第22話 縮まる距離
大雪の降った翌週。
デ=レイは魔術館に向かったが、その足取りは重かった。
いつものように金曜日に行く気にはなれず、重い腰を上げたのは土曜日の午前中だった。
従者のセインに何度も急かされながら、どうにか馬車に乗り、渓谷の魔術館に向かう。
「この時間ですと、お客さんが今日は臨時閉館かと勘違いして、もうすでに何人か帰っちゃったかもしれませんよ?」
セインが懐中時計を開いて時刻を確認しながら、向かいに座るデ=レイにボヤいた。だがデ=レイは馬車の車窓を叩いて流れていく雨を見つめて首を振った。
「この大雨だ。客も来ていないだろう」
「ですが、シエーナ嬢は来ているのでは?」
「まさか。先週見送る時に、今までの給与は渡したし、明日からこの渓谷のことは忘れるよう言っておいたんだ」
それなら、シエーナはもう来ないのだろう。
セインは納得し、両目を擦った。
昨夜はハイランダー公を説得するのに夜更かししたせいで、眠気が泥のように全身に纏わりついている。
大きなあくびをすると、セインはそのまま目を閉じて眠ってしまった。
次にセインが起きた時、そこはもうドルー渓谷の魔術館だった。馬車が止まった振動で目が覚めたらしい。
セインは伸びをしてから、窓の外を見やった。
「あれっーー? ドアの前に、誰かいますね」
車内で呟くと、背もたれに斜めにもたれながら寝ていたデ=レイが息を吐きながら顔を上げる。
「誰がいるんだ?」
窓の外をよく見ようとガラスに顔を近づけ、直後にデ=レイは息を呑む。
魔術館の前に立っているのは、榛色の髪の彼女――シエーナだった。
「ばかな! なぜ!」
デ=レイは一目散に馬車から飛び降りた。
魔術館の玄関にはひさしがあるが、長時間大雨に降られても濡れずに済むほど大きくはない。
デ=レイの到着に気がついて振り返ったシエーナの息は白く、寒さに耐えたのか唇は真っ青だった。
スカートは膝の辺りまでびしょ濡れで、傘を持つ手は震えている。
「どうして! なぜ来たんだ!?」
シエーナを悪天候の中待たせてしまった焦りと、不甲斐ない自分への怒りでガタガタと震えてしまう手で、どうにか玄関扉の鍵を開ける。
「あ、あの、やっぱりお手伝いが必要かと思いまして……。私、ここの魔術館に来る人たちが、好きなんです」
「とにかく、中に入ろう。すぐに暖炉に火を入れるから、来なさい」
扉を大きく開けると、デ=レイはシエーナの肩を引き寄せ、中に引き入れた。
「あ〜あ。お館様ってば振り回されてるなぁ」
馬車の中からこっそり覗いていたセインは、主人の珍しい様子に苦笑した。
空を見上げれば朝なのに夜のように真っ暗だ。これなら当分大雨は続くだろう。
自然と口元がにやけてしまう。
誰にも邪魔されず、二人の時間は十分あるということだ。
「お館様。頑張ってくださいね」
応援の言葉を漏らすと、セインは御者に公爵邸に戻るよう伝えた。
魔術館に入るとデ=レイは暖炉に走った。
右手をかざし、魔術で火を起こす。急ぎすぎてコントロールが効かず、暖炉一杯にボンッと音を立てて炎が広がる。
「イチ号!」とデ=レイが叫ぶと、止まり木で休んでいたイチ号はすぐに羽ばたき、洗面室へ向かった。あっという間に舞い戻ってくると、口にタオルを咥えている。重みで飛びづらいのか、イチ号は急降下しながらなんとかシエーナのもとにタオルを運んだ。勢い余って床に落ち、止まり切れすに転がる。
「イチ号、ありがとう」
シエーナはタオルを取ると顔やドレスの上に当てて、水分を拭き始めた。
濡れたブーツを脱ぎ、暖炉の前に椅子を持ってきて、ドレスの裾を火にかざしながら、冷え切った足先を温める。
一旦台所に行ったデ=レイは、戻ってくるとお湯を張った金属のタライを抱えていた。
デ=レイは膝をついてシエーナの足元にタライを置き、彼女を見上げた。
「足を入れるといい。霜焼けになってしまうぞ」
お礼を言う前に、シエーナは苦笑した。
ここに初めて魔術師を訪ねてきた日のことを、思い出してしまった。あの日、シエーナの足の指はパンパンに腫れ上がっていた。
ゆっくりとつま先から湯の中に浸していく。冷えて強ばっていた足と、気持ちまでもが解けていくようだ。
「温かくて気持ちいいです、お師匠様。お手伝いに来たのに、かえってお手を煩わせてしまって、申し訳ありません」
小さく首を左右に振ってから、デ=レイは首を傾げた。
シエーナは一週間前に会った時と、全く変わり映えしない。地味なヘアスタイルに、薄化粧。古びたダサいドレスを纏っている。
物言いたげに自分を見つめるアイスブルーの瞳に居心地悪さを感じ、シエーナは椅子の上でもじもじと動いた。
「あの、私の服が何かーー?」
「いや、君。なんて言うか……。先週は『令嬢ヒャッホイ生活』とやらをすると宣言してなかったか?」
「ええ。ですので、今日は生意気にもネックレスをしてきましたの」
は?
とデ=レイの目が点になった。
アイスブルーの双眸がひたとシエーナの首元に向けられる。
シエーナの白い首を飾るのは、少し力を入れれば切れてしまいそうなくらい細い鎖でできた、極めて質素で大人しいネックレスだった。鎖からぶら下がっているのは小さな青いカメオだ。
シエーナのあまりにささやかな贅沢ぶりに、デ=レイは我慢できずに声を立てて笑ってしまった。
「な、何か変ですか? やっぱり私がアクセサリーだなんて、おかしいでしょうか……」
「いや。それでこそ、イジュ家のシエーナだよ。君は、なんて可愛いんだ」
(えっ、可愛い!?)
びっくりして思わず目をそらしてししまう。
聞き間違えだろうか。
シエーナは自分が冴えない女だということを、十分自覚していた。そんな自分を、デ=レイが可愛いだなんて。
ちらりとデ=レイを見ると、彼はシエーナをひたと見つめたまま、立ち上がった。
タオルを手に、シエーナの座る椅子の背もたれの後ろに回る。
「髪が濡れている。拭かないと風邪をひいてしまう」
シエーナが言葉を挟む間もなく、デ=レイはシエーナの結い上げた髪からピンを抜き、彼女の髪を解いた。
バサリと肩や背中に髪が落ち、シエーナが焦る。
おろした髪を見せるというのは、二度目であっても大人の貴族の女性としては、やはり羞恥心があった。
デ=レイの手がシエーナの髪を掬い取り、タオルで挟んで優しく水分を吸収していく。
薄暗い部屋の中で、暖かな暖炉の火に照らされた手の中の髪の色が、重みが、冷たさまでもが愛おしい。いっそ、許されるならば口付けてしまいたいほどに。
客がこのまま来なければいい。この時間が、永遠に続けばいい。
シエーナの髪に酔い痴れ、デ=レイはつい尋ねてしまった。
「この世で一番美しい髪は、何色だと思う?」
唐突な質問に、シエーナは目を瞬いた。数秒の逡巡の後、答える。
「そうですね。私は、自分の母のような金髪に憧れていました。でも、赤い髪も素敵だと思うんです。情熱的で」
情熱。それは自分に不足しているように思えたから、羨ましく思えるのかもしれないーーそんな風に軽く自己分析していると、デ=レイがきっぱりとした声で言い切った。
「違うな。この世で一番美しい髪は、榛色の髪だ」
それはどういう意味だろう……。
予想外の切り返しに、シエーナは固まった。
黙っているのも変なので、口を開く。
「まぁ、ありがとうございます。榛色の髪を持つものとしては、とても光栄ですわ」
「いや、違うな。榛色だから美しいのではない。君の髪の色だから、美しいんだ」
ますます、何を意図しているのか、わからない。
シエーナは激しく瞬きをした。
(これじゃ、まるで私に愛を囁いているみたいじゃないの。そんなはず、ないと思っていたけど。信じられないけど、やっぱりお師匠様って、私のことをお気に召されてるのかしら)
一生独身を貫こうと思っているのに、困る。
(いいえ。待って。私はもう、独身を貫く必要はないんだわ。思うままに生きていいんだと、先週分かったばかりじゃないの)
そう気づくと、急に頭皮がゾワリと興奮した。
デ=レイが触れている髪の一本一本に、まるで感覚があるかのように手が熱く、ドキドキしてたまらない。
額の上にタオルを回し、優しく押しつけて拭いてくる手つきに、血流が押し上げられる。
頭に乗せられた大きな手が心地よく、思わず目を閉じてしまう。
世話を焼かれるというのは、なんと心地いいのか。
やがてデ=レイは髪を拭き終えると、シエーナの背もたれに手を乗せた。
「今度、パーティがあると言っていたな。ーーもしや、マール子爵に会うのか?」
「どうして、彼のことを?」
「君に子爵なんて、合わない。君には、もっと…」
待て待て、俺は何を言おうとしているのか、とデ=レイは言葉を濁した。
子爵なんて物足りない。侯爵だって不足がある。君には公爵でないと、相応しくない。そう言いたかったが、勇気がなかった。言ってしまった後の、シエーナの反応が怖かった。
一方でシエーナは続きをしばらく待ってしまった。
地味なシエーナには、子爵なんてもってのほかだ。男爵だって勿体ない。シエーナには爵位などない、平民の男性がお似合いだ。例えば、今君の目の前にいるような。ーーきっとデ=レイはそう言いたいのだろう、と思った。
そしてデ=レイが言い切ってくれるのを聞きたい、とさえ思った。
お前に子爵など、合わない。
それはシエーナをけなしているようで、けれどどんなにか甘美な響きだろう。
デ=レイにこそふさわしいと、言ってほしい……。
だが待ってもデ=レイはその先を言葉にしなかった。
「シエーナ、君はまだここで働いてくれる気があるのか?」
「平日は父の事業を少し手伝い始めたんです。でも、土日はここに来たいんです。助手はもう、いりませんか? あの、お給金はいりません。お騒がせしたお詫びです……」
デ=レイはなんと答えるべきか、迷った。
伯爵令嬢としてのシエーナにとっての最善を考えてやるならば、これ以上魔術館になど、入り浸るべきではない。
本当は、もっと彼女には伯爵家の長女として、栄光と名誉に溢れた道があったはずなのだ。
彼女をこの館に縛り付ける権利はない。
祖母のしたことは、シエーナの人生に大きすぎる負の影響を与えてしまったと思う。
魔術館にシエーナが初めてやってきた時、「貧相な女」だと思った。今は自分の人を見る目を恥じているが、彼女を質素堅実に勤しませたのは、結果的には誰あろうル=ロイドなのだ。
デ=レイはドルー渓谷の魔術館を継ぐ者として、そのことに罪悪感を覚えていた。
ここはシエーナと出会ったばかりの頃のように、毅然とクビを告げるべきだ。君は不要だ、と。
どうせ聖玉も満足に操れないのだから、元々助手として失格なのだ、と。
だが、デ=レイは気がつくと言っていた。
「君には、正直言ってとても助かっているよ」
「本当ですか? お役に立てて、嬉しいです!」
シエーナは弾ける笑顔を浮かべた。
あまりの可愛らしさと嬉しそうに輝く瞳が眩しくて、申し出を断らなければ、というデ=レイの毅然とした気持ちが、さらに萎えていく。
「だが、ーー忙しくはないか? ここにまだ通えるのか?」
「平日のお手伝いは、午前中だけですので、大丈夫です。午後は、今まであまりやってこなかったダンスや刺繍のレッスンをしています」
シエーナは自分磨きに力を入れ始めていた。
イジュ伯爵はといえば、運送業からあっさりと手を引く決心をした。
新事業に心残りがないわけではない。だがダメだと思ったらすぐにやめる決断が、経営には重要だった。
「困難に直面して、イジュ家の人間が今まで以上に団結して、心を一つにしている気がして、むしろ気持ちは落ち着いています」
シエーナは貿易船の沈没による負債額の集計を手伝っていた。意外にも当初想定したよりも、イジュ家が被る損害は小さく済みそうだった。ほとんどの貨物が保険に入っていたからだ。
父は領地を売ることも考えていたが、そこまでしてお金を工面する必要はなさそうだった。
家業のために働くシエーナの姿に影響を受けたのか、宝石業に無関心だったメアリーもここ数日、支店に顔を出しては差し入れを持ってきてくれるようになっていたのだ。
「父の実力と、経営者としての才能があれば、必ずやり直せます」
デ=レイはそれを聞いて安心した。
窓の外を見ると、雨が少し弱まっていた。この調子なら、午後には止むだろう。
「服が乾いたら、仕事にとりかかろうか。今日は、コブレンツ爺さんが来る日だ」
「はい。腰のお薬ですね!」
コブレンツさんが来たら、温かい紅茶を入れてあげよう。今日は生姜入りがいい。
そう考えると、とてもわくわくしてくる。この生活を手放すなんて、もったいない。
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