第26話 縮まる距離
三世代の親子が身を寄せ合って魔術館を出ていくと、シエーナは早速りんご飴をデ=レイに見せた。
デ=レイはりんごに刺さる木の棒を手に持ち、胡乱な目つきで観察したあと、テーブルの上のコップの縁にりんごの側面を幾度かぶつけた。カンカン、と高い音が響く。
「物凄く硬そうだぞ。どうやって食べるんだ? かじれば歯が欠けそうだが、舐めれば飴部分がなくなるより先に舌が擦り減りそうだ」
「……お師匠様、もしやりんご飴を食べたことがないのですか?」
「ああ、ない」
途端にシエーナはおかしくなって笑い出した。
強力な魔術を自在に操るデ=レイでも、知らないことがあるのだ。
シエーナはほんの少し優越感を抱いて、上から目線で教えた。
「その通りです。丸ごとこのままなんとかしようとすれば、一日がかりになります。りんご飴は、包丁で切って食べるんですよ」
「それは知らなかったな。感激したよ。覚えておこう」
「棒読みで言わないでくださいな! 本当に美味しいんですから。今切ってきますね!」
正直に言えば、早く食べさせたい、というより自分が早く食べたい思いで、シエーナは台所に走った。
棒を上にしてまな板に乗せたりんご飴のてっぺんに、包丁の刃を当てる。
押し引きしても、なかなか刃がたたない。
「ロンったら。これは流石に、ちょっと飴をつけすぎね」
慎重に力を込めると刃が飴に食い込み、パキッと気持ちの良い音がすると、あとは滑らかに包丁が下まで通る。
まな板に転がる砕けた小さな飴の破片を摘み、口に入れる。
「おいしぃ……!」
この甘さとりんご果汁のジューシーさ、そして酸味が合わさり、極上のオヤツとなるのだ。
手早く櫛形に切って皿に載せると、客がまだ来ていないのを確認してから、デ=レイのいる広間に運ぶ。
「いかがです? 美味しそうでしょう?」
デ=レイは皿の上を目にとめるなり、小さく頷いた。
「なるほど。これならいけそうだな」
二人でソファに腰掛け、りんごに齧り付く。
サクッという美味しそうな音を立てた直後、シエーナは心から「おいしい」と唸った。
カリカリと砕ける飴と、りんごの異なる食感がまた味わい深い。
三つ目を取ろうと手を出した時、二人は同じりんごに手を伸ばしていた。
素早く目を上げたデ=レイがシエーナを笑いを含んだ目で捉える。
「なんでこれを選んだかわかるぞ。一番大きいからだな?」
「それはお互い様ですわ」
お互いに食い意地が張っていることがおかしくなり、くすくすと笑ってしまう。
大きいほうをデ=レイに譲ると、シエーナはシャリシャリと食べ進める。
酸味と甘みのハーモニーが美味しくて、手が止まらない。
二人はあっという間に胃の中に収めてしまい、ついに最後の一切れになった。ほぼ同時にそれに手を伸ばすと、顔を上げて再び笑ってしまう。
「これは切ってくれた君には譲るべきだな」
「あら、ありがとうございます」
素直に礼を言うと、シエーナは最後のひと切れを平らげた。
幸せそうに食べるその顔を頬を緩めて見つめていたデ=レイだったが、一転して真面目な顔つきになると、一旦視線を皿の上に落としてから、再びシエーナをまっすぐに見つめて口を開いた。
「親戚の家のパーティは、どうだった?」
なぜそれを聞くのか、と狼狽えたシエーナだったが、アイスブルーの瞳は真剣だ。
ごくりと唾を嚥下すると、シエーナは正直に答えた。
「私、ああいう場は不慣れで。なんだか思ったよりも、お話が弾みませんでした。あまり上手くいかなかったかもしれません」
「肝心の、マール子爵はどうだった?」
「率直に言いますと、マール子爵はーー思ったほど魅力的じゃなかったんです」
「そうなのか?」
口を開いてからデ=レイはしまった、と思った。声に嬉しそうな表情が乗ってしまった。
上げかけた口角を、慌てて抑える。
「素敵な人だったんですけど。穏やかそうで、優しそうで」
「でも好みじゃなかった?」
「思ったほど、ときめかなかったんです」
「君は……たとえばどんな男ならときめくんだ?」
「私は……」
それ以上は言えなかった。自分を見下ろすデ=レイの瞳があまりに熱心で、少し怖くなったシエーナは俯いてしまう。
一方のデ=レイはシエーナの気持ちをもっと探りたくて仕方がない。
それにたとえシエーナが気に入らなくても、マール子爵はそうは思わなかったかもしれない。デ=レイは念の為尋ねた。
「――マール子爵から、次のお誘いはあったのか……?」
意外なことを聞かれ、シエーナがパッと顔を上げる。
「あっ、ええ。一応子爵様のお屋敷にはお誘いを受けたんですけれど。きっと社交辞令ですわ」
気がつくとデ=レイの顔は随分と近い距離にあった。
デ=レイが身を乗り出して、シエーナを見下ろしている。
隣に座り、皿一枚の間隔で見つめ合うのはあまりに近すぎる気がしたが、シエーナは目を逸らせなかった。
「シエーナ。誘われたとしても、子爵邸には行くべきじゃない」
「そうですね。そもそも私のような伯爵家の出来損ないを、子爵が好きになってくれるはずがありませんし…」
「子爵は君に、不釣り合いだ」
「ええ……そう思いますわ」
(なぜこんなにもマール子爵を気にかけて下さるの? お師匠様は、誰なら私に釣り合うというの?)
言ってほしい。この無言のもどかしさに、耐えられない。
デ=レイはシエーナをひたと見つめたまま、囁いた。
「君は、自分にはどんな男がふさわしいかを、もう分かっているはずだ」
皿を持つシエーナの手が、震える。
するとその手が急に温かくなった。デ=レイが手をシエーナの手に重ねたのだ。つつみこむように。
その温もりに、硬い心が溶けていくようだった。
溶け出した思いは、もう止められない。
押しとどめていた気持ちは勢いよくシエーナの胸中に溢れ、行き場所を求めて喉元まで迫り上がっていく。
伝えたい。
言葉にしてしましたい。
口にしない方が、もはや辛かった。
シエーナは皿を強く握ると、デ=レイの瞳を見つめたまま、意を決して言った。
「私は……、たとえば陰気な渓谷の魔術師となら、釣り合いますか?」
意外な問いかけに、デ=レイは一瞬その瞳を見開いた。これほど心震える質問が、あるだろうか。
震える声で問いかけ、不安そうな瞳でひたと見つめてくるシエーナを、デ=レイは皿ごと抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
君ほど素敵な女性はいない、ほかの男に会いに行くなと、甘い言葉を吐き尽くしてしまいたい。
以前の自分なら、女性はそう落としていただろう。
だが、シエーナに強引な気持ちを押し付けたくはない。
それに押し過ぎるとシエーナは怖気付いて逃げてしまうかもしれない。
大切な存在ならばゆっくりと丁寧に、着実に進めていかなければ。
今更ながらそんなことに気がつき、デ=レイに苦々しい思いが込み上げる。
(本当に人を愛すると、こんなにも苦労するものなのだな。以前の私は、一体なんだったんだ)
今すぐ手に入れてしまいたい。けれど、万が一逃げられてしまうことが、恐ろしい。
デ=レイは皿を直接掴むと二人の間からどけ、もう片方の腕をシエーナの腰に回して彼女の体を引き寄せた。シエーナがギョッとして目を剥いたが、抵抗はしなかった。それどころか頬がほんのりと薄紅色に染まる。
上目遣いに見上げてくるシエーナの、期待を孕んだ表情に促されるように、デ=レイは更に踏み込む。
「君はこんなに得体のしれない魔術師が、自分に釣り合うと?」
「お師匠様は、立派な方です。私、貴方を尊敬しています」
「尊敬? 君は勤めていた王都の魔術館の、リド魔術師にも同じことを?」
だとすれば、会ったこともない王都の魔術師に、仄暗い嫉妬心を覚えてしまう。
だがシエーナは、首を左右に振った。
「違います。これは、全く別の感情です」
「どう違うんだ?」
「魔術師として勿論尊敬しています。けれど、それ以上に、ひ、一人の男性として……。もしも、一緒にいるのがお師匠様だったらどんなに素敵かしらと、気づいてしまったんです」
思わぬ発言に、デ=レイが目を大きく見開く。
シエーナは緊張で心臓がバクバクと鳴るのを感じながら、勇気を出して続きを切り出した。
「マール子爵と二人でいた間も、私……、とても失礼だとは思ったんですけれど、――お師匠様のことばかり考えていました」
「本当に?」と確かめるように尋ねるデ=レイの声は、限りなく甘い。その甘さに引き出されるように、シエーナはするすると言ってしまう。
「わ、私は……お師匠様でないと……、もうどんな男性も、
可愛らしい告白をした桃色の唇に、キスを浴びせてしまいたい。デ=レイは沸き起こる衝動をなんとか我慢した。
「私がこのローブを脱いで魔術師でなくなっても、同じことを言ってくれるか?」
「お師匠様が魔術師だから、惹かれているのではありません」
デ=レイはいよいよ核心的な質問をすることにした。
ここのところずっと、シエーナに聞いてみたかったことを。
「シエーナ。君は私という人間が、好きだと言えるか?」
「ええ。言えます」
「私がこう見えて華やかなものが嫌いで、読書が趣味でも?」
「むしろどちらかと言えば、そのように見えますけれど」
「私の本宅や生家が、君の想像している規模とは例え違っていても?」
もしかすると、デ=レイの実家はこの館よりも小さいのかもしれない。
でも、それでももちろん、シエーナは構わない。
「そんな心配はご無用です。私はお師匠様がお師匠様だから、お側にいたいと思っているんです」
「私が……、君に今キスをしたくてたまらないと言ったら?」
途端にシエーナの頰が真っ赤に染まる。耳まで赤くさせながら、シエーナは震える小さな声でなんとか返答した。
「嬉しい、です」
「君に、キスをしたい」
シエーナは顔ばかりか頭の中まで沸騰したように熱くなっていく中、怯えつつも顔を上げて首を伸ばし、デ=レイとの距離をさらに縮めた。
その顎先にデ=レイが指先をかけ、二人の距離が限りなくゼロに近づいていく。
柔らかな唇と唇が触れ合った時、シエーナの頭の中は喜びと興奮で真っ白に弾けた。
デ=レイは手にしていた皿のことをすっかり忘れ、皿が指から滑り落ちて床に落ちる。
デ=レイは長いこと優しく唇を押しつけた後で、一旦唇を離した。
だがあまりに物足りなくて、今度はシエーナの頭を両手で引き寄せ、逃げられなくしてから再び唇を味わう。角度を変えてその柔らかさを味わっていると、急にシエーナがびくりと震えて体を離した。
どうしたのかと目を見開くと、シエーナの頭上にイチ号が止まっている。
「イチ号? な、何?」
首をひっこめてシエーナがイチ号を見上げる。
「チュン、ピチュン!」と鳴きながらイチ号はシエーナの頭の上で足をあげたり下げたりをした。怒ったように、体の羽毛を膨らませている。
「なんてタイミングの悪い使い魔だ。イチ号、やめなさい」
イチ号が反抗的に首を逸らす。
シエーナは頭上に手をやり、あっという間にデ=レイの腕の中から離れた。
「か、髪がぐちゃぐちゃになっちゃうわ。イチ号ったら、焼き餅をやいてしまったの?」
「イチ号、止まり木に戻りなさい」
デ=レイが命じるが、イチ号はなかなかどかない。たまりかねたシエーナがソファから立ち上がると、やっとイチ号は彼女の頭から離れ、止まり木に飛んでいった。
「びっくりした……」
乱れた髪を整えながら、二人の目が合う。
アイスブルーに見つめられるなり、シエーナはさっきまでの自分達の行為が急に恥ずかしくなった。
(私ったら、はじめてのキスをお師匠様としてしまった……。しかも仕事中に!)
床に落ちた皿に気がつくと、慌ててそれを拾う。
りんご飴を美味しく食べていただけなのに。するすると想いを伝えてしまった。
頭に回されたデ=レイの手の力と、押し付けられた唇の熱さを思い出すと、もう恥ずかしくていてもたってもいられない。
「あ、あの。お皿を洗って参ります!」
逃げるように台所に駆け出していった。
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