君は夢にしかいない
霜月
君は夢にしかいない
1
もう十分生きただろうし死んでも良いんじゃないか。
怠惰に、無気力に、ただ訪れる日々を過ごしていたら、いつの間にか大学も三年生で春休みになっていた。
大学に行けば就活マナーだなんだのと言われ、家で過ごせば就活メールの通知が耳障りで、目障りで着信拒否にする。
迫り来る現実を強く感じて、残り少ない時間で何ができるのか、そう思うと焦燥感に掻き立てられる毎日。
どうせ社会に出たら自分なんて殺されながら生きていくんだと、今まで溜め込んできた感情を全て吐き出して空っぽになりたいと、怠惰と無気力を余すことなく発揮してきた僕は小説を書き始めていた。
今まで、小説を書ききったことなんてなかった。だいたい、長ったらしく文章を書くのは苦手だった。
でもとにかく、今の感情を残しておきたかった。そう思ったのは最近なのか、無意識にそう思ってきたのかそんなこともよくわかってない。
ただ、あまり感情を表に出す方ではなかった。
不満も憤りも嫉妬も悲哀も劣情も、晒して醜いと感じるものはひたすらに隠して生きてきた。
その代わりに、自分を抑圧することには慣れて、瞬時に笑顔の仮面を貼り付けることができるようになった。
そのまま歳をとれば、素晴らしい理想的な大人の完成のはずなのに、日々募っていく言葉や感情は磨耗してくれない。
そうやって人の目を気にして自分を偽っていくのはきっといいことなんだろう。それがうまく生きていく秘訣なんだと思う。
なのに、一人になった時にとてつもない自己嫌悪感が押し寄せてくる。
『気持ち悪い』『お前はそんなやつじゃなかっただろ』『もっと自由気ままに生きていたのがお前だろ』
幼い自分が頭の中で叱責してくる。
だから極めて理性的に、それが生きていくってことなんだよ、解れよ、と自分に言い聞かせる。
ベッドで目を瞑ってそうやって繰り返してるうちに、じゃあ死ねばいいんじゃない?と理性で固めて生きてきた僕が、理性的とは言えないことを唆してくる。
死ぬなら小説を書き終えてから死にたいなとか、そもそもどこで死のうとか、死ぬことは積極的に考える癖に生きることは何も考えていないどころか無頓着だ。
次第に死ぬことしか考えられなくなって、寝つけそうになくてパソコンを立ち上げる。
ただ衝動的に小説を書き始める。
真夜中に書くと、言葉が勝手に溢れ出てきて気持ちがいい。
何より感情任せに書く小説は、僕が感じていた以上に饒舌だった。
誰かと喋るときは相槌しか出てこないくせに、書いている間はどこで知ったかもわからない言葉が流れるように出てきた。
自分じゃないようでとても気持ちがいい。幸せすら感じる。
その調子のまま書いてるうちに、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいることに気づいた途端、眠気が襲ってきて一旦ベッドに潜る。
すると何も考えられなくなるほど、頭が重くなってきて、そのまま泥のように眠りについた。
2
夢を見た。
中学三年生の終わり頃、奇をてらいすぎたのか、少しばかり無理をした結果周囲の目は冷たいものになった。
それまでは普通にしてたはずの僕は周りからすれば変人で、それを周囲は面白がる対象として見ていたのかもしれない。
だけど僕は利口ではないから、面白がられてることを期待されてるんだと勘違いして、頑張ってきた。
でも、どこで失敗したんだろう。今でもわからない。
僕が何をしたって言うんだよ。
授業中に居眠りしてる奴らなんて他にもいるのに、僕だけが罪を負うにはあまりにも重いだろ。
なんの授業だったか、もう来なくていいと言われたことだけは覚えてる。だけど、学校に行けば他に行く場所なんてなくて、学校に行かなければ親には理由を聞かれずただ怒鳴られる。
どうしたらいいのかわからなかった。風邪でも微熱ぐらいなら学校に行けと、小学生の頃から言われていたから、僕には学校に行く以外の選択がなかった。
1時間目から来なくていいと言われた授業でも、他に行く場所がない僕は重い足取りで教室へ向かった。
授業の開始時刻になると教師は入ってきて、クラス内を見渡す。
バレないように、浅はかにも俯いていた僕は簡単に見つかって、教師が響き渡る声で口を開いた。
「宮下。次から来なくていいって言ったよな。みんな教室変えるぞー」
その一言でクラスの奴らを率いて教室からいなくなっていた。
ここからだ。周囲の目が明らかに変わったのは。
僕に聞こえないようにしてるんだろうけど、普通に笑い声聞こえてるんだよ。
「あーあ」とか言いながらニヤニヤしては通り過ぎていく奴ら。お前らがいつも面白がって見ていたのは、僕がいつやりすぎるのかを見たかっただけなのかよ。
だから気づいた。変わったんじゃなくて、最初からそうやって見てたんだな。
僕は鈍いから、そういうのわからなかったよ。
もう無理だと思った。学校が気持ち悪くて行ける気がしない。
生徒同士のやりとりに介入してくる教師も、教師の感情次第で動かされる生徒も、面白いもの見たさに近寄ってくる奴らも気持ち悪い。
つもり積もってきたものが、悪夢のようにまとめて襲い掛かってくる。
一本の映画にしては異常に攻撃的で、ハッピーエンドなんてものは当然なく、ただ同じ音声、映像が場面を変えては呪いのように繰り返し囁いてくる。
それでもその中に、ただ一人安心できる人物が途切れ途切れに写った。
あの日あの後、精神が限界だと感じてもう学校に行くのはやめようと決意した日のことだった。
帰りのホームルームが終わって、すぐに学校を出ようと靴を履き替えていた時に彼女は声をかけてきた。
「恭弥君、大丈夫?」
彼女の名前は綾瀬水優。僕に初めてできた彼女だった。
綾瀬は、グループの中心にいるようなタイプではなかった。ただ、一人で過ごすには中学という3年間は長すぎることから、無理に居場所を作ろうとして、やっぱり馴染めないでいた。
そうやって変に目立ってた僕たちに、中学ではよくある、『あいつお前のこと好きらしいから付き合ってみろよ』とかいう、クソみたいなムーブに流されてとりあえず付き合い始めた。
それも、最初は冷やかしだったのだろう。でも、話しているうちにだんだんと気があってきて、彼氏彼女よりも親友としての方が性に合ってるということで、僕たちは関係性を変えていった。
「ああ、大丈夫だよ。それじゃ、また明日なー」
親友に不安を抱えさせてはいけないと思い、いつもみたいに何も知らなそうな、馬鹿な男子を演じた。
今の状況も彼氏を慰めに行った健気な彼女としてクラスは沸いているんだろうか。それとも、クラスから浮いてる変人同士、二人でいるのがお似合いだと笑っているんだろうか。
けれど、そんなのはもうどうでもいいや。どうせ明日から僕は失踪するのだから。
「本当に、明日くるの?」
「だって行かないと怒られるからさ」
そういった僕はどんな顔していたんだろう。ちゃんと嘘をつけたのだろうか。
「本当になんともないからさ、綾瀬も早く帰りなよ」
付け足すようにして、別れを告げ、踵を返す。
背中からはなんの音も、声も聞こえなかった。
ごめん、綾瀬。僕はもう学校にはいけないよ。親友の君にも、誰にも何も言わずに、僕はどこか遠くへ行くよ。
不登校の子供を抱えているなんて世間体が悪いことを、親が許すはずないと知っていたから当然伝えることはなかった。
だから、親には秘密で決行する僕の逃避行だ。
家からも学校からも逃げようと考えたその日、家に帰って着替えもせずに父さんのアウトドアグッズを探していた。
父さんがアウトドアの好きな人で小学生の頃はよくキャンプに連れ回されていたから、その名残で物置に放置されている。
物置の中は掃除なんてされていないから、物を探そうとすると砂埃が舞って目が痒くなった。
物をかき分けながら奥の方へ進んでいくと、探しているものが見つかった。
寝袋と電池式のランタンだ。
とりあえずこれさえあれば夜は過ごせるだろう。
寝床なんて、適当に公園とか人目のつかないところで野宿すればいい。
リュックサックの中身を物置の隅にぶちまけて、寝袋とランタンを詰める。
親がまだ帰ってきていなくてよかった。制服が汚れていても言い訳を作る必要がない。
どちらにせよ、制服を着て真昼間から外を歩くのは、かなり危険だから置いていくけど。
そんなことしたら、バレるのは時間の問題か。でも、大丈夫。目的地なんてそもそもないし、制服で歩かなければ、どこの誰かもわかるわけないだろ。高校生にもなるんだし、そこまで子供っぽい見た目でないと思う。
普段着を数枚詰めて、最近おばあちゃんにもらった早めの卒業祝いを財布にしまう。
とりあえずこれさえあれば数日は食べ物には困らないんじゃないか?
大事に使いなさいと言われた結果がこんな使い方で罪悪感を感じて、心の中でおばあちゃんに謝罪する。
そしていっぱいに詰まったリュックサックを部屋のクローゼットに隠した。
3
翌朝。いつもよりも少し早めに設定したアラームで目覚める。
昨夜はあまり熟睡できなかったせいで、今日はアラームの音がはっきり聞こえた。
リビングへ降りていくと、ちょうど母さんが仕事へ行こうとしていた。
「今日は早いのね。ご飯作ってあるから食べていきなさい。それじゃあね」
そういうと母さんは玄関へ向かった。
「母さん、今日は帰らないかも」
なんとなく、言ってみたくて呼び止める。
「友達の家に泊まってくるの?」
「まあ、そんなとこ」
「挨拶しっかりしなさいね」
そう言うと母さんは慌ただしく家を出ていった。
やっぱり、僕が全部捨ててどこかへ消えようとしてるなんて、微塵も考えていなんだろうな。
当たり前だ。恵まれた環境で育てられて、暴力を振るわれているわけでも、ご飯を与えられていないわけでもない。今まで、特別不自由してきたわけではないのだから。
なのに、なんでこんなに苦しいんだろうな。
扉が閉まる音を聞いて何故か寂しくなる。
これから一人でどこかへ行こうというのに、寂しくなんかなってどうするんだよ。
シャワーでも浴びて気持ちを切り替えよう。
いつもなら、シャワーを浴びながら鏡の前でうまく表情を作れるように、顔を揉みほぐしていたけど、もうそんなことをする必要もない。
そのせいでシャワーがすごく暇なものに感じる。
暇つぶしに歌でも歌おうとするけど歌詞がうろ覚えで、鼻歌で口ずさむ。
家を出るなら、他の生徒が登校する時間帯とずらさなきゃとか、学校にはなんて言って欠席にしてもらおうかとか考えるけど、重い理由にはしたくないなあ。
でも担任はそんなの知らないんだっけ。それならありきたりな理由でいいかと思い直す。
学校から渡された連絡網を頼りに担任に電話をかけると、3コール目でつながった。
「宮下です。風邪をひいたので今日は休みます」
わざとらしく聞こえないように咳を挟みながら伝える。
「両親は?」
「起きたらもういませんでした」
「わかった、お大事にな。また来週」
電話を切ってテーブルに出された朝食を食べていると、気づけば授業が始まる時間を過ぎていた。
急いで食器を片付けて食洗機へ。
なるべく楽な格好をして、クローゼットにしまっておいたリュックサックを手に取る。
いよいよだ。僕は今日、失踪する。
家を出ようと扉を開けた瞬間、隙間から誰かが、インターフォンを押そうとしているのが見えた。
お互いが何かを言おうとして、あ。と声が重なる。
「やっぱりいた」
咎めるどころか、抑揚のない声音で綾瀬は口を開いた。
「なんで来てんの……」
綾瀬が制服をきた姿のまま、家まで来ていたから、僕は本心からそう言っていた。
「昨日、来るって言ったのに」
「それは、まあ」
なんと言えばいいか思いつかなくて、はぐらかしてしまう。
彼女は、僕が背負ってるシワ一つないリュックサックを見てまだ何か言いたげだ。
「それに、そんな大きい荷物持ってどこ行こうとしてるの?制服じゃないしさ」
もう、はぐらかしきれないと思った。
「家出ってやつだよ。それより綾瀬、学校は?」
「行ったけど、恭弥君が休みって聞いて早退した」
さらっとおかしなことを言い出すものだから、度肝を抜かれた。
確かに、昨日は学校に行くって言ったけど、僕が学校を休んだだけで、早退するのか綾瀬は。
「それより、家出って何?」
「ん?ああ、前々から学校も家も嫌だったんだ。だから家出をするだけだよ」
大まかに理由を説明すると、綾瀬はため息をついた。呆れられたかな。
「まあ、そんなことだろうとは思ってたけどさ。せめて私には嘘つかないでよ」
そう言われて、悪いことをした気分になる。僕としては余計な心配をさせたくなかっただけの、僕なりの気遣いだった。
「それは、ごめん」
素直に謝罪をすると、綾瀬は何かを決めたような顔つきで僕にはっきりと言った。
「それじゃあ私も連れて行って」
別に驚きはしなかった。綾瀬と僕は家のことだとか、学校での生きづらさを共有し合っていたから、彼女の心境も、境遇も理解してるつもりでいた。
だから、なんとなく、綾瀬も同じことを考えていたんだと思う。
ただ、先に僕が行動を起こしたから、綾瀬も決心しただけのこと。そんなふうに捉えていた。
「行先で野垂れ死ぬとしても、それでもいいの?」
「別にいいよ。ゆっくり死んでいくなら怖くない」
多少脅すつもりで言ったけど、伝わっていないのか、彼女もそのつもりだったのか、躊躇うようなそぶりはなかった。
「わかった。でも、制服は身バレするから着替えてきな」
「ん。じゃあまずは私の家に行こ」
そう言って綾瀬は、振り向いて歩き始める。
綾瀬の家は僕の家とは反対の方向で、時々、持ってる本の貸し借りでお互いの家を行き来していた。
反対方向と言えどそこまでの距離はなくて、複雑な道でもないから、一度歩けば忘れることの方がなかった。
数分も歩いていると、綾瀬の家が見えてきた。
「着替えてくるから少し待ってて」
足早に家へ走っていく綾瀬を見送って、道端でぼーっと立ち尽くす。
僕の数少ない特技だ。特に授業中だとか暇な時間は呆けているだけで、すぐに時間は過ぎていく。
またこうやって空でも眺めているだけで、やがて軽快な足音が迫ってきた。
「お待たせ」
そういった彼女の服装はスキニージーンズに袖の余るパーカーといった、シンプルな格好をしていた。
「それじゃ、始めようか」
僕だけの逃避行に、綾瀬が加わった。
4
家を出てそこそこ歩いたんじゃないだろうか。けれど、景色はいつか車で連れられて見たものばかりで、歩く遅さに辟易する。
これでは今日中に町を出られるかどうかすら怪しい。
それでも歩く以外にないのだから歩き続ける。ほとんど意地だった。
気がつけば、太陽も傾いてきていて焦りが増す。とはいえ、僕は友達の家に泊まりに行くという設定になっているから、まだ取り返しがつくはずだ。
他愛もない話をして、焦りなんか忘れようと思った。
「そう言えばさ、今日なんて言って早退してきたの?」
「ん?まあ、体調が悪いって言っただけだよ」
「そんなすぐ帰れるものなの?」
歯切れの悪い返しに気になって質問すると、綾瀬は悪い笑みを浮かべた。
「聞きたい?」
「やめとく」
普段、表情に乏しい彼女が、こんな時ばかりわかりやすい顔をするのだから怖くなる。
くだらない会話を交えながら歩き続けるうち、日は沈みきっていて、とりあえず近場の公園でご飯を食べることにした。
二人して、コンビニで買ったおにぎりの包装を剥がす。
「結構歩いたんじゃない?」
おにぎりを食べながら辺りを見回している綾瀬が言った。
「でも僕たちの足じゃ時間ばかりかかっちゃうよ」
実際、来たことのないところへは辿り着いたものの、意外にも街は広くて数時間歩いた程度では出られずにいる。
「そしたらさ、電車にでも乗る?」
家出だと言うのに楽しげに予定を立てていく彼女を見て、どうしても後ろめたさが残っている僕は、見習って振り切ってしまおうと思った。
「いいね。終電まで時間あるし今日乗ってしまおうか」
こんなことでお金を使いたくはなかったけど、どうせ野垂れ死ぬなら早いほうがいい。
お金があるうちは生きながらえることだってできてしまう。ならば、早いうちに使い切ってしまったほうが後が困らない。
夜も遅いとはいえ、それは僕たち中学生の時間感覚だ。花の金曜日というだけあって、遠目からでも大人たちが行き交う姿を確認することができた。
こんな場所で野宿なんてしたら、僕たちが寝ている間に誰かに見つかって通報される気がした。
「どこに行こうか?」
「せっかくだし、終着駅まで行ってみようか」
寝るなら、もっと遅い時間だ。それまでは行動していたほうが安全だと思った。
「じゃあ、食べたら駅に行こ」
そう言っておにぎりを頬張って僕たちは公園を後にした。
電車なんてほとんど乗ったことなんてなくて、線路図を見るけどさっぱりわからない。
「どっち行ってみる?」
「どっちでもいいけど、一番時間が近いやつ」
方角なんてどうでもよかった。どうせどこに行ったって同じなのだから。
路線だって、こんな田舎じゃそう多くはない。
だから適当に、電光掲示板から直近の電車を見繕って、ホームへ入っていく。
すでに電車は止まっていて、乗り込むと足元から流れてくる暖かい風と、ふかふかの椅子が疲れを実感させてくる。
「すごい、ふかふかだー」
全く同じことを思っていたようで、綾瀬は椅子に背中を預けてくつろいでいる。
「もう動きたくないなあ」
「どうせ終着駅まで乗るんだし、寝ちゃえば?」
「そうするー」
目を瞑って、一定のリズムの寝息を隣で聞いていると、僕も眠くなってきていつの間にか、僕の意識も落ちていた。
「お客さん、終着ですよ」
車掌さんに肩を触れられたことに気づいて、跳ね起きる。
窓を見れば、遠くに灯りが点々と見えるだけの殺風景な景色が広がっていた。
「ごめんね、早く降りてくれるかな」
そう言うと、車掌さんは他の乗客がまだ残されていないか、見回りにいく。
やばい、と思った。
子供二人で夜に電車に乗っていることを怪しまれなかっただろうか。
とにかく、早くここから離れなければと思い綾瀬を急いで起こす。
「あれ、もう着いたの?」
呑気にあくびするものだから、僕だけが神経質になっているのが馬鹿らしくなる。
「行くよ」
席を立って、無人駅の改札を通っていく。
外に出ても人の気配がしなくて、僕たちだけが別の世界に来たような感覚だった。
「何もないね」
驚くほど何もなかった。タクシーの一台も止まっていないし、バス停の時刻表だってほとんど真っ白で、なんのために立っているのかわからなかった。
人に合わないかぎり、僕たちだけの世界。僕たちだけが生きている世界。
人の顔色を気にしないでいられることが、こんなに安心するとは思わなかった。
学校はもちろん、家には家の顔がある。外を歩くにも、必ず誰かとすれ違う。何も気にしないで、自分を出していい場所なんてどこにもない。
「それがいいじゃん」
考えるよりも早く、そう答えていた。
「人類は私たちを残して、絶滅してしまったのです」
突然、物語調に語りだす彼女をみて、何がそんなに可笑しいのかわからないけれど、腹の底から笑った。
ひとしきり笑って次に繋がる言葉を考えてみる。
「僕たちは死ぬこともできず、生きることもままならないのです。どうして僕たちは死ねなかったのでしょうか」
「なんか現実的だなあ。もっと変なこと言ってみてよ」
ありそうな設定を言ってみたけど綾瀬には不服だったようで、道端の小石を蹴飛ばしている。
僕は探し物をするように夜空を仰ぐけど、濁っていてうまく見つけられない。
「そんなこと言われても、出てこないよ」
「まー恭弥君らしいけどね」
「なら、綾瀬は?」
綾瀬が何を言うのか気になった。彼女はそうだなあ、と一呼吸置くと、誰にも届かないくらいか細い声で呟いた。
「私を愛してもくれないであなたたちだけ死ねるなんて、そんなのずるいよ」
途端に、人が入れ替わったかのように雰囲気が変わったことに驚いて、顔を向ける。だけど顔を向けた時にはもう言い切った後で、どんな顔をしていたのか想像もできない。
でも、表情なんて別にどうだってよかった。内面が全部、顔に出るなんてあり得ないことを僕たちは知っている。何せ僕たちは表情を取り繕うことで生きてきたから。
それに、今の綾瀬の言葉は水みたいに滑り込んできては自分の中に溶けていった。
また現実的だと言われるかもしれないけど、彼女の言葉を自分の言葉に置き換えてみたくなった。
「僕を理解してもくれないで勝手に死んでんじゃねえよ!」
どうせ誰もいないのだから声を張り上げてみる。僕が吼えることを全く思っていもいなかったようで、綾瀬は目を見開いている。
ニヒルな笑みを向けると彼女は『びっくりしたー』と言って笑った。
「何それ、私のパクリじゃん」
「オマージュだよ」
聞かれようが、今更恥ずかしくなんてなかった。僕は理解が、綾瀬は愛を欲していることをお互いが知っている。
結局、現実的なことしか言えなかったけど、僕たちらしいと思った。
5
叫ぶことに慣れていない僕たちは、疲れ果てて土手の下で寝袋を敷いて寝転がっていた。
ランタンの明かりと、側を流れていく水の音が、とても安らぐ。
「初めてあんなに叫んだかも」
そう言う綾瀬は息を切らしてもなお、気分は昂ったままに見えた。
「喉がヒリヒリする」
こうして声を絞り出すのも辛いほど叫んだ。溜め込むだけ溜め込んで、言えないでいた言葉全部、轟かせた。
そのうち、何を言いたいのかわからなくなったけど、文脈なんか気にせずに、とにかく喚き散らした。
体が、喉が熱い。生を実感した。昨日までの生活じゃ多分感じたことがない、命が燃えている感覚。
呼吸を落ち着かせようと、川のせせらぎに意識を向けると興奮が冷めていくのを感じて、徐々に平心を取り戻していく。
生い茂った野草が頬を撫でていっては、その度に鼻腔をくすぐられ気持ちがいい。品種改良された花よりもいい香りに感じられる。
人の手が届いていない純粋な匂い。
しばらくの間、沈黙が流れた。
喉が痛くて喋りたくないこともあったけど、体を横にした瞬間、瞼が重たくなってきてなんとなく口も開けなくなった。
ここまでが、今日だけの出来事だとは思えないくらい、頭の中での処理が間に合っていなかった。
家を出ようとすれば、綾瀬がいて。
彼女も、僕に着いてくるとは言ったけど、ほとんど僕が連れてきたようなものだ。今更だけど、罪悪感が湧いてくる。
「こんな所まで連れてきてごめん」
「謝らなくていいよ。私が勝手についてきたようなものだし」
「でもさ、そもそも僕が耐えていれば、こうはならなかったのかなって」
自分で言っていて認めたくないけど、それは間違っていないんだと思う。
こうして寝転んでいると、これからどうしようとか、そんなことばかり考えてしまっている自分がいる。
「後悔してるの?」
答えたくなかった。
後悔と言われればそうなのかも知れない。
生きづらさはあれど、元の生活を捨てるほどだったのか、その理由が曖昧になっていた。
今の僕はただ、勢いだけで飛び出した子供で、そこにある動機は本当にくだらないものだ。
一日中動き回って気を紛らそうとしても、わだかまりが晴れずに、ただ虚無感だけが残っている。
「綾瀬はさ、なんでついてきたの?」
大体わかっていたけど、綾瀬の言葉を聞きたかった。
「私も無理に居場所作ろうとして、気をひこうとしてきたけど、もう心に限界を感じてたんだよね」
ランタンの明かりが眩しくて、目を細めても、視界がぼやけてはっきりと表情を捉えることはできなかった。
表情が見えない分、滔々と語るその声音から想像するしかない。
「卒業までもうすぐだから耐えようとしてたんだけど、日に日に、私が入っていく余地はなくなっていってさ、最近じゃほとんど蚊帳の外だったんだ」
綾瀬も耐えていた。それを彼女の口から聞けて何かが救われたような気がする。
「家に帰っても両親は仕事で遅いし、顔合わす時間が短いならさ、私の席なんてあっても仕方ないじゃない?」
なんと言えばいいのか迷ったけど、僕たちは拠り所が欲しかったのかもしれないと思った。生活は確かに満たされていたけど、心が満たされないでいた。環境に求めることが間違いなんだとしても、そのくらい僕たちは人や環境に依存している。
「それなら、わかりやすく消えてやろうって思ってたら、ちょうど恭弥君が家出するっていうんだもん、ついていくよね」
なんとなくわかっていたけど、こうして聞くと、首謀者扱いされているようで、顔を顰めたくなった。いや、進行形で首謀者ではあるのだけど。
「でもまあ、なんにしても恭弥君がいなかったら、私は勝手に病んでいったかもね。そういう意味じゃ、あのクラスでもよかったかなって」
「まあね」
一時期は面倒な仲にされたけど、こうして家出についてくる親友がいることは恵まれているのかもしれないと思った。
「だから出会えてよかったよ」
死に際のセリフみたいなことを言われて心臓が跳ねる。
近くには川も流れている。もし、僕が眠っている間に綾瀬が自殺したら。
突飛な想像ではあるけど、学生が川で事故死したなんてニュースもたまに見る。
そう言う意味で言ったのではないとしても、今は聞きたくなかった。
「やめろよ」
「え?」
僕は体を起こして、見下ろす形で言った。綾瀬は驚いて、同じように体を起こすと視線が交錯する。
「これから死ぬようなセリフ、言うなよ」
何を言ってるんだと、自分に言いたくなる。
綾瀬の言わんとすることをわかっているくせに、自分の感情だけでものを言おうとしている。
とんでもない勘違い野郎だ。イタいやつだと思った。
「僕はさ、一人で家出をして、その行先で野垂れ死ぬなら別に怖くなんてなかったんだ」
本気でそう思ってた。
一人なら、どんな死に方だろうが、どこで死のうがどうだってよかった。
「邪魔だったってこと?」
そんなわけあるはずがない。
「そうじゃない。綾瀬がついてきてくれたから、僕は死ぬのが怖くなったし、綾瀬にも死んでほしくないってこと」
彼女にとっては裏切りの言葉でも、これが僕の純粋な気持ちだった。
今日1日で考え方が変わりすぎて、自分を見失いそうになる。
そんな綾瀬はランタンを見つめて、ポツリと言った。
「それでも私は、死ぬことを選ぶと思う。だって愛されないのは、気にされないのはやっぱり辛い」
「僕も理解されないのは苦しいよ。でもさ、こうやって綾瀬がいてくれるなら、理解も別にいらないかなって思う」
この感情になんて名前があるのか、経験がないから名付けようがない。
でも、今まで読んだり観てきた媒体からいうのなら、知っていた。
「好きだから死んでほしくない。綾瀬はどう思う?」
「それはわかるなあ」
「だから、生きて、生き抜いて、それから死のうよ」
「なんで生きるの?」
なんでと言われると、なんでだろう。もう十分生きたよなあ。15年も生きたら立派じゃないか。
だけど。
「綾瀬と生きたいって思ったから」
生きる意味なんてわからないけど、死ぬ意味だってわからない。
そもそも、生きることに高尚な理由なんてあるはずもないし、理由を見出すだけ損をする。
だから、僕が生きるための言い訳を押しつけて、依存して生きていこうと思った。
そう言うと、綾瀬は小さく笑った。
「それ、いいね。私もそうしていい?」
「もちろん」
僕たちは上手に生きていけないから、お互いを拠り所にしないと、またすぐ死にたがる。
気がつけば、気温は急激に下がっていていたけど、そのくらいじゃ気づけないくらい、確かな熱が身体中を充満していた。
心が安心したからか、頭がぼんやりしてきて、瞼が落ちそうになる。
それは彼女も同じだったようで、眠気に従うようにその場に倒れると、綾瀬もまた隣に倒れた。
家に帰らなくてもいい。学校にも戻らなくていい。ただ、こうして寄り添えることができればそれだけでいいと思った。
6
スマホのアラームで現実に戻されていく。起き抜けで鉛のような体に力を入れると、腰が音を立てた。
長い夢がブラウザバックするように、次々と朧げになっていく。
久しぶりに中学の頃の夢を見て、懐かしくなった。
「そんなこともあったな」
夢の中に出てきたあの女の子の名前はなんだったか。
ああ、綾瀬水優だ。
夢の中で何度も呼んだ名前。
あれだけ濃密な時間を過ごしても、思い出す時間がなくなるだけで、簡単に霞んでいってしまう。
薄情な自分が怖くなった。時々思い出さないと、当時の僕をも騙しているような気がした。
高校生になってスマホを買い与えられてからは、綾瀬ともメールしていたけど、大学生になって、彼女が引っ越してからは、そのメールも届かなくなった。
そのまま連絡を取れなくなって3年が経過した。
夢を見たからか、ふと名前だけが記録された空のメールを久しぶりに開いてみる。
》久しぶり。最近どう?僕はまた死にたくなってるよ
送信を押しても、送信不能とエラーが出るだけだ。そんな虚しいメールだけど、返事が欲しかった。
また声が聞きたい。また会いたい。
長時間寝たはずなのに、スッキリしなくて、パソコンを立ち上げる。
書きかけの小説を書くためだ。
畳んでない洗濯物や脱ぎ散らかした衣類には目もくれないで、2畳間もないスペースでキーボードを叩き続ける。
時折、届かないメールを眺めては寂しくなって、その気持ちは全部小説にぶつけた。
書くことに必死になりすぎて、精神がおかしくなりそうな日もあった。
吐き気で震える指でひたすら1行を埋め続けた。
僕は今、小説を書くことに執着している。
綾瀬は、もう一人でも生きていけるようになったのだろうか。
多分もう2度と会えないと思うけど、いつか偶然が重なって、再会できた時はなんて言おう。
その時はお互いに気づいていても、話しかけることはないのだろうか。
それならそれで仕方ないのかもしれないと思った。
君は夢にしかいない 霜月 @_simotuki_
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