#2


 義父の退院当日、心に傷と頬っぺたに小さな擦り傷を負った貴弘は、せめてもの抵抗に、お腹が痛いから、と義父の迎えを断った。とはいえ、こんなことは本当に些細な抵抗に過ぎず、出て行ったとしても帰ってくるのはここだから、帰って来なければいいのにと願っても、ものの三十分ほどで香織たちご一行が帰ってきても何も文句は言えない。


「ただいまー!」

「…………」

「貴弘くん! ただいま!」

「……おかえり、香織」

「なによ、恨めしそうな顔をして」

「なんでもないよ。……ところで、お義父さんは? 姿が見えないようだけど。まさか、入院が伸びた、なんて言わないよね? そんな筈はないよね? そうだよね? え? まさかそうなるの? そんなことってあるの? そうなっちゃうの? そうでしょう? そうなんでししょう!!」

「そんなわけないでしょう。一緒に帰って来たよ、ほら」


 と言うものの、香織が示した先に義父はいなかった。


 代わりに居たのは貴弘には見知らぬ男だった。その容姿からして義父よりも若いが貴弘たちよりは随分と年上に見える。大きなリュックを背負い、片手にはこれまた大きなスーツケースを引いて、もう片手には沢山の紙袋。小柄な体型も相まってその大量の荷物に今にも押しつぶされそうだ。


「どちらさま?」

「これは申し訳ございません。お義父さまの担当医の笹原です」

「笹原? ああ! 先生でしたか!」


 その謎めいた男は義父の主治医である笹原医師だった。その存在までは香織から聞いて知っていたが、貴弘はこれまで義父が入院する病院に一度も行ったことがないので笹原医師と顔を合わせるのはこれが初めてだった。


「でもどうして先生が家に?」

「貴弘さんがお腹を壊していると伺いましたので診察に参りました」


 そして笹原医師は何処からともなく聴診器を取り出した。それに貴弘は身構える。


「いえ、お腹は大丈夫です。もう平気ですから」

「ご心配いりません。私は医者ですよ」

「それは存じております」

「ならば話が早い。診察しましょう!」

「もう治りました!」

「それを決めるのは医者の仕事です! さあ、お腹を出して! お腹を私に見せてください! さあ、早く!」


 強引に衣服を剥がそうとする笹原医師に貴弘は抵抗した。そして貴弘は香織を睨む。


 貴弘は「謀ったな!」と目で訴え、「違う違う、私じゃない」と香織は首を横に振り、「じゃあ、なんで!?」と貴弘が、香織は「先生が強引について来たの」と、「この先生、ちょっと変わった人なのよ」などと身振り手振りで伝えた。


「でも良い人よ、先生がわざわざ私たちを家まで送って下さったの」

「そうなの!? それはすみません。お手数を……」

「いえいえ、これくらい当然ですよ。医者とは人にお世話するのが仕事なのです。これも仕事の内、気になさらないでください」

「本当に良い人だ」


 香織の言う通り笹原医師は多少変わり者であるようだが良い人には違いなかった。だが、いずれにしても貴弘としては迷惑な人物になる。「それでは診察を再開しましょう」と笹原医師がまたも聴診器を取り出し、「いえ、もう平気です!」と貴弘が、この攻防を幾度か繰り広げるが、大荷物を抱える笹原医師には分が悪く、更に体力的にも年齢的にも余裕のある貴弘が勝利を納めた。


「確かにこれほど元気があればもう平気かもしれませんね。でも無理はいけませんよ、ちょっとでも痛みを感じたら私にお伝えください」

「ああ、はい」

「ところでお義父さまのお荷物は何処へ? 余所者の私が大切なお荷物をずっと持っているのも不安でしょう?」

「露骨にいい人だ。ていうかそれってお義父さんの荷物だったの!?」

「女性にこんな大荷物を持たせるわけにはいけませんから」

「これはすみません。後は僕がやりますので」

「あ! そんな、いけません! 病み上がりなのに働かせるなんて医者の面目が立ちません! お願いですから安静にしてください!」

「人が良すぎる!」

「それに笹原先生は院長先生でもあるのよ」

「親から譲り受けただけの小さな病院ですよ。院長なんて名ばかりです」

「出来た人すぎる!」


 でも、迷惑極まりない困った人だ。とは貴弘には口が裂けても言えなかった。


「そんなことよりも何かをお忘れではないですか?」

「えっと、何でしたっけ?」

「いやだなあ、お義父さまですよ、お義父さま」

「そうだ、車の中に忘れてた!」と、言うのは香織。「そこから忘れていたの!?」


 香織は笹原医師から車のキーを借り受けて義父を迎えに行った。この場には貴弘と笹原医師の二人だけが残された。貴弘は自宅であるのに少々居心地が悪かった。それは笹原医師が原因だろう。当の本人は貴弘がそんな状態にあるとはつい知らず気軽に話しかける。


「それにしても貴弘さんが人の好さそうな方で良かった」


 貴弘はこれまでの人生で一番人の好さそうな方から逆にそんなことを言われてしまい困惑した。


「僕のどこがお人好しに見えるんですか?」

「具体的にどこがとは初対面ですので断言できません。ですが、出会ってすぐに『ピーン!』ときましたよ。いえ、むしろ強烈に『ビビッ!!』と衝撃が身体中に走りました! ほら見て、今でもその衝撃で手が震えている!」


 そう言って笹原医師は小刻みに手を震わせながら貴弘にそれを見せつけた。このオッサンは何をしているんだ? としか貴弘は思わなかった。


「というのも、一度も貴弘さんがお義父さまのお見舞いにいらっしゃらなかったので心配だったのですよ。ひょっとしたらお義父さまと仲が悪いんじゃないかと……」


 ここにきて、この医者は人を見る目があるな、と貴弘は思った。笹原医師の案の定、今もなお貴弘は虎視眈々と憎き義父を家から追い出す算段を企んでいる。


「ですが、その心配も無用だったようです。貴弘さんならお義父さまと一緒に暮らしても問題なさそうですね!」

「ああ、はい、そうですね」

「私たち三人で力を合わせてお義父さまを支えていきましょう!」


 笹原医師は貴弘の手を握り然も当然の様に同意を求めてきた。貴弘はそれに答えるつもりはなかったが、その「三人」という言葉が気になった。


「もしかして、その三人とは、先生も含めての三人ですか? 僕に香織と、先生?」

「もちろんです!」

「ということは、つまりお義父さんの病状はまだ完治してないと?」

「いやだなあ、通院も必要ない程に完全完治ですよ。治ってもいないのに退院させません」

「それでは先生は認知症も診るのですか?」

「いいえ、私は循環器が専門になりますので認知症は専門外です」

「それではなんで先生が?」

「なんで? といわれても。だって私は医者である前に貴方と同じく人ですよ、困っている人たちを目の前に放っておくなんて普通しません。だから私にもお義父さまの介護を手伝わせてください!」

「なんで先生が僕らと一緒にお義父さんの介護をするのですか!?」

「いやだなあ、何度も言わせないでください。それは私が人だからです。それ以外に理由があるとお思いですか?」


 それは答えになっていなかった。


「つきましては、私をお宅に住まわせてもらえませんか? 家事雑用から医療まで何でもこなします。寝付けない夜には楽しい小話でも聞かせましょう。お望みとならば歌でも唄ってさしあげます。では、最初の五、六ヶ月だけでも構わないので、よろしいですか?」

「勘弁してください!」

「ですよね。仕方がない、ならば近くに宿でも取りましょう」

「それはそれでちょっと気になりますが、そうしてください」


 ここまで人が良すぎると返って胡散臭い。何か裏があるのではないか、と貴弘は勘ぐっていた。


「ところで何かお忘れではないですか?」

「えっと、何でしたっけ?」

「いやだなあ、香織さんですよ、香織さん」

「そうだ、車に行ったきり忘れてた!」

「何かあったのかもしれません。見に行きましょう」


 貴弘と笹原医師が様子を見に行こうと席を立ったその時に、「助けて!」という叫び声が聞こえた。それは香織の声だった。これは本当に香織に何かがあったようだ。貴弘と笹原医師は香織の元へ駆け出した。するとそこには見るも無残な姿があった。

 香織は力なく横たわり、それに覆いかぶさる男の姿があった。ともあれそれはなんてことはない。その男こそが義父だった。義父はすやすやと寝息を立てている。どうやら香織は眠ってしまった義父をここまで一人で背負って来たようだ。だが、あと一歩のところで力尽きて倒れ込んでしまったのだろう。


「何で誰も電話に出てくれないの……」

「ごめん、話し込んでいたんだ」

「香織さん、申し訳ございません! 私がついていながら、香織さんをこんな辛い目に遭わせてしまうなんて!! 悔しい、狂おしい、なんて私は間抜けな男なんだ! 医者なんて辞めてしまえばいいのに!」

「先生、そこまで悲観することではないですよ」

「貴弘くんが言わないでよ、かなりきつかったんだから」

「それでは香織さん。後は私が受け持ちます!」


 香織に代わり笹原医師が義父の介抱を務めた。およそその見た目通りの腕力しか伴わない小柄な笹原医師は義父を担いでフラフラと奥へと引っ込んだ。


 貴弘は特に手を貸すこともなくそれを眺めた。久しぶりに目にした義父の姿はあの頃の憎たらしい義父とは違っていた。まず痩せていた。それは病気を患ったからかもしれない。それに生気がなかった。それは寝ているからかもしれない。だが、どこかが確実に前の義父とは違っているように思えた。それがどうにも拍子抜けした気分にさせた。


「どう? 上手くやっていけそう?」


 そう言うのは香織だ。貴弘は正直に今の本心を伝えた。


「さあ、どうかなあ?」


 それに香織は思うところがあったようだ。普段とは様子が違っていた。


「ごめんね、私の我が儘を聞いてもらって」

「驚いた、キミが謝るなんて珍しい」

「そう?」

「でもまあ、たぶんなんとかなるさ。だから二人で頑張ろう」

「うん。三人で、ね?」


 いわずもがな、香織の言う三人に笹原医師が含まれていないのは貴弘にも分かっていた。それは貴弘と香織、そして義父の三人になる。


「……うーん」


 だからこそ貴弘は曖昧にしか返事ができなかった。


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