第29話 シエーナの婚約
外は身が引き締まるほど寒かったが、王宮の大広間は熱気に包まれていた。
高い天井から輝きを放つシャンデリアと、集った王侯貴族達の煌びやかさ。
国立舞踏ホールも絢爛だったが、やはり王宮の夜会は設備も、管弦楽団も、集った人々の人数も上を行っている。
ワインをトレイに乗せて歩く給仕たちまでが、皆洗練されていて別世界の住人に見える。
二度目とはいえ、王宮でも盛大な夜会に身を置くと、シエーナは緊張して仕方がない。
「お父様、ハイランダー公はいらしてる?」
シエーナに問われるより前に、伯爵もずっと探しているのだが、ハイランダー公の姿は見つからない。
「まだのようだよ。彼は目立つから、いればすぐに分かるはずだからね」
大広間の中程まで進むと、周囲にいた人々が次々に伯爵とシエーナに話しかけてきた。
伯爵は滅多に夜会に娘を連れて来ないため、みな興味津々だった。
シエーナは社交の場にほとんと顔を出さないため、一部ではもしやイジュ伯爵令嬢は人に見せられないようなとんでもない容姿なのか、と噂する者たちもいた。
だが、どうだろう。
今夜王宮夜会に現れたシエーナは美しく着飾り、思慮深そうな黒い瞳が印象的な、凛とした女性ではないか。おどおどした様子もなく、伸びた背筋も綺麗だ。
気がつけばシエーナの周りにはたくさんの男性達が集まり、彼女は次々とダンスに誘われた。
そうして誘ってくれた男性と休みなくダンスをすると、シエーナは疲れ切って父のもとへと戻った。片手では足りない人数と、踊ったかもしれない。
「お父様、ダンスって疲れるのね」
「何も全員の相手をしなくてもいいんだよ。ダンスは断って、代わりにお喋りをしてもいいんだから」
「夜会って大変ね。ところで、ハイランダー公はいた?」
「さっき国王陛下にも聞いたんだが、少し遅れるらしい」
「そうなの。ちょっと肩透かしだわ」
ため息をつくと、シエーナはワインとダンスで熱くなった体を冷やそうと、バルコニーに出た。
大きなバルコニーの外には庭園が広がっていて、寒さをものともしない若者たちが、酒を片手に集って盛り上がっている。
ふぅっ、と息を吐くと冷たい空気に触れて顔周りが白く濁る。
キンと冷えた空気が、露出した首やデコルテの熱を冷ましてくれて、気持ちがいい。
広大な庭園に続く道は何本もあり、設置されたランプが柔らかく暗闇を照らしている。
(そういえば、前にここに来た時は、庭園の奥の方まで行って、バラを見に行ったんだったわ)
あの時はその先でハイランダー公に遭遇し、怖い思いをしたのだっけ。
自分が進んだ道を思い出して目で辿ると、小道の脇に立つ低木の前に一人の男性が立っているのを発見し、おやっと眉を上げる。暗い庭園に一人佇む人物に、違和感を覚える。
ランプの灯りが乏しいため、顔までは見えないが、シルエットには見覚えがある気がした。
見覚えがあるどころか、よく見知ったシルエットだ。
まさかね、と思いながらもシエーナは確かめようとバルコニーを下りた。
薄暗い庭園は雪こそ積もっていないが、バルコニーよりも寒く、二の腕を擦って寒さをしのぐ。
石畳の小道に、シエーナの靴がカツカツと響く。
低木のすぐそばまでくると、シエーナはハッと息を呑んだ。
そこにいるのは魔術師のデ=レイだったのだ。
王宮の庭園に、どうしてドルー渓谷の魔術師がいるのだろう。
何度瞬きをしても、まぼろしなどではなく、確かにデ=レイがそこにいる。
魔術館でいつも身につけている黒いローブではなく、夜会に出てもおかしくなさそうな、水色のジャケットを纏い、真紅のマントを片方の肩に掛けている。
シエーナはデ=レイの前まで駆け寄ると、驚きの声を上げた。
「お師匠様!? こんなところで何をなさっているのですか? ここ、王宮の庭園ですよ?」
「ああ、分かっている。君が参加すると言っていたから、私も覗きたくなってね」
忍び込んだのだろうか。今日は王宮夜会に行くと伝えてはあったけれど、まさか追いかけてくるなんて思いもしなかった。
デ=レイの魔力をもってすれば、王宮に紛れ込むことは難しくないのかもしれない。
慌てて辺りを窺うが、近くにいるのは酒瓶を持って何かの話題で盛り上がって爆笑している若者集団だけで、二人に気をとめている様子はない。
するとデ=レイは手を伸ばしてシエーナの手を取り、小道の奥へと誘った。
引っ張られるようにしてついていきながら、再度尋ねる。
「どうやって、王宮の中に? とても危険な行為ですわ」
「どうしても今日、君に会って話したくてね。ーーこの格好は似合ってないか?」
シエーナはもう一度デ=レイの全身を確認してから、微笑んだ。
「凄くお似合いです。貴公子のようです。ーーでも、衛兵にでも見つかったら大変ですよ?」
遠くからシエーナの名を呼ぶ声がした。
恐らくイジュ伯爵がバルコニーに出て、シエーナを探している。木立の向こうに目を凝らし、シエーナはつぶやいた。
「――もしかして、やっとハイランダー公が大広間に来たのかしら?」
それを受けて、デ=レイがシエーナの肩に手をかけ、振り向かせる。
「君は今夜、ハイランダー公に会うために王宮夜会にきたのか?」
「ええ。そうなんです。でも後にします。おモテになるらしいですから、どうせ今頃誰か女性とお話しされてるのでしょうし」
「それは間違いないな」
デ=レイはそう言うとシエーナの右手を握った。少し驚いた黒い瞳が、デ=レイを見上げる。
目の前にいる愛しい女性の濡れたような黒い瞳は、まるで夜空のようだとデ=レイは思った。星々を閉じ込めた天の色。
夜空がシエーナの瞳に、落ちている。
デ=レイは込み上げる思いで胸をいっぱいにした。髪だけでなく、シエーナは瞳まで世界一、美しい。
真剣な気持ちを言葉に滲ませ、デ=レイは言った。
「今夜は君に大事な話があって、こっそりここに来たんだ。どうしても、今夜でなければならなかった」
「まぁ、なんですの?」
デ=レイはシエーナの右手を取ったまま、自分のマントの裾を払うとその場に片膝をついた。
予想しない行動に、シエーナが目をパチパチと瞬く。
デ=レイはシエーナの右手の甲を引き寄せると、そこに優しく唇を押し当てた。
シエーナの心臓がドキンと跳ねる。
「シエーナ。私と結婚を前提に交際をしてほしい。私の婚約者になってくれないだろうか?」
「お、お師匠さま……?」
「もうとっくに分かっていると思うが、私は君が好きだ。君しか、いない」
シエーナはすぐには声が出なかった。驚きすぎて、嬉しすぎて。
何か言わなければ、と必死に口を開く。
「わ、私なんかで、本当によろしいんですの?」
「君は世界一、綺麗だ」
舞い上がるなと己に命じても、シエーナにとってそれは難しかった。
高揚し過ぎて寒さも時も、場所すら忘れ、シエーナはデ=レイと同じ目線になるべく、しゃがんで彼と目を合わせた。
たっぷりと生地を使ったドレスの裾が、芝の上に大きく広がる。
「お師匠様。それなら、ハイランダー公と話をつけてきますので、その後で私をこの窮屈な夜会から連れ出してください」
「もちろん、それこそ私も望むところだ」
デ=レイはシエーナの手に再び口付けると、立ち上がった。
釣られて立ったシエーナの両手を握り、少しいたずらっぽく笑う。
「その『お師匠様』というのは、そろそろ卒業しないか?」
「あら、でも私、考えてみればお師匠様の本名を知りません」
名前も知らない相手と婚約するのか、と我ながらおかしくてシエーナがくすくすと笑う。
デ=レイはシエーナの両手を引き寄せ、至近距離で彼女を見下ろした。
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