寝言ハンバーグ

折原 一

寝言ハンバーグ

「はぁ…………」

 恵美子は悩んでいた。明日の献立を。

 はたから見れば大した問題ではないかもしれない。しかし、不器用な恵美子にとっては、晩御飯とは唯一息子を笑顔にすることができる大切なものだった。

 時計を見ると、もうすでに深夜二時を過ぎていた。明日のためにも早く寝なければならない。

 書き終わっている家計簿を閉じて、凝り固まった体を動かす。節々が音とともに痛みを発する。それからいつものように、息子の部屋にこっそりと入った。

 小学二年生の息子は、ベットの中で小さな寝息を立てて静かに寝ていた。恵美子は起こさないように近づくと、息子の頭を撫でた。

 父親が亡くなってから五年、息子は泣くこともなくなり、すっかりたくましくなった。皿洗いを手伝ってくれたり、掃除や洗濯も積極的に手伝ってくれる。本当によくできた自慢の息子だ。

 だからこそ私も、それに応えたいと思う。お金がないとはいえ、できる限りの幸せを、できる限りの愛情を、息子に与えたい。

 息子の前髪を上げると、五年前の傷が額に痛々しく残っている。この傷を見るたびに不安になる。

 はたして私は、母親になれているのだろうか。不満を抱かせてはいないだろうか、我慢を強いてはいないだろうか。私は、本当に頑張れているのだろうか。

 どれだけ悩んでも答えはでない。それを相談するような頼れる相手もいない。しかし、息子にとっては私だけが頼れる相手なのだ。私がしっかりしなければ。しっかりしなければ。

「……ああ、ダメよ私」

 涙を手で拭い、自分に気合を入れる。

「私がしっかりしなくちゃ。私がこの家を守るんだから」

 何度も言葉を繰り返し、自分を強くする。恵美子には慣れたことだった。

 そろそろ寝ようと思い、改めて息子の顔を覗く。

「お休み、健太」

 優しく頭をなでた、そのとき―――

「ハンバーグ」

「え」

 突如、息子が呟いた。表情に変化はなく、何事もなかったように寝息を立てている。

 寝言、なのだろう。

「ハンバーグ、ね。……うん、それにしましょうか」

 まさしく僥倖の一言だった。

 明日の献立が決まった恵美子は、意気揚々と部屋を出た。

 

 そして次の日の夜。

「わぁ!」

 夕食を見た健太は、歓声を上げた。

「ハンバーグだ! やった!」

「冷めないうちに食べましょう」

「うん! ちょうど食べたいと思ってたんだ~!」

 息子は急いで料理とお箸を並べ、食卓につき、こちらに笑顔を向けてきた。

「ありがとね、お母さん!」

 その純粋な笑顔に、恵美子はどうしようもないくらい嬉しくなった。

 それ以来、恵美子は息子の寝言を聞き、晩御飯を決めるようになった。どういうわけか寝言も毎日一個、決まって出てくるようだった。

 


 恵美子は毎日自分で料理を作り続けた。

 外食は一切せず、例え自身が風邪を引いていても、怪我をしていても、それでもご飯を作り続けた。なぜなら晩御飯を寝言の通りに作れば、必ず息子は笑ってくれるから。いつしか恵美子にとって、それだけが母親として自信の持てる、唯一の拠り所になっていた。そんな生活が六年ほど続いた。



 中学生になった健太は、ある日から寝言を言わなくなった。

 理由はわからない。しかし寝言を言わなくなった結果、献立を恵美子自身で作ることになり、そして健太はその晩御飯をよく残すようになった。

 息子が喜ぶ晩御飯を作る。これだけが心の支えだった恵美子にとって、それは自分が母親である存在意義を失うも同然だった。恵美子がどれだけ息子の寝床に張り付いても、何度夜が明けるまで待っても、息子が口を開くことはなかった。

 ある日、晩御飯の席で恵美子は息子に尋ねた。

「健太……最近晩御飯残すわよね?」

「えっ、あ~うん。ごめん」

 突然の恵美子からの質問に、戸惑いながら答える健太。

「どうしてなの? 量が多かったかしら?」

「うん、そうそう。最近ちょっと食欲無くて」

「ほんとに?」

「……うん」

 恵美子は、寝不足で鋭くなった疑惑の目で健太を睨む。健太は一向に目を合わせる気配がない。

「本当は私の晩御飯をまずいと思ってるんじゃないの」

「いや、そんなことないよ」

「嘘よ。最近食卓で『美味しい』って言ったことないでしょう。食べてても全然幸せそうじゃないもの」

 冷静ではあるが、徐々に恵美子の語気が強くなっていく。食卓の空気が張り詰めていく。

「そんなことないよ。いつも美味しいと思ってる」

「じゃあ明日は何が食べたい?」

「……別に、なんでもいい」

「なんでもいいじゃ駄目なのよ!」

 恵美子は思いっきりテーブルを叩いた。味噌汁が少しこぼれる。

「ねぇお願い、何が食べたいのか教えてよ。どんなものでも作るから。食べたいものをはっきり答えてよ!」

「……ごめんなさい」

「違う! 食べたいものを言って!」

 恵美子の手にぶつかり、コップが落ちて、割れる音が響く。

 恵美子の恫喝に健太は怯えていた。しかし、しばらく静寂が流れてから健太は口を開いた。

「じゃあもういいよ」

「えっ?」

「怒られるくらいだったら、お母さんの料理なんて食べたくない!」

 言いきった健太は、席を立った。

「待って! お願い! 私はあなたのために……」

 健太は一切耳を貸さず、そのまま自分の部屋に戻ってしまった。

「ああ……どうして、どうしてなのよ……」

 一人残された恵美子は、息子の気持ちを理解できずに泣くことしかできなかった。

 



 その夜、恵美子はいつも通り息子の寝室に向かった。

 健太はベットの中で寝息を立てていた。悪夢でも見ているのか、眉間に皺をよせて苦しそうに眠っている。

「ごめんね、健太。全部私が悪いの」

 恵美子は確かに息子のことを愛していた。しかし、それと同時に怖かった。息子に嫌われるのが、母親として当然のことができないのが、怖かった。

 考えてみれば恵美子は、健太の好きな食べ物すら知らなかった。今までただ言われた食事を用意するだけで、息子の好みも知らなかった。

 恵美子は眠っている健太の手を優しく握った。「まずい」と言われることを恐れて 震える恵美子は、まるで叱られることを怖がっている子供のようだった。

「お願いだから、教えて。一体何が食べたいの?」

 泣きそうな震え声で聞く恵美子。それに返すように健太は口を開いた。

「お母さん……」

 悩ましそうな表情から、心配するように声が漏れた。

 その瞬間、恵美子の表情は花が開いたようにパッと笑顔になった。

「うん……うん! ありがとう!」

 意気揚々と息子の部屋を出ると、恵美子はエプロンを着け、包丁を用意し、深夜にも関わらず料理の準備をし始めた。


 翌朝、リビングには美味しそうなハンバーグの匂いが広がっていた。





 

 

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