第21話 解かれた呪縛とシエーナの明日


「でも、そんなことってあり得ますか? だって、それならなぜル=ロイドは正直に言ってくれなかったのかしら。契約を交わしたような素振りをして」


 まさか、村人に寄り添うことで評判だったル=ロイドに、聖玉を騙し取るつもりがあったとも思えない。


「君も魔術師の水晶占いを、よく知っているだろう。未来を知ってしまうことで、その未来が変わってしまうこともある。敢えて君が口外できないよう、契約の形を取って、伯爵家の努力を怠らせまいとしたのかもしれない」


 未来を言わないことが、かえってその未来を呼ぶことへの一番確実な方法だった?

 デ=レイは少し考え込んでから、言った。


「あるいは、水晶玉の中に祖母は別の未来も見たのかもしれない。今の君からはちょっと想像しにくいが、たとえば裕福になり、甘やかされて調子に乗った令嬢が、賭博にハマって家を破産させる未来なんかを」

「わ、私が……?」

「君の謙虚さも、イジュ家の繁栄に不可欠な要素だった。だからこそ、実際には必要のない後払いの対価を要求したのかもしれない」

「そ、そんなのって……。何も言わずに先に私の前からいなくなってしまえば、私が困るのは分かっていたはずなのに」


 デ=レイは考えた。

 一番簡単な方法は、魔術でシエーナの希望を叶えることはできない、と断ることだったはずだ。もしかしたら祖母は小さなシエーナを失望させたくなかったのかもしれないが、敢えて魔術に頼らせた理由が他にあった気がしてならない。

 いや、ひょっとすると。

 デ=レイは心の中で頭を抱えた。


(後払いを約束させて、シエーナが絶対にこの館に将来戻ってくるように、仕向けたのか?)


 だとすると、恐らくそれは、ル=ロイドの遺言状と無関係ではない。

 ル=ロイドは自分の死後にデ=レイとシエーナが必ず出会うようにしたのだ。魔術師と弟子という関係がなければ、二人の運命が交差することが皆無であることを、予想していたのだろう。


 シエーナは少し自信がなさそうだったが、小声で言った。


「おっしゃる通りだとすれば、契約はーー実際にはなかったんですね」


 シエーナはしばらくの間床に座り込み、衝撃を受けたように放心していたが、やがて事態を整理するためにゆっくりと話し出した。


「つまり全部が、魔術の結果なんかではなくて、イジュ家の私達自身で手に入れた成功だったということ?」

「そうかもしれない。魔術ではなく自分たちの実力を、見くびる必要はない」


 デ=レイの考えに光を当てると、むしろ納得がいく願い事が一つあった。父の髪が多分増えていないのは、努力ではどうにもできない、厳しい現実があったからではないのか。


「あれだけは、父の頭皮の限界だったのね」


 シエーナの独り言を、デ=レイは聞き流した。

 シエーナは自分の両手を見た。自分はル=ロイドと魔術契約を結んでいなかったーー?

 イジュ家の成功は、まやかしなどではなかったとしたら。


「だとすれば、魔術が解けることをこんなにも長年心配する必要は、ちっともなかったんだわ」


 全部私たちの実力だった――そう思うといま立っているのは砂のように脆く崩れやすい地面ではなく、硬い地面なんだと実感が湧く。

 今まで長年悩んできたことが全て片付き、重荷がなくなって全身が軽くなった思いだ。

 周りに立ち込めていた深い霧が、晴れ渡ったような。

 デ=レイは硬い声で告げた。


「だとすれば、君が魔術を勉強しなくてはいけない理由も消えたな。魔術師になるつもりは、ないんだろう?」


 愚問だ、とデ=レイは思った。

 元素の力を操ることができない者が、魔術師になるのは不可能だ。


「君の家族は、君がリド魔術館で働いていることを、快くは思っていないはずだ」

「義妹に関しては、間違いなくそうですけれど…」

「ではもう、過去に囚われるのはやめるんだな。君は恐れなくてもいいことを、恐れてきたんだ」

「もう、私は怖がらなくてもいいのでしょうか」

「君は、自分や伯爵家の未来に関して、なんの心配をする必要もない。定まった未来などないんだ。自由に道を選べばいい」


 シエーナがドルー渓谷の魔術館に来る理由は、消滅したのだ。なぜ祖母がシエーナの意識をこの魔術館に縛りつけたのかは分からない。だが、その鎖は今、解かれてしまった。

デ=レイは寂しげに言った。


「君に謝らねばならないのは、私の方だな」

「お師匠様?」

「この魔術館の嘘の契約が、君を長い間苦しめた。祖母の目的はわからないが、君にこんな真似をさせた責任は、間違いなく祖母にある。君に施した魔術は、なかったのに」


(魔術は、なかったーー)


 デ=レイの言葉がシエーナの頭の中を旋回し、ゆっくりと染み込んでいく。

 シエーナは宙を見つめたまま、何度か瞬きをした。

 突然シエーナは悟り、顔をパッと上げた。


「私、もう我慢しなくてもいいのね!」


 徐々に晴れやかな笑顔を見せていくシエーナを、デ=レイは静かに見守る。


「私、これからは巷の令嬢たちのように、贅沢を享受して良いのね。こんな地味な服を着なくても良いんだわ!」

「今着ているその服は、私が貸したものだがな」

「私、これからはウジウジ部屋にこもって魔術書ばかり読まずに、パーティでヒャッホイできるのね!」

「ヒャッホイしたいのならばな」

「今度のメアリーの実家のパーティで、出会いを求めてきても許されるのね!」

「ーーそれは、君の義理の妹仕込みのパーティが……?」

「ああ、これからは……、」


 今までの生活が地味過ぎて、それ以上思いつかないのか、言葉が出てこないシエーナに代わり、デ=レイが続ける。


「これからは、このドルー渓谷の魔術館で働く必要もなくなるということだな」


「ええ、そうね」とシエーナは感情的につぶやいた。

 自分は何をやってきたのか。


(今この瞬間、私は自由になったんだわ)


 シエーナは心から安心したと同時に、今後のイジュ伯爵家の事業について、より気を引き締めなければならない、と思った。なぜなら繁栄は約束されたものではないからだ。

 成功と同じく、失敗もイジュ家の力で、立て直さなければならない。


「そうと分かれば、これからはお父様を手伝わないと」


 弱々しかったシエーナの黒い瞳に、みるみる力が湧いてくるのが見てとれる。デ=レイは彼女が活力を取り戻していく様子を、一抹の寂しさを感じながら見つめた。

 シエーナは窓の外を見た。雪はとうに止んでおり、月明かりを白く積もった地面が柔らかく照らしている。

 明日の朝すぐにイジュ邸に帰って、恐怖から纏っていた鎧を脱ぎ捨て、どんどん外に出ていこう。メアリーとももっと腹を割って、親しくできるはず。

 ちょうどもうすぐメアリーの実家で開かれるパーティに誘われている。

 マール子爵との出会いに、前向きな気持ちで挑める気がする。

 ふとシエーナは視線を戻し、どこか切なげに座り込んでいるデ=レイを見た。

 書斎を捜索した時に見つけた違和感が、不意に蘇ったのだ。


「あの、ーール=ロイドとハイランダー公にはどんな関係が?」


 デ=レイの瞳が一瞬揺れた。唐突に出たその名に、驚いてしまう。彼は不自然な話し方にならないよう気をつけながら、質問に質問を返した。


「ーーハイランダー公? なぜその名を?」

「さっき書斎も調べたんです。木箱の中に、ハイランダー公爵家の紋章がついた物がたくさん入っていました」


 しまった。

 そんなものを置きっぱなしにしていたのか、とデ=レイは心の中でひとりごちる。


「ハイランダー公にはたしか昔、祖母が多額の寄付をしてもらったことがあるんだ。その時にもらったのかもしれない」

「あの方が寄付を? 初めて知りました」

「あ、ああ。そうだな。今度会う機会でもあれば、礼を言っておいてくれ」

「そうですね。今後は貴族の娘のつとめとして、なるべく王宮夜会にも参加しようと思いますから。またハイランダー公と顔を合わせる機会があるかもしれません」


 ああ、どうしよう。

 来るべき時を想像し、デ=レイは頭を抱えた。

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