第3話 春の訪れとして寂しくも優しくなる音

春の音は確かに聞こえたのだが大作には不安の音も聞こえていた。

「今日も来なかった。昨日も来なかった。一昨日も来なかった。僕は木の下で待ち続けているけれど、どうしてすみれさんは来なくなったのだろうか?僕が一人前に働いていないから愛想をつくしたのかな。」

そう、呟いていたところにすみれの明るい声が響いた。

「大作さん、お久しぶりです。昨日まで銀行の書類を大阪まで届けにいっていました。初めて、出張というものを経験してきました。銀行から急な命令で大作さんに告げることができませんでした。でも、不思議なのです。大阪まで遠いのに一番年少の私が班長から突然命令を受けてびっくりしました。」

大作はすみれが来なくなったので不安に思っていただけに声をかけられた途端に表情が明るくなった。

「これは、ちょっとしたお土産と思ってください。」

すみれは荷物入れの中から着物を着た可愛らしい人形を取り出した。人形の大きさは20㎝くらいで花柄模様の入った着物を着ていた。衣装は花嫁衣裳である。もしかしたら、すみれは自分が大作と結婚したいという願いが込められていたのかもしれなかった。

「着物の花がとてもきれいで買ってきました。ぜんまいを巻くと歩く仕掛けになっているのですが、汽車の中で壊れたのか前に進まなくなったのです。それがとても残念なのですけどよろしければ受け取ってもらえませんか。」

すみれは少し悲しげな表情を浮かべたが、きれいな花柄の着物を来た花嫁人形は大作の心を捉えて仕方がなかった。大作が心を捉えた理由もすみれと同様の願いから来る気持ちだったかもしれない。

「本当に僕が貰ってもいいのかな、本当にきれいな花柄だね。」

「そうでしょう、喜んでいただいてうれしいです。」

「僕もうれしいよ、でも何よりすみれさんが僕の目の前にいることが一番かな。ありがとう、すみれさん。この人形はすみれさんだと思って大事にするよ。」

「そう、言っていただいてうれしいです。」

「実はもう、すみれさんは僕のことが嫌いになったのかなと思っていたから、余計にうれしいよ。」

「本当ですか、大作さんはおつき合いされていらっしゃる女性の人はいらっしゃるのですか。」

「もし、いたら、すみれさんとこうやって話すことはないだろう。この花嫁人形はすみれさんだと思って大事にするよ。」

「すみれさんこそ、おつき合いされている男性はいるのですか。」

「大作さんも意地悪ですね。」

大作は恥ずかしさのあまり言葉に出すことができなかった。それを察したのかすみれは大作の手を優しく握りしめた。大作はすみれの優しい手のひらを強く握りしめることができずに何もいえず家路へと向かったのだった。そこには繊細に舞い降りた桜の花びらが芝生の生えた地面を優しく覆っていた。



 障がい児施設は特に手足の不自由である障がい児が多く新設されて1年ほど経過しており、男女別の棟に分かれて、広く清潔感に溢れていた。両親が働いて介護が困難だったり、なかには両親がいないために入所しているケースが多かった。それぞれの児童の家庭には色々な事情があったのだ。しかし、子供達は親と離れてさびしい想いをしていてもおかしくはないが、明るい声が施設の中に常にこだましていたのだった。

清美は毎日といってもいいくらい、明るく元気にボランティアに参加していた。銀行の仕事が終わって疲れているにもかかわらず頑張っていた。ボランティアの内容は介護のお手伝いや子供達の遊び相手になることが主だった。それが子供達の心を捉えていたのだった。清美にとって子供達の笑顔はまるで自分の小さな幸せを象徴するようなものであった。はたから見れば慈善事業にしか見えなかったかもしれないが、清美の生きがいであり笑顔の原動力だったのであろう。施設は白い壁であったが清美の優しい色で染まっていたのかもしれない。施設に到着すると、早速、子供達が清美に甘えてきたのだった。

「清美お姉ちゃん、風船を膨らませてちょうだい。」

「いいわよ。」

そう清美は答えると、少し大きめの目が風船と共に開いていった。ピンク色の風船はどんどん大きくなっていったが、清美は破裂するのが怖くて途中で止めた。

「和美ちゃん、これでいい。」

「わあ、大きい、風船投げっこしよう。」

そう、和美が言うと周囲の子供達が集まりみんなで投げっこが始まった。風船は右に飛んだり左に飛んだり、後ろに飛んだりした。そこには笑顔が舞い、楽し気な声が施設内に響いた。キャキャと喜ぶ子供達に対して清美は一抹の不安を感じ始めた。

風船が破裂するだけでなく、今ある幸せも破裂しそうに思えたのだ。清美にとってはどうかこのままの幸せが続くことができるよう願うばかりだった。

「あ、清美姉ちゃん、風船が飛んでいった。」

外の強風により風船は北の方角へ飛んで行き、一人の少年が追いかけていったが消えていった。なぜか、清美は直哉のこと生活や仕事のことが気になって仕方がなかった。冷たい風の音と風船が、破れてしまいそうな音として、清美の心に響いたのだった。

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