1章
第2話 訃報
訃報は出勤前に届いた。
一年間、共に仕事をしてきた仲間が自らの命を絶ったと、聴き慣れた声は電話口で告げた。
『自殺なんて愚行を犯すとは、“トレスウィリ”ともあろう者が、そのような禁忌を犯すなんて、良い様ですわね』
電話の向こうの彼女は、職場で洗濯をしたり掃除を手伝ってくれたりする、いわば雑用係だ。
神から与えられた命を、自ら絶つ事は最大の禁忌とされている。
この命は神のもので、自らの意思でどうこうしていいものではない。殺人も同様に大罪だ。神の意思がなければ、誰も命に触れてはならないのが決まりなのだ。
『自殺は最も罪深い行為ですもの、救われる事などあり得ないとわからないわけでもないでしょうに。神への背信行為もいいところですわ。
その声には、暗さも明るさも微塵もない。言い慣れた報告をするかのような淡々とした調子を始終通す。
『それでは、後の事はトレスウィリの務めですから、お願いしますわ』
遺体の発見はつい先刻だ。
部屋の中で、椅子を踏み台にし、
仕事の一環でもある自殺者の遺体処理を引き受けた俺は、現場に向かった。
まず感じたのは異臭だ。嗅ぎ慣れた臭いに怯む事なく、室内へと歩を進める。
初めて入る彼の部屋は、綺麗なものだ。本棚に雑誌類が、きちんと整理されていた。中には、ノートらしきものが数冊端に寄せられている。一冊を手に取って開くと、それが日記である事がわかった。
『○月△日。最近、剣を持つ手が震える。生きている人を殺すのは怖い。失敗した時が怖い。観衆の野次が私を怯ませる。動揺して失敗したら、私が殺されてしまう。死にたくない。私だって本当は誰も殺したくないのに。殺したくなんかないんだ』
数枚ページを
『△月□日。今日も声が聴こえる。怖い。耳を塞いでも聴こえる。どうして人は、あんな目で私を見るんだ。私はゴミじゃない。私はクズじゃない。でも私はゴミだ。クズだ。だから誰も話しかけて来ない。私を避ける。避けて黙って道を開ける。触れたくないんだ。私が汚いモノだから。この耳を切り落としたら、あの声は聴こえなくなるのだろうか。この目を押し潰したら、あの顔は見えなくなるだろうか。わかっている。焼きついたものは消えないんだ』
また捲る。
『□月×日。もう耐えられない。どうして私がこんな目に遭わなくてはならないんだ。こんな仕事はもう嫌だ。どうして私が人殺しをしなくてはならない? 死体なんて見たくない。気持ち悪い。怖い。もう駄目だ。頭がおかしくなりそうだ。耐えられない』
『□月□日。耐えられない。楽になりたい。肉体を殺せば魂は救われるのだ。楽になりたい』
『□月○日。神よ、この魂に憐れみを』
『□月△日。あわれみを』
それ以降はページを何度捲っても、同じ五文字だけが綴られているばかりだ。
そっと閉じたノートは、元通り本棚の隅に立てかけた。
洗い場は、振り返ってすぐに目に入る位置にある。そこに、汚れた食器は一つもなかった。
いつも陰鬱そうな顔で仕事をしていた彼らしく、薄暗い部屋だ。
特に乱れた様子のない整頓された部屋を見回してから、遺体の元へゆっくりと向かう。
報告通り、
決して安らかとは言えない、悔やみや悲しみで彩られた顔。負の感情を持ったそのまま、彼は永遠に時を止めてしまった。
床には、踏み台に使われたらしき椅子が倒れている。遺体の下には、
倒れている椅子を起こし、その上に立つ。遺体を持ち上げて、ロープの輪から頭を外す。椅子から下り、抱えている遺体を床にそっと寝かせた。数え切れないほど何度も繰り返した動作だった。おかげですっかり馴れてしまった。
机の上には、綺麗に折りたたまれた遺書らしきものがある。
『トレスウィリは悪魔だ。もうこんな悪魔の仕事には堪えられない。だから私は救われるのだ。ディス、すまない』
紙には、そうとだけ黒いインクで記されている。紙を元通り丁寧に折りたたんで、制服のポケットに突っ込んだ。
「……俺に謝ってどうすると言うんだ」
溜息を一つ落として、仲間だったものの体を、専用の袋に収めて担ぎ上げる。
また、深い穴を掘らなくてはならない。
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