#5
香織は出掛けるらしくその支度をしていた。どこへ行くとは詳しく説明しないが、余所行きのその格好から「ちょっとそこまで買い物に」ということではなさそうだった。香織はそのまま申し訳なさそうに義父の面倒を貴弘に押し付けて足早に出かけた。
貴弘は自宅に残された。まだ自室で眠っているが義父もいる。このような状況だと、これまでならば義父と二人きりなのは貴弘にとって大ピンチであったが、この時に限ってはチャンス到来だった。
貴弘はすかさず義父の自室に駆け寄ると扉に耳をあて中の様子を窺った。どうやら義父はまだ寝ているらしい。バケモノはバケモノらしくガーゴーと耳障りな寝息を立てて眠っている様子だった。
貴弘は義父の自室までタンスを押して扉の前に設置した。これで義父は簡単に部屋から出て来られない。
そして後は諸悪の根源である義父の愛人「コータ」こと笹原康太をここに呼び出すだけだ。そして義父に笹原康太が本物のコータであったと認めさせる。貴弘はこれでこの地獄の日々に終止符を打つつもりでいた。
「……くそ、なんで電話に出ないんだよ!」
何度か笹原医師に電話を掛けたのだが応答がなかった。貴弘は焦った。香織は出かけてまだ間もないのですぐには戻ってこないと思うが、そう悠長に構えても居られない。それにそろそろ義父も動き出す時間だ。だが、そこまで焦る必要もなかった。
「なにごとですか! なにかありましたか!」
笹原医師がリビングに勢いよく駆け込んで来た。
「笹原先生!?」
「失礼! 鍵が開いていたので勝手に入らせてもらいました! 手に負えない程の緊急事態でもありましたか!?」
「あの、電話したんですが」
「存じております! 貴弘さんから珍しくお電話いただいたので、これはただ事ではないと思いまして、全ての予定をキャンセルして駆けつけました! それで患者様は何処へ!?」
「いえ、そういうつもりで電話をしたんじゃないです」
冷静に返事をする貴弘に、笹原医師も現状の把握に努める。すると早くも合点が着いた。
「ということは、つまり、私の早合点?」
「端的に言えばそうです」
「ということは、誰も苦しんでいない、誰も傷ついていない、誰も辛い思いをしていない?」
「まあ、そうです」
「そう、でしたか、そうか、それなら良かった……、本当に、本当に良かった……」
笹原医師は貴弘に背を向けて家路につこうとする。どうもその背中が寂しそうだ。
「ですが、これから辛い思いをする人ならいます」
「なんですと!?」
振り返る笹原医師のその顔には明るさが戻っていた。だがすぐに貴弘が放つその異質な雰囲気に表情を曇らせた。
「それはお前だ! 笹原康太!」
貴弘はすかさず笹原医師に飛び掛かった。隠しておいたロープを取り出し笹原医師の自由を奪う。
「わわっ! ちょっと、貴弘さん!?」
「観念しろ、笹原康太! お前が『コータ』だったんだな!」
「そうですけど!? 私は康太ですけど!?」
「やっぱりな! 僕の思った通りだ!」
「思った通りも何もないですよ! 私の名前は康太ですよ!」
「自ら白状したな、コータ! これまでずっと隠しておいて陰で僕を嘲笑っていたんだろう!?」
「嘲笑う? なんで私がそんなことを!?」
「下の名前を今までずっと隠していただろう!? それが何よりの証拠だ!」
「確かに私は『笹原』としか名乗りませんが、別に隠していたつもりはないですよ?」
「この期に及んで白を切るつもりか! これまで僕が味わった苦しみをお前が分からないことはないだろう!?」
「それは何だか申し訳ございません! たったそれだけのことで貴弘さんが苦しんでいたなんて思いもしませんでした!」
「……たったそれだけのこと? たったそれだけのこと、だって!!」
「す、すみません! 貴弘さんにとって私の名前がそれほど大切だったなんて……。ですが、きっとこれからやり直せるはずだ!」
「やり直せる? もうそれは手遅れなんですよ、先生!」
「いいえ、やり直せます! さあ、貴弘さん。私の名前は康太ですよ。私は康太なんです。そう、康太先生とでも呼んでくださる?」
「ふざけるな!」
「ふざけているつもりはありません!」
貴弘はロープを更にきつく縛りつけた。「ああ、痛い!」と笹原医師は呻くが、貴弘がそれを気にすることはない。
「不愉快だ。先生、僕はあなたの存在が不愉快なんだ」
「……そうですか、それは残念なことですが、私としてはそれを受け止めるしかありません」
「これからここにお義父さん、いや、あのバケモノを呼び寄せます」
「いくらなんでもお義父さまをバケモノ呼ばわりは……」
「先生、あれはバケモノですよ。あなたが知らない間にバケモノになったんだ」
「どういうことです?」
「分からなくて結構。これであのバケモノが、どっちが本当の『コータ』であるか理解してもらえればそれでいい」
「なるほど、貴弘さん。ようやく分かりましたよ!」
「は?」
「なんで私はすぐに気づかなかったんだ、貴方は、『康太』って名前が羨ましかったのですね?」
「なんでそうなるんだ!」
「いいえ、いいのです。私としても半世紀以上この名前に慣れ親しんでいましたが、貴方が望むのでしたらこの名前くらい幾らでも差し上げます! ──では康太さん。そろそろ縄を解いてくださいますか? ちなみに私は『貴弘』を名乗っても?」
「何を言っているんだ? だから『コータ』はアンタだろう!」
「えっ? どういうこと? 貴弘さんは康太になりたくてこんなことをしているのでしょう? それで私は康太を貴弘さんに差し上げて、だからこれから貴弘さんは康太となって、だから私が貴弘になる、それで万々歳?」
「いや、違う! 僕は貴弘であって、アンタが本当は『コータ』で、だから貴弘は貴弘であって、笹原康太は、コータで、……あ、あれ?」
貴弘は眉間を抑えて考え込んだ。なんだかわけがわからない。ゲシュタル、なんとかとはこのことをいうのか? だが貴弘は気付いた。これも笹原医師の策略だ。危うく術中に嵌るところだった。
「いや、もういい! とにかくアンタはその身体で応えてくれればいい!」
「なにそれ? なんだか怖い!」
貴弘は義父の自室の前のタンスを押し退ける。扉を背にして今度は自らが重石となって義父が出て来られないようにする。
「さあ、お義父さん、出てきてください! 『コータ』がここにいますよ!!」
掛け声と共に扉を解放した。ゆったりと義父が現れる。貴弘はすかさず身を隠し、義父の動向を陰から窺った。そのまま笹原医師に飛び掛かるだろうと貴弘は予想していたが、当然ながらそんなことはなく、義父が飛びつくのは貴弘に決まっていた。
「コータ♪」
「なぜ!?」
義父は早くも隠れた貴弘を見つけ出し、思う存分に愛で撫で回した。
「な、なんですかこれは? どういう状況!?」
互いにいい年した男同士が節操も無くじゃれあう姿に笹原医師は困惑していた。だが、同時にこの状況に更に困惑している者が他にいた。
「なにこれ、どういう状況!?」
「か、香織!」
貴弘には目を見開いて立ち尽くす妻の姿が目に映った。義父を突き放し、何事も無かったように平静を装う。
「いやあ、はははっ、ねえ? おや、香織、随分と帰りが早かったね?」
「先生のところへ伺う予定だったんだけど、何故か先生は家に向かったって聞いたから戻ってきたの。それで、これはどういう状況なの?」
「いや、違うんだよ、香織! 僕らの間には何もない! 僕とお義父さんには何もないんだ! 勘違いはしないでくれよ!」
「そっちじゃなくて、先生の方なんだけど」
「私にも何がなんだかさっぱりです」
「それはまあ、別にいいよ今は関係ない。だからお義父さんのことだけど!」
香織は手をかざして貴弘の次の言葉を遮った。
「貴弘くん、それはいいの、それはもう知っているから」
「し、知ってる?」
「ごめんなさい、私、気づいていたの。でも、言い出せなかった……」
これを言ってしまうと夫婦の関係に亀裂が入りそうで香織は口に出せないでいた。だから香織はこのことを先に笹原医師に相談しようとしていた。だがこうなってしまっては後戻りはできないだろう。香織は貴弘に真実を告げようと決心した。
「香織、お願いだからこれだけは信じて欲しい! 僕とお義父さんは一線だけは越えていない! 純潔だけは守っているから!」
「さっきから何を話しているのよ?」
「だから僕らの関係のことだよ!」
「何を言っているのか分かんないけど、とにかく私が言いたいことは、父さんは貴弘くんのこと『猫』って勘違いしているの!」
「どういうこと?」
貴弘が理解できないのも無理もないことだった。
「父さんは貴弘くんのことを『コータ』と呼んでいたでしょう?」
「だからそれは笹原先生のことだよね?」
「なんで笹原先生になるの? 『コータ』は『虎太郎』のこと。ほら覚えていない? 父さんは昔に猫を飼っていたでしょう?」
貴弘は記憶を遡ってみた。すると意外と簡単に思い出せた。貴弘は、香織との入籍を報告しに義父の元へ伺った際にその猫を目にしていた。それは不愛想で不細工で小憎たらしいドラ猫だった。
「ああ! あれね、うん、勿論覚えているよ! 僕もおかしいと思っていたんだ! でもまさか、虎太郎だなんて、でも香織も気づいていたのなら早く言ってよ、もう、こいつう!」
などと調子よく言っているが、この時ほど心の底から安堵したことはなかった。
「父さんの認知症がそこまで深刻だったなんて認めたくなかったの」
「まあ、いいさ。いやあ、良かった、良かった。これにて一件落着、大団円!」
「でも何で先生はグルグル巻きになっているの?」
「何故でしょうか? それが私にも分からないのです」
「本当だ、なんでだろう? 不思議なことってあるんだなあ」
「か、怪奇現象?」
「え? そうでしたっけ?」
「そんなことよりも問題はこっちだ。やっぱり正すべきことは正しておかないと」
貴弘は話題に一人取り残された義父のもとへ歩み寄る。
「いいですか、お義父さん。僕は猫じゃないですよ、貴弘ですよ。香織の夫の貴弘です」
これまで視線を合わせようともしなかったが、この時だけは義父の肩を握りしめて強引に顔を向き合わせた。ただ義父の焦点は定まらずあちらこちらに余所見する。
「僕は虎太郎じゃないんです。貴弘、僕は貴弘です。言ってみてください。た、か、ひ、ろ」
「……たかひろ?」
「そう! 僕は貴弘です! あなたの義理の息子の貴弘です!」
義父は不快感を顔に滲ませてもう一度繰り返した。
「……貴弘」
義父は貴弘の背後にいる香織を見た。今度は不安を顔に滲ませる。
「香織じゃない?」
「いや父さん、私は香織で正解だよ。私は香織、それでいいの」
「香織」
「……そう、香織、私は香織だよ、父さん」
次にグルグル巻きの芋虫みたいな人を見た。
「どちらさま?」
「笹原です、笹原康太です。貴方の主治医の笹原康太ですよ」
「コータ? ……虎太郎!」
「ちょっと、先生! 余計な事はしないでください!」
「すみません!」
貴弘はきょろきょろと視線が落ち着かない義父の頭を両手で押さえた。今度こそ今回こそは自分の存在を認めさせるつもりだった。
「いいですか、お義父さん。虎太郎はもういないんです」
「……なんで?」
「虎太郎はもういません。死んでしまいました」
「……虎太郎がいない?」
「そうです。死んでもういない。天国に行きました」
「……ここは?」
「ここは僕の家です。お義父さんは今ここに住んでいます」
「……俺の家は?」
「別の場所です。でもお義父さんのお家ももうありません」
「……家じゃない?」
「そうです」
「家じゃない」
「そうです。ここは僕の家です。お義父さんはここで暮らしているんです」
義父の表情がまた一変した。顔は青ざめ、目を見開き、恐怖に怯えていた。貴弘は咄嗟に義父の頭から手を離した。その表情がまるで人の物とは思えたかった。これは本当にバケモノだ。
「ここは、どこだ、家は、俺の家は? コータは? 虎太郎は? 香織、香織はどこだ? 母さんはどうしたんだ!? 家じゃない? 家じゃない!」
義父は叫び声を上げ取り乱した。そして子供の様に大粒の涙を流して見苦しく泣き叫ぶ。そんな義父の無様な姿を見て貴弘は苛立ちを覚えた。こんな奴の為に自分は苦労をしないといけなかったのか、貴弘にはそれが不愉快だった。
義父は散々騒いだ挙句に不意に力を失い崩れ落ちた。香織は倒れる義父に慌てて駆け寄る。身体を起こして安否を確かめると、義父は青ざめた顔をして力なくつぶやいた。
「家に帰りたい」
その言葉を耳にした貴弘は身が竦んだ。
香織は義父を傍で見守った。そこに笹原医師も加わり看病に努める。だが、貴弘だけはその輪に加わる事が出来なかった。
貴弘はその場に座り込んだ。頭を抱えて大いに悔やんだ。義父は助けを求めているのに自分は何もできない。ここまで追い込んでおいて、今さら優しくするなんてそんな資格が自分にあるとは思えなかった。
なぜ分かってあげられなかったのだろうか、どんなに老いてボケて見苦しく理性を失い異質になろうとも、義父は自分と同じ存在だ。
「お
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