第6話
想いが大作を夢の世界へ連れて行ってくれた。大作は小説家を諦めたわけではなかったが、新聞配達以外に新たに仕事を始めた。小説とは程遠く大工の見習いになったのだった。想像以上に大工の仕事の世界は厳しく肉体労働だけでなかった。特に職人同士の上下関係にも苦しんだ。辛く厳しい世界へと行ったが大作は幸せでいっぱいだった。すみれは、相変わらず銀行で遅いソロバンをはじいていた。班長に怒られながらも一生懸命頑張っていた。しかし、すみれの持前である優しさと明るさに銀行内では人気者であった。ただ、大阪への出張が多くなってきた。それがはじまりだったのだ。それは、すみれと大作の距離であった。出張の内容といえば、大阪の会社の事務手伝いであった。いわば派遣のような形であったのだ。そのため、大作と会う機会が次第に減っていった。しかし、会う機会が減れば減る以上にすみれに会いたいう気持ちが強くなるばかりだった。それは、すみれも同様であり大作への想いが脳裏から離れることはなかった。そのため、手紙でのやり取りが増えていった。
大阪の会社は老舗であり、大規模で従業員も多かったのだが、どうやら社長はすみれの銀行を訪問した際にすみれに一目惚れしたのだった。社長は妻に先立たれていた。すみれはいわば秘書のような仕事もしていた。ある日のことだった。
「山下さん、今日は食事に付き合ってくれないか。」
「はい、わかりました。」
遂にすみれにとって恐れていたことが起こった。すみれは社長の好意は十分過ぎるほど感じていた。すみれが社長の誘いを断れるはずがなかった。仕方なく言われるがままに食事に行くことになった。社長が連れて行ったのは当時では珍しい大阪でも有名なフランス料理店だった。すみれは初めて見る料理だったのだ。普段は白ご飯に味噌汁とせいぜい魚を食べるだけの生活であったため、すみれにとって初めて見るものばかり。従業員がひとつひとつ丁寧に料理の説明をするも、まるで外国語を聞くようだった。しかし、すみれは悲しい想いに襲われた。そして大作を思い出しては頬に伝わるものがあった。それに気づいた社長は声をかけた。
「どうして、泣いているの。」
「いえ・・・」
すみれは満足に答えることができなかった。すみれにとって、貧富の差というものをこれだけ感じた初めての日だった。大作とのお弁当を初めて食べた時のことが思い出された。すみれは料理の味より自らの涙の塩の味のみだったのかもしれない。
あまりに泣き出しはじめるすみれに社長は驚きを隠せず、慌てて料理店を出たのだったのだ。
「すみれさん、どうして泣くの。すみれさんが悲しい想いをしたとしか思えなかったけど・・・ごめんね、今日は帰ろう。」
「せっかく、誘っていただいたのに申し訳ありません。」
社長の優しい言葉かけにすみれは複雑な気持ちになったのだ。
ある日、清美が泉が丘障がい児施設に行った時のことだった。園長先生から来月に悠太の再手術が行われるとの話を聞き清美は今度ばかりこそと清美は期待を胸に膨らませた。同時に悠太の母親からも電話があり不安であることを聞いたのだった。
清美は今度は必ず成功するということを信じるように伝え励ました。園の中では悠太が元気な声で清美に話しかける。
「清美お姉ちゃん、僕は今度ね、手術をすることになったんだ。今度の手術はもっと腕が良くなるようにするみたい。」
「本当、それは良かったね、今度の手術でもっともっと良くなるよ。」
清美はそう答えたが、もし成功できなかった時のことを想像し不安にかられた。悠太の笑顔が悲しみに変わらないことを祈るばかりだった。その後、清美は直哉とそのことについて相談した。直哉も同様の気持ちであり、互いに支え合うしかなかった。手術は来月に行われる予定であり、園長の話によれば難しい手術のようだった。清美は来月まで不安な日々を過ごすこととなったのだ。それを、唯一、理解してくれるのはやはり直哉だった。今も清美は直哉が全ての存在であり、心のよりどころであったのだ。悠太の笑顔を想像する度に清美は胸が締め付けられるような想いで一杯だった。想えば想うに涙で溢れてきては止まることを知らなかった。
どうか、悠太の手術が成功してほしいと藁をつかみたくなるようでもあったのだ。
そして、手術の日が訪れた。当日は悠太は当然とはいえ落ち着かず、清美と互いに成功の確認をしあっていた。手術直前の悠太は子供だからこそかもしれないが清美達とは裏腹に元気一杯だった。そして、清美と母親の手を触れて手術室へ入っていった。
不安で一杯だった、母親、清美、園長に直哉、手術の時が流れる長さが苦痛であった。特に清美は時の流れる遅さに憎しみを感じるほどであり。手術が終わってからの医者がどのような表情で説明するのかがが気になってたまらなかった。憎しみの時は意外に早かった。執刀医が手術室から看護師とともに清美と母親たちの前に現れた。そして、こう告げた。
「手術は成功です。」
清美をはじめ皆がうれしさのあまりに泣き崩れた。悠太は麻酔が聞いているのかピクリともしていない。しかし、手術は成功だったのだ、その後に執刀医からの説明があり、次第に右手は動くようになるとのことだった。翌日はやってきた、手術は終わった。悠太の右腕は痛々しいほど包帯等の処置が行われていたが悠太には満面の笑みがあった。清美達もまるで生きた心地がしなかった時を乗り越え疲れ切って休んだが、手術の成功という幸せを迎えていた。施設内では手術を控えている子供もいたり、リハビリで頑張っている子供達もいたので明るいニュースで盛り上がった
泉が丘障がい児施設に優しい灯りが灯ったのだった。
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