第15話 弟夫婦のしらせ
シエーナは仕事熱心だった。
自前の色素の力を操ることができない身の上では、他の面で活躍するしかない。
だからシエーナは、薬の調合や煮出し方の練習を怠らないようにしていた。
たとえば同じ薬草でも、季節によって味が変わる。大都会にして最先端の王都で、客が絶えることのなかった人気のリド魔術館にいた兄弟子たちは、「苦味こそ薬の証拠」と主張し、やたらに煮切る傾向があった。
だが時間をかけて煮すぎると、不純物が出てきて味が悪くなるだけなのだ。
かくしてシエーナは仕事がない平日に、自宅で何度も煮出しを実践してはノートに書き込み、データを記録して仕事に活かしていた。
イジュ伯爵家の跡取り、エドワルドの若妻は何度見てもその光景を見慣れなかった。義姉の理解不能な各種行動のうちの、代表的な一事例だ。
調理場の実験を終えたシエーナが、サロンで何やら植物の切れ端片手に、分厚いノートに羽根ペンを走らせている。その様子をさながら珍獣を観察する気分で遠巻きにじっと見つめていたメアリーは、咳払いをするとようやくシエーナに話しかけた。
「お義姉様、……その雑草はなんですの?」
「これはオオバコと言って、咳止めになるの。原価が安いのに需要も高くて、優秀な薬草なのよ」
メアリーは後半部分を聞き流した。
彼女の脳内辞書には、「原価」という単語が存在しなかった。なぜなら彼女にとって銭とは、呼吸をしているだけでジャラジャラとどこからともなく湧いて、貯まっていくものなのだ。
メアリーは雑草を煮炊きする義姉の不可解な行動は、一旦その辺に置いておこう、と再度咳払いをして気を取り直した。
「あの、お義姉様。実は報告がありますの」
「あら、何かしら」
羽根ペンを下ろし、ソファから腰を上げる。
するとサロンの中にエドワルドも入ってきた。何やらはにかむような、照れたような不思議な表情をしている。これはどうしたことか。
エドワルドはシエーナに微笑みかけながら、入り口近くに立っているメアリーを抱き寄せ、そのお腹にそっと手を当てた。
「メアリーが、妊娠したんだ」
突然の報告に、シエーナが息を呑む。
驚いて口元に両手を当て、すぐに弟夫婦のもとに駆け寄る。
「――本当に?」
「はい。次の秋には、お義姉様も伯母さまにおなりですわ……!」
なんてこと。
なんと幸せなことだろう。
「おめでとう、メアリー! エドワルド!」
緑色の瞳をキラキラと輝かせながら、メアリーは嬉しそうに言う。
「もう一つ報告がありますの。私の実家でのパーティが三週間後に開かれることが、決まったんです。その時に私の両親にも報告するつもりですわ」
「きっと、とても喜ばれるわね」
「ええ。お義姉様もいらして下さいね。――わたくしの
マール子爵の名がここで登場するとは思っていなかったシエーナは一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔に戻る。こんなにめでたい報告の直後に、顔を引きつらせるわけにはいかない。
それに、親戚を紹介しようというメアリーの好意をむげにするわけにはいかない。
「あ、ありがとう。絶対に参加するわ」
義姉を見つめるメアリーの瞳が、きらりと輝く。
義姉とマール子爵をくっつける計画は、想像以上に順調だ。
その日から、イジュ伯爵邸ではお祝いムード一色となった。
胎教に良いと聞きつけたエドワルドが、屋敷に頻繁に室内楽団を招き、メアリーに演奏を聴かせる。メアリーは大袈裟だと夫をたしなめるが、まんざらでもなさそうだった。
伯爵は大粒のダイヤやエメラルドがのったネックレスや指輪をメアリーに贈り、初孫の誕生を喜んだ。これにはメアリーも、分かりやすく喜んだ。
皆が次代のイジュ伯爵家を担う赤ちゃんの誕生を心待ちにする中、一人シエーナは喜びきれなかった。
(私ったら、なんて冷たい姉なのかしら…)
弟に子どもができたというのに、心から祝うことができない。
イジュ伯爵家の繁栄に、もうじき強制的に終止符がうたれることを、シエーナは恐れていた。
シエーナは悟った。
じっとしてはいられない。イジュ家のためにいま、動かなければならないのだと。
土曜日に出勤すると、渓谷の魔術館はまたしても様子がおかしかった。まず、玄関に花がいけられていた。
(だ、誰が花をわざわざここに……?)
無論、デ=レイしかいないだろう。
しかも少しでも可愛く見せようとしたのか、花瓶には赤いリボンが巻き付けられている。あまり手先は器用ではないのか、蝶々結びが縦結びになってしまっていて、なんだか微笑ましい。
シエーナは戸惑いつつも、廊下を進む。
今朝も館の中は暖かい。
もしやデ=レイは今日も寝不足だろうか、と嫌な予感がする。
だがそれは杞憂というものだった。
広間にいたデ=レイは、出勤してきたシエーナを見るなり、輝くばかりに麗しい笑顔を見せてくれた。
朝でも薄暗い渓谷を歩いて出勤してきたシエーナは、眩しすぎて目が潰れるかと思った。
今朝の師匠は、顔色が良くクマもない。
むしろ磨かれ切った美貌に、シエーナが身をすくませる。
「おはよう、シエーナ。外は寒かっただろう?」
それに何という愛想の良さだろう。勤務初日の態度が、嘘のよう。
「ええ。また雪がちらついていましたわ」
「そこに座っていてくれ。今暖かい紅茶を持ってくる」
予期せぬ展開に、シエーナは今度こそ返事を忘れた。
デ=レイが朝から紅茶を淹れてくれたことは、今までなかった。
外套を脱いだり、テーブルの上を雑巾で拭いていると、デ=レイが調理場から戻ってきた。片手に紅茶のカップを持っている。しかも取っ手に水色とピンク色の蝶の装飾がついていて、カップの縁も金色に塗られた随分高級そうな代物だ。
何度も台所で客に茶を入れる支度をしてきたが、こんなに可愛らしいティーカップは見たことがなかった。
(まさか、買いたてホヤホヤかしら……)
デ=レイはまるで喫茶店にいる愛想の良い給仕のように、微笑んだ。
「渓谷まで歩いてきて、疲れただろう」
出勤しただけで、労われている。
「あ、ありがとうございます……」
折角なので温かいうちに、紅茶のカップに口をつける。
カップをソーサーの上に戻すと、見慣れぬ物が目に入る。
広間の隅に、布張りの大きなソファが置かれているのだ。先週まではこんなものは、なかったはず。
しかも緑と白の縞模様に小花が散らされた、この陰気な館にしては珍しく可愛らしいデザインだ。
「お師匠様。あのソファは新調されたんですか?」
「そうなんだ。考えたんだが、ずっと立っていては君も疲れるだろう? ぜひ使ってくれ。祖母から受け継いだ時に、館全体はあちこち手を入れたんだが、そろそろ模様替えを考えてもいい頃だと思ってな」
まさか、私のために――?
確認するのが若干恐ろしく、シエーナはそれ以上ソファについては触れないことにした。
しかもソファの上には、いかにも真新しそうな大きなクッションが二つ、置かれている。四辺に繊細なレースがついていて、なんだか高価そうだ。
(お師匠様が、今日もやっぱりなんだかおかしい……)
シエーナは困惑した。
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