第28話 変化の兆し

 陰気なドルー渓谷にある魔術館には、最近以前より柔らかで明るい雰囲気が漂っている。

 研ぎ澄まされた美貌際立つ無表情な館の主人、デ=レイがここのところ、いつになく朗らかなのだ。

 声色すら優しく、以前のような近寄りがたい空気がかなり薄れている。

 デ=レイの機嫌は特に弟子のシエーナが同じ部屋にいる時に、顕著に良かった。

 いつものように、シエーナが腰の薬を包装していると、コブレンツ爺さんは思い切って尋ねてみた。


「お前さん達、もう結婚したんか?」

「こ、コブレンツさんったら。私達は師匠と弟子ですってば」


 首元まで真っ赤になるシエーナをしばし見つめてから、コブレンツ爺さんは首を傾げた。


「はて。わしの勘違いじゃったか」


 魔術館の近くに住む人々の間では、最近のデ=レイの密かな変貌ぶりが井戸端会議で頻出のテーマとなっていた。

 魔術館に行った夫人は、樽に水を汲みながら言った。


「デ=レイさんったら、仕事中もチラチラとシエーナを目で追っていたわよ。あれは、間違いなく惚れてるね!」


 ロンの母親が、洗濯物に水をかけながら、言う。


「だから私は最初からそう言ってたのに。デ=レイさんは、うちでシエーナちゃんと踊ってた時に既に、愛しそ〜に見つめていたんだから」 


 コブレンツ爺さんは魔術館の噂を思い出しながら、生ぬるい目で二人を見た。

 デ=レイもシエーナも、客に気を遣っているのか、今日は視線を交わしていない。だが、二人を取り巻く丸く穏やかな空気感が、老いた目にははっきり見える気がする。


「コブレンツさん、今日は貼り薬も入れてあるので、帰ったら試してみて下さいね」


 シエーナがそう言いながら、薬の入った袋を手渡す。コブレンツ爺さんはウンウンと頷いた。


「ありがたい。本当に、お前さんがここにヨメに来てくれて、良かったわい」


 ああ、なんだかやっぱり色々分かってない。

 シエーナは苦笑した。


 コブレンツ爺さんが館から出ていき、玄関扉が閉まるなりデ=レイはシエーナを後ろから抱きしめた。


「お師匠様!」

「嫁、か。実に良い響きだな」


 そのまま首を曲げて、シエーナの頬にキスをしようとする。


「仕事中ですわよ! お師匠様。申し上げにくいのですけれど……、はっきり申し上げるとお師匠様は、最近少々たるんでらっしゃいます!」


 危うく唇にまで降ってきそうなキスを、どうにかよける。


「シエーナ。君があんまり可愛いから」

「それは目の錯覚です。お客様に最近、ドルー渓谷の魔術館の風紀が乱れていると思われたら、大問題です。仕事中は恋愛禁止ですわ」


 デ=レイを押し退け、玄関ホールで腕組みして毅然と仁王立ちするシエーナの姿に、しばし唖然とする。

 陰気な紫色の壁紙を前に、デ=レイに怯えて震えていたかつての姿を思い出す。


(君は、随分と強くなったんだな、シエーナ。凛として、輝いて見えるようだ)


 相変わらず地味な古臭いドレスを着ているのに、体から燐光すら放っているように見える。内面の美しさは、隠しようもないのだ、とデ=レイはしみじみと思った。

 国王の弟である特権を存分に利用し、次の王宮夜会にはシエーナを誘ったが、できることなら他の夜会には出ないでいてほしい。彼女と出会った男達が、その魅力に気づいてしまったら困る。

 デ=レイはとろけるような微笑と声で、シエーナに尋ねる。


「シエーナ、それなら昼の休憩中は、キスしてもいいか?」

「お師匠様……」


 脳髄にまで響く色気のあるバリトンでキスをせがまれ、シエーナは危うく首を縦に振りかける。


(ダメダメ! 引きずられるところだったわ。しっかりして、シエーナ)


 甘い囁きを振り払うかのように首を勢いよく左右に振ると、シエーナはキッパリと言い放つ。


「いけません! 秩序が乱れますもの」

「唇は求めない。額に軽いキスでもだめか?」

「キスはキスです。違いがありません。お師匠様は、閉館まで真面目にお仕事をなさるべきです」


 デ=レイは落胆して少し肩を下げた。


「そうか。分かった」


 師匠が素直に分かってくれたことに安堵し、シエーナが大きく頷く。

 だがそこへ、デ=レイがバリトンの低い声でつぶやいた。


「――閉館するまで、だな」


 ぎくり、とシエーナは目を瞬いた。

 デ=レイの澄んだアイスブルーの瞳が、ひたとシエーナに注がれている。その目の奥に、してやったりと言いたげな危うい色が潜んでいる。


「お、お師匠様、あの…」


 シエーナは墓穴を掘ったことに、遅まきながら気がつく。

 デ=レイの口元に、笑みがゆっくりと広がっていく。凄絶な美と色気を伴った微笑に、シエーナの背筋が色んな意味で震え上がる。


「五時からが、楽しみだ。これで仕事を頑張れそうだ」


 ああ、五時になったらイチ号に近くに居てもらわなきゃ。

 シエーナはそう思った。





 王宮夜会の招待状が届いてから、一ヶ月ほどが過ぎた夜。

 いよいよ人生二度目の王宮での夜会を今夜に控え、シエーナは緊張のあまり、倒れてしまいそうだった。

 支度が整うと、伯爵邸内を無駄にうろうろしてしまう。

 廊下で出くわしたメアリーは、思わず義姉を二度見してしまった。

 いつもより義姉が二割増し、いや三割増しで魅力的に見えたのだ。


「お姉様、今夜のドレスとお化粧は史上最高の出来ですわね」

「ありがとう、メアリー」


 礼を言った後で、シエーナは申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「せっかく紹介してくれたのに、今夜はマール子爵のお誘いを断ったりして、本当にごめんなさい」

「いいえ。ルル達がうわさしているのを聞きましたけど、今夜の王宮夜会はあのハイランダー公にお会いするために行かれるんですよね?」

「え、ええ。そうなのだけれど」

「それなら、仕方ありませんわ。女なら誰しも、上位の男を狙うもの。男爵より子爵、侯爵より公爵ですもの!」


 シエーナは義妹の熱弁が咀嚼できず、返答に窮した。


「かつてのハイランダー公のゲリラ的な求婚に、お義父様やお義姉様が混乱なさって正しい決断が下せなかったのは、わかりますわ。けれど、ハイランダー公が意外とへこたれない、しつこいかたで本当に良かったです」


 メアリーは勘違いしていた。

 伯爵とシエーナがハイランダー公の求婚を受け入れるのだと。訂正したいのだが、あまりの熱弁に説明を挟む余地がない。メアリーは捲し立てた。


「デブよりマッチョ。ハゲよりフサフサ。おチビより高身長。ええ。わかりますわ。『ちょっと整った顔』より、『超絶美形』を選ぶ方が賢明です」

「あ、あの、メアリー?」

「美人は三日で見飽きる、なんて嘘ですわ。結婚生活は長いんですもの。ふとした拍子に相手が嫌になったり、憎らしく思えることも多々あります。そんな時に顔まで悪かったら、そこに救いはありません!」

「いえ、そこまでは…」

「長い結婚生活の末に、そこに愛はありますか? いいえ。負の感情を止めてくれる美がなければ、不滅の愛なんて綺麗事です。見た目が良い方が、良いに決まってます!」

「め、メアリー。少し落ち着いて。お腹の赤ちゃんに悪いかもしれないわ」


 メアリーは一旦黙り、膨らんできたお腹をさすって呼吸を落ち着けた。

 この先、公爵が義兄になるかもしれない。

 ハイランダー公は国王の弟だ。なんて完璧な未来。


「今夜は私も行きたいくらいですけれど、この子と安静にして待ちますわ。お義姉様、応援しております!」


 シエーナには最早、訂正する勇気がなかった。

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