しさなんて簡単に吹き飛んでしまうものだ。
真実は必ず見付かる。
金平糖程度のちっぽけな理由に深い意味はないかもしれない。
心は単純だ。
だからこそ複雑になって、気分次第によって心は無限の可能性が秘めている。
まるで『魔法』みたいに。
「重ねた秋の面影。見上げた景色は、きっと私達と同じなんだね」
頭上に踊り揺れる枯れ葉を軽やかにジャンプして掴むのは、移り行く季節の変化に感銘を覚えた、灰空市に過ごす中学生の少女───。
仙崎未来は踊る。
彩りに満たされた紅葉の絨毯に溶け込む。
微風に茶髪は靡いて、ダッフルコートを着こなす彼女は両手を広げた。回天する歓喜の舞いと共に、紅葉の雨は螺旋を描いて降り注ぐ。
そんな季節の移り行く場所。
幼少期に過ごした彼女にとって、桜花公園は特別な場所だった。
始まりの居場所。微睡みを誘う平和な気温のお陰で欠伸をしそうになる。澄んだ空気を運ぶ金風は少し冷たくて、転寝の意識を整えてくれる。そして灰空市全体を展望できる広大な景色は未来のお気に入りで、懐かしそうに見据えていた。
灰空市を照らす太陽の日差しを眺めて。
掲げた手は光と重ねる。
将来の夢を。この手で掴んでみせると、自分自身にそう誓ってみせた。
「この落ち葉みたいに。必ず、絶対に合格してやるんだ───」
思い出は過去の滞り。
二度と触れることのない時間のよすがに。
見失うことの恐怖に怯えて、未来は知らない素振りで誤魔化してきた。
なのに。
ありふれた日常は幸せで。
今佇んでいる世界はきっと過去の産物になるだろう。
大切にしたい。
限りのある時間がとても愛おしいものだと。
やがて訪れるエンディング。
二律背反する結末は決してハッピーエンドとは限らないように。
膨大な数の痛みと苦しみ。それが毒牙になって理不尽に襲い掛かるのだ。出会いと別れ。必然的に辿り着く答えは悲愴か。些細な喜びよりも悲しみの知らせが流布していく世の中で、夢を描いた少女の瞳に映るのは、現実逃避する為の空想なんかじゃない。黄昏色に染まった本物の『世界』だった。
最も近くにある存在。最も遠くにある存在。
忘れてはいけない。心に刻んだ大切な思い出のことを。そして立ちはだかる障壁となり、自分を成長する為の試練となる。
結果が全てだ。みんなはそう口を揃えて言うけれど。
いつまでも優しい世界に逃げても、結果なんて何も変わらない。むしろ束縛する思想こそが猛毒に繋がるのかもしれない。確かに逃げることは賢明だ。成功に辿り着くこともある。けれど、自分への成長には繋がらない。抗えた先に見える景色が、過去を乗り越えた自分の姿があるならば。
───未来を越えたい。
明るい将来を描こう。どんなに失敗をしても次に繋げられるように。
暗い話に別れを告げよう。後悔する時間がもったいない。
希望という道は無限に続いている。その道を未来が開拓すればいいだけだ。
前に進もう。
「もう、そろそろ行かなきゃ……!」
今日を楽しむ。新しい白日に向けて、逡巡するのはやめた。
彼女は強くリュックを背負う。
帰るべき居場所を目指す為に。踏み出した勇気は留まる理由さえも知らず。満ち足りた自信は誰だろうと邪魔されない。
弱さを勇気に変えて。
微風を運ぶ、そんな穏やかな季節の真っ只中に。
嫉妬に囚われた心の狂乱が、水のようにぴしゃりと弾けた───。
「……え?」
空気の流れが途絶える。
紅葉の絨毯を敷き詰める枯れ葉。それが静まり返るようにピタリと止んでいた。
突然として潰えた、少し悴む程度の季節の知らせ。
心臓を握り潰すドス黒い感覚のことを。
未来は覚えている。
「まさか……!」
身の毛がよだつ気配。察知した未来は振り返ろうとするが。
間に合わない。見えない衝撃が手元を狂わせる。振り払う感触。持っていたハズの枯れ葉が意図も簡単に飛ばされてしまう。
必死に手を伸ばして取り戻そうとするが、触れられそうな距離で枯れ葉は鋭利な刃物で切られたみたいに縦に線が走り、呆気なく真っ二つに割れた。
「……!?」
虚を衝くハプニングに体勢が崩れる。
手が地面に触れる瞬間、その合図と共に空気が一転。
幼い頃に慣れ親しんだ、懐かしさを滲ませる公園が変貌を遂げてしまう。
ふと気付けば。
世界が『夜』そのものになっていた───。
いいや。違う。騙されるな。片隅にある記憶が世界の違和感を覚えている。視界に広がる暗闇の景色は今まで自分が見てきたものなんかじゃない。
これは、悪夢の続きだった。
優しい光を拒絶した虚構を聳える狭間の世界。
極彩色に侵食された仄暗い公園。そこに過去の面影はとうに見当たらない。
のし掛かる重圧が肺を締める。息が思うように続かない。
(マズイ。息が、溺れて……)
淀んだ空気。本能は拒絶反応を示す。身動きができないのだ。足枷を背負う感覚に陥る未来は血の気が引いた。静かに藻掻く。小さな水槽に押し込まれるトラウマが間断なく続いて、見えない苦痛が華奢な身体に堪えるが、
「───違う。弱気になるな、……私!!」
自分自身に一喝。
過呼吸になる前に叱責することで対処を講じることができた。
だがしかし、焦る瞳が捉えた光景というものは日常の風景が何処にもなく、濃霧に覆われた灰空市のようなモノが顕著していた。
氷のように冷たく無機質な、色彩が欠けたカラッポの空間があるだけ。
心に刻むのは虚無感の烙印のみ。
ただただ『虚構』だけが。空間を支配していた。
「……そっか」
怯えることも。諦めることも。不条理な現実から目を背けることはしない。
一層と強めるのは、怠らない警戒心だ。
「あのとき、私が見た人の影は、私の心の中にあった恐怖から現れたんじゃない。もっと、亀裂を走らせるような、真っ黒な悪意が渦巻いていたんだ」
過去の自分が知っている、束の間に訪れた奇妙な違和感。
蘇る不穏な予感が目の色を変える。常に疑問を抱いていた未知の領域が、数年を経て再び想起させるなんて。
忘れもしない。
外の世界を知らなかった、仄暗い記憶のことだ───。
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