第9話

 金曜日。

 相澤さんと相談して、僕は上手さんとの仲をより深めるべく、放課後また一緒に帰ろう、と誘うつもりだった。

 ところがこの日は、上手さんの方から誘ってきた。


「一緒に帰ろ!」

「お、おう」


 これまで毎日断られ続けていたのは何だったのか。僕は拍子抜けしたものの、一緒に帰って色々話したい気持ちはあったので、すぐ合意した。

 異変を覚えたのは、教室から出てすぐの事だった。

 上手さんの雰囲気が、いつもと少し違っていた。

よく見ると、制服のリボンが外され、シャツのボタンが外されていた。

 青柳高校はけっこう身だしなみにうるさいので、着崩している生徒を見ることは少ない。特に上手さんは優等生のイメージだから、制服はいつもきちんと着ていた。

 このところ朝夕走って暑いから、という理由でブレザーは着ていない。

そうなると襟元から、普段はまず見ることのできない上手さんのきれいな鎖骨が、姿を現している。

 ちょうど靴箱のところで、上手さんが靴を取り出すため前傾姿勢になり、僕はそのことが気になって上手さんの襟元をじっと見てしまった。


「ん?」

「い、いや何でもない」


 鎖骨はもちろん、角度を変えればシャツの中まで覗けてしまいそうな開き方だった。健全な男子としては、気になって仕方がない。

 上手さんはどう思っているのだろうか。僕の視線には、気づいているのか。

 わざと胸元を開けて、何かをアピールしているのか……ただ、上手さんは優等生のイメージなので、身体的に誘惑してくるようなイメージはなかった。告白した時だってそういう要素はなく、あくまで気持ちだけが通っているとの認識だった。

 いつになくドキドキしながら、学校を出た。急に上手さんの襟元を意識してしまってから、僕はうまく会話ができなくなっていた。


「南條くん……」

「ん……」

「なんか……距離を感じるなあ」


 そう言って、上手さんは三十センチくらい空いていた二人の間のスペースを急に詰めてきた。腕と腕が触れ合うくらいだった。

 な、何だこれ?

 どうしてこんな、急に積極的なアピールしてくるんだ?

 というか、今こんなに近づかれたまずい。襟元が開いていて、それをほぼ真上から眺められてしまう。角度と光線状況によっては、僕にとっては秘密の花園であるところが見えてしまう。

 そのため僕は、上手さんの顔を正視できなくなってしまった。


「どうしてこっち向いてくれないの?」

「い、いや」

「なーに? 気になることあるなら言ってほしいな」

「……ボタン、開いてるけど」


 耐えられず、僕は指摘してしまった。

 しかし上手さんは、耳を疑うようなことを言ってきた。


「ああ、これ? ふふ、見たいなら見てもいいけど」


 なん、だと……?


「っていうか、さっきからずっと、ちらちら見てるよね」

「うっ」

「こういうの、普通にバレバレだよ。南條くんは私と付き合ってるんだから、そんなこそこそ見なくていいよ」

「いや……」


 僕は戸惑っていた。

 正直に言うが、見たいという気持ちはあった。かなり強くあった。せっかく彼女ができたのだし、彼女がいる男だけの特権である女子の体の神秘というものを体験したい、という欲望は普通にあった。

 ただ、上手さんがそういうことを望んでいるとは思えなかった――


「……恥ずかしいから、ボタンしてよ」


 なんとか理性が欲望に勝利し、僕はそう言った。


「えー。暑いからこのままでいいや。別に見てもいいんだよ? 本当に」

「僕はいいけど、他の子にまで見える可能性があるから、やめてほしいな」

「えっ……?」


 これは本音だった。今のところ、上手さんの近くにいる僕しか秘密の花園は見えていないが、このまま活動していたら、他の男子や、見ず知らずの通行人にも見えてしまうだろう。

 

「僕以外の人に、上手さんの体じろじろ見られるのは嫌だ」

「はえ!? はわわわわ!?」


 上手さんは急に慌てふためいて、それから僕の言うとおりボタンをした。これでやっと、僕は上手さんの顔をまともに見られるようになった。

 

「い、今の、ほんと?」

「本当だよ。他の人には見られたくないな」

「そ、そっか、そうだよね。誰にでも見せていいものじゃないよね、はは」

「……どうして僕に見せようと思ったんだ?」


 状況からして、上手さんは僕に胸元を見せつけようとしていたとしか思えない。急にこんな色仕掛けに走ったのは、何か理由があるだろう。


「だって南條くん……私のこと、あんまり意識してくれてないでしょ」


 上手さんはとても弱々しい声でつぶやいた。


「僕としては、これまでの人生で一番、女の子のことについて考えているけど」

「そ、そうなの? でもそれって、私のこと?」

「そうだよ」

「で、でも……南條くん、わ、私のこと、っていうか私の体のこと、興味なさそうだよね」

「……」


 実際にはありまくりなのだが、そう言うと引かれる未来しか見えないので、返事はできなかった。


「せっかく、手をつないで帰れるように、自転車やめて歩きにしたのに」

「えっ?」


 僕は驚いた。

 上手さんが登下校の時走り始めたのは、本人が言ったように、健康を意識してのことだと信じていた。

 しかし、そうは言っても走って学校へ行くのはきつい。自由にジョギングでもした方がましだ。もし上手さんが走り始めた動機が、僕と帰りに手をつなぐためだというなら、確かに納得がいく。


「こんなにわかりやすく胸元見せても、全然興味持ってくれないなんて……南條くん、やっぱり私の体になんて興味ないんでしょ」

「い、いや」

「もういい。さよなら」


 ここで大通りに出て、上手さんは走り去ってしまった。

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