第10話 伯爵令嬢が抱える秘密

 実にさわやかな月曜日の朝だった。

 イジュ伯爵と一人息子のエドワルドとその妻のメアリー、そしてシエーナの四人は一つのテーブルを囲み、朝食を食べていた。

 大きな窓からは柔らかな朝日が差し込み、テーブルの上のパンやスープをより美味しそうに見せている。

 清潔な白いレースのカーテンの向こうには、緑豊かな広いイジュ伯爵邸の庭が見え、開放的だ。

 メアリーはパンにジャムを塗りながら、イジュ伯爵に尋ねた。


「お義父様、今日はカメオ工房に行かれるのでしょう?」

「うん、久しぶりにね。老朽化しているらしいから、様子を見に」


 するとエドワルドが自分の可愛らしい妻をうっとりと見つめながら、口を開く。


「メアリー、良さそうなカメオがあれば、貰ってくるよ」

「まぁ。嬉しいわ、あなた」


 花咲くような笑みを披露するメアリーに、エドワルドは鼻の下を伸ばした。

 自分の妻がこんなに美人で良いのだろうか。

 結婚して一年が経つが、毎日メアリーの可憐さに感動している。日々新たな発見があり、妻の魅力に驚くばかりだ。

 たとえるなら、妻はまるで読み飽きない終わりのない小説のようだ、とエドワルドは感じた。

 もっと単純に言えば、彼は幸せだった。


「何色のカメオがいい? ――まぁ、君にはどんな色でも似合ってしまうけど」

「ふふ。あなたったら。そうね、青色のが欲しいわ」

「分かった、覚えておくよ」


 幸せそのもの、といった新婚夫婦を見てイジュ伯爵は微笑ましく思った。普通の人なら胸ヤケがする光景かもしれないが、お人好しの伯爵は違った。

 ただ、娘のシエーナの様子が気になり、ちらりと盗み見る。

 結婚にまるで興味がないシエーナも、少しは心動かされているかもしれない、と一縷の望みをかけて。

 だがシエーナは弟夫婦をうっとりと見たりはしていなかった。彼女はイジュ伯爵と目が合うなり、やや厳しい口調で言った。


「お父様、のんびり食べている場合ではありませんわ。もうそろそろ出発されませんと」


 カメオ工房は近くない。

 海辺の州にあるのだ。

 部屋の中の掛け時計を見て、イジュ伯爵は我に返って焦った。

 時計を指差しながら、隣に座るエドワルドに声をかける。


「エド! 早く食べなさい! あと十分で馬車に乗る時間だぞ」


 伯爵は口の中に残るハムを、紅茶で流し込んだ。






 男二人が出て行ってから約三十分後。

 朝食が片付けられた部屋の片隅で、シエーナはあっ、と声を上げた。

 イジュ伯爵が座っていた椅子の下に、大きな茶色の封筒が落ちていたのだ。

 拾い上げて中を覗くと、カメオ工房の修繕計画に関する資料のようだ。


「お父様ったら、大事な書類を忘れたのね」


 急いで厩舎に向かう。



 シエーナは二人乗りの小さな馬車で父と弟をおいかけた。

 小さな馬車の方がスピードがでるので、途中で二人に追いつけるかと思ったのだ。

 だが二人の方がイジュ家の保有する馬の中でも足の速い馬に馬車を引かせていた為、残念ながら追いつかなかった。

 結局シエーナはカメオ工房まで行く羽目になった。


 カメオ工房は海辺の小さな村の中にある。

 工房に到着すると、シエーナは馬車を降り、その小ぶりの建物の中に入って行った。

 窓に面して長い木の机が二列に並び、たくさんの職人たちが席について貝を彫っている。

 中は大変静かで、手工具で貝の表面を削る心地よい音だけが耳に入る。

 入り口近くにいた職人が顔を上げ、驚いたように目を見開いてから、声を張り上げる。


「社長! シエーナお嬢様がいらしてます!」


 イジュ伯爵とエドワルドは細長い工房の奥にいた。

 二人は慌てた様子でシエーナのもとに駆け付け、彼女の抱える茶封筒をみて一瞬で事態を察知した。


「わざわざ届けに来てくれたのか……!――悪かったね、シエーナ。遠かっただろう?」

「でも助かったよ、姉さん! 着いてから気づいたもんで、取りに帰るわけにいかなくて」


 伯爵は封筒を受け取ると、娘に提案した。


「お礼にどれか好きなカメオを持っていきなさい」


 だがシエーナは首を左右に振った。


「もう十分持っているもの。――そのかわり、邪魔でなければ作業を少し見ていて良い?」


 シエーナは職人達が貝を彫る姿が好きだった。

 貝に下絵が描かれ、表面が削られていく。そうして立体的な白い像が現れると、奥は深みのある色を持つ美しいカメオになる。

 たった一つの南の貝から、宝石に変身するのだ。

 それはまるで魔術のようだった。


 工房の隅に腰かけ、一心不乱に貝と向き合う職人たちを見ていると、伯爵とエドワルドもシエーナを挟むようにして椅子に座った。

 エドワルドは靴に当たった小さな貝を拾い上げた。

 表面が半分ほど削られ、そのままにされている。

 おそらく彫るのをやめ、職人が投げ捨てたものだ。

 カメオになりきれなかった、いわゆる失敗作だ。


「懐かしいな。こういう本当に小さなカメオを、昔は売り込みに奔走したものだ」


 そう呟きながら伯爵がエドワルドの手の中の貝を見下ろす。


「あの頃は本当に忙しかった。お前たちが子どもの頃は本当に寂しい思いをさせた…」


 あの頃――。

 イジュ伯爵は起こしたばかりの宝石業をどうにか軌道に乗せよう、と東奔西走していた。

 小指の爪ほどの小さなカメオをフェルト生地に何百と包み、鞄に入れて営業に走り回った。

 シエーナとエドワルドに構ってやる時間は殆どなかった。

 そう詫びる父に、エドワルドは明るく言った。


「そんなの今更、気にしないで。それに父上が努力して下さったお陰で、今のゆとりある我が家があるんだから」


 屈託無く笑うエドワルドの隣で、シエーナは引きつる笑いを浮かべた。

 シエーナは、エドワルドのようには笑い飛ばせなかった。


 貧しく寂しかった子ども時代は、伯爵家の奇跡のような発展とともに終わりを迎え、今はあの頃を思えば夢のような栄華を誇るイジュ家がある。

 そしてそれは、またしても夢のように呆気なく消えてしまうかもしれないことを、シエーナは知っている。

 そう、全てはあの日に始まったのだ。


 シエーナの母は、弟のエドワルドがまだ赤ん坊の頃に亡くなった。

 そして、悲しみにくれるイジュ伯爵が新しい妻として屋敷に迎え入れたのは、まだ二十歳の若い女性だった。

 義母にとっては「伯爵」という称号に惹かれただけの、まさに金目当ての結婚だった。

 金の匂いを勝手に嗅ぎ取り、勇んで結婚したのだ。

 シエーナは義母が初めてイジュ伯爵邸に来た日のことを、昨日のことのように覚えている。

 当時の伯爵家はまだ宝石業が軌道に乗る前で、数代にわたる無能な先祖のお陰でかなり貧しかった。

 加えて間の悪いことに伯爵領内では作物の病気が相次ぎ、領民もギリギリの生活を強いられていた。

 殆どの使用人は解雇し、広い伯爵邸は手入れが行き届かず蜘蛛の巣だらけ。しまいには蜘蛛の巣がレースのカーテンのようになっていた。

 硬いパンと薄めた紅茶を飲む日が続いた。

 そんな屋敷にやって来たのが、恐ろしく着飾った若く美しい義母だった。

 やって来た当日、義母は失神しそうなほどガッカリしていた。

 デカいだけの伯爵邸の中は酷く埃っぽく、広い屋敷の中の数多ある部屋のうち、使われているのは僅かに五部屋ほど。

 広大な庭は雑草だらけで、散策する気はおろか、出る気すらわかない。というより、錆びついたドアと窓が開かない……。


 伯爵も仕事で忙しく、やがてストレスのあまり、義母はシエーナとエドワルドに辛く当たるようになった。

 エドワルドはおねしょでシーツを濡らす度に怒鳴り散らされ、シエーナはピアノの練習で失敗をすると手首を何度も叩かれた。

 ほんの些細なミスで二人は食事を抜かれた。

 三人はまったくもって、上手くいってなかった。


 運命を分けたその日は、シエーナの誕生日だった。

 伯爵は仕事が長引いたために出張先から帰れなくなり、義母は怒って屋敷を馬車で飛び出した。

 連日、屋敷周りの雪掻きをさせられたシエーナの足の指は冷たくて、やがて痒くて仕方がなくなった。指全体がぞわぞわと痒くて堪らず、掻きむしっていると、今度はパンパンに赤く腫れた。

 まるで腸詰肉のように膨張した指が恐ろしい。

 医者を呼んで欲しくても、義母が帰ってこない。


「私の誕生日なのに、どうしてこんなに酷い日なの……」


 悲しくて切なくて、そして困り果てたその時、シエーナの脳裏に使用人がかつて台所で話していたことが、蘇った。


 ――ドルー渓谷の魔術師は凄腕で、未来も変えられるらしいわ!


 だから、シエーナは寝てしまったエドワルドを屋敷に置いて、単身ドルー渓谷に向かった。


 ――おうちにもっと、お金があれば。


 ドルー渓谷の闇も、膝までの雪もものともせず。

 自分の眉に、そして睫毛に粉雪が積もっていることも意識の外にあった。


 ――お父様のお仕事が、上手くいけば。


 当時ドルー渓谷の魔術館にいたのは、ル=ロイドと言う名のお婆ちゃん魔術師だった。

 ル=ロイドは七歳のシエーナが事情を話すと、大変同情をしてくれた。彼女はシワシワの細い手を伸ばすと、シエーナを優しく抱き締め、慰めてくれた。


「足を、どうかしたの?」


 ル=ロイドはシエーナの妙な歩き方が気になり、彼女の泣き濡れた黒い瞳を見つめてそう尋ねた。

 そして、その腫れた足を見て優しく言った。


「霜焼けだね。お薬もあげようね」


 赤く腫れた足に薬を塗ると、ル=ロイドは水晶球をかざし、その球体ごしに覗くようにして、シエーナを随分と時間をかけて観察した。ル=ロイドの皺だらけの手が透き通る水晶の表面を幾度も往復する。

 それが終わると、ル=ロイドはシエーナに尋ねた。


「ドルー渓谷の魔術師に、何をお望みだい?」


 シエーナは気づけば言っていた。


「お義母様が、いなくなってしまえばいい!」


 言ってから自分で驚いた。

 自分の本当の望みは、これだったのかと。

 するとル=ロイドはゆっくりと話した。


「そうさね。人は……本のページをえいっと破って捨ててしまうみたいには、消せないんだよ。もちろん、殺すこともね。――でも出て行くように未来を変えることはできるよ」

「本当に?」


 ル=ロイドは頷いた。


「ちゃんとお代はもらうよ。いくら払えるかな?」

「お金はないの。でも、私の中の聖玉をあげる。聖玉って高いんでしょう?」


 ル=ロイドは答えず、ただ微笑んだ。


「ーーどれどれ、お嬢ちゃんの聖玉は、何色かな?」


 ル=ロイドはシエーナの片手を取り、目を閉じて両手でその小さな柔らかい手を、握り締めた。

 そして数秒後、ル=ロイドはあまりの驚愕に目を大きく見開いた。


「お嬢ちゃんの聖玉は、少し変わっているね」

「そうなの? お金にならないの?」

「そうじゃない。ただ……将来、元素の光を出せるようには、ならないかもしれない」


 シエーナは魔術師になりたいと思ったことはない。だから別にそれは構わない。


「ル=ロイドさんが買ってくれる?」

「もちろんだよ。これだけだとお釣りがあるくらいだからね、もう一つ、何か願いごとを叶えてあげるよ。――いや、あと二、三個いいよ」


 シエーナは目を輝かせ、矢継ぎ早に願いを言った。


「お父様のお仕事が成功しますように。あと、弟がステキなお嫁さんと結婚できますように」


 そこまで言うと、シエーナはうんうんと唸り、最後の願いを何にすべきか考えた。

 しばらく悩んだ後、言った。


「あと、お父様の髪が増えますように」


 イジュ伯爵の髪は、既にその頃から薄かった。


「本当にそれでいいのかい?」

「うん!」


 ル=ロイドは重たげな皺で垂れ下がった目尻を更に下げ、シエーナを見下ろした。

 そうしてシエーナに言い聞かせるように言った。


「聖玉は後払いで良いよ。全て叶ったら、貰おうね。最後の願いが叶ったら、またここにおいで。その時に聖玉を貰うから」

「お父様の髪の毛が、フサフサになったら、またこの魔術館に来れば良いのね?」


 ル=ロイドはにっこりと笑って頷いた。

 そしてその後で、急に真顔になってやや厳しい口調でシエーナに警告を与えた。


「でも気をつけるんだよ。もし支払いを忘れたら、魔法は夢のように消えてしまうからね」

「絶対、忘れないよ!」


 ル=ロイドは手を伸ばし、シエーナの手をきつく握った。ル=ロイドの指の爪がシエーナの手のひらに食い込み、痛みを覚えるほどに。

 そうしてル=ロイドはそれ自体がまるで呪文のように、厳かに口を開いた。


「もし、このことを誰かに話しても、同じ結果を招くよ。二人だけの秘密の契約だからね」

「絶対、話さないよ!」


 シエーナは自信満々にそう約束すると、ル=ロイドに渡された契約書に幼い字で署名をした。

 そのようにして、七歳のシエーナは魔術師と未来の四度にわたる魔術の契約を交わしたのだ。


 驚くべきことに、シエーナの願いは次々に叶った。

 義母は実家に帰ってしまい、二度とイジュ家に戻らなかった。今では若い金持ちオペラ歌手と幸せな家庭を築いているらしい。


 そして伯爵家はびっくりするほど金持ちになり、エドワルドは天使のような天使と結婚した。

 ――伯爵の頭髪は、加齢と共にうねりが激しくなった。

 正直増えたのかは、微妙なところだ。


 しかし、シエーナには魔法で叶った裕福さを心から楽しむことが出来なかった。

 若い妻に「ビンボー貴族のエセ伯爵」と罵られ棄てられた父は、傷心のあまり再婚できなくなってしまった。

 シエーナは父から妻という存在を生涯奪ったことを、今では申し訳なく思っている。

 だからこそ、自分も結婚はしないつもりだ。そんな権利はないだろう……。


 恐怖の事態は、弟が結婚した直後にやってきた。


 ル=ロイドが亡くなったのだ。

 そう、シエーナは対価を支払うことなく、魔術だけを享受してしまっている。

 魔術師の死を知った時のシエーナの錯乱ぶりは、当然ながら凄まじいものだった。

 築き上げた成功が、全て砂のように崩れてしまう。


 以後、何が何でも魔法が切れるのを回避するため、シエーナはすぐにリドの魔術館に潜り込み、魔術書を読み漁った。高名なリドのもとには、一般人が手に入れることはできない、たくさんの魔術書があるからだ。

 だが、どんな魔術書にも、ル=ロイドがしてくれたような「その場にいない人の行動や未来を変える」魔術は載っていなかった。

 たとえば人の行動を変えるとき、魔術師は目の前の人から特定の選択肢を見えなくしたり、行動パターンを植えつけたりする。だがその場にいないとこの魔術は決して、成立しない。


 次なる回避手段はドルー渓谷の魔術館に入り、ル=ロイド所蔵の魔術書を漁って対策を講じることだった。

 だが後継者のデ=レイは美貌が眩しいだけで、肝心の魔術書に目ぼしいものはなかった。


 最後の手段は、当時交わした契約書を燃やしてしまうことだ。

 これをしなければ、早晩魔法が解けてしまう。貧乏に逆戻りだ。


(でも、でもそんなことどうやってするの? 十年以上前の契約書なんて、あの館のどこにあるのかしら)


 そもそもデ=レイにル=ロイドとの契約を話さずに契約書を探すのが、至難の業だ。

 デ=レイその人も、捉えどころがない。

 とにかく、万事休すとはこのことだった。


 どうしよう!

 どうしたらいい?


 シエーナは豪華な伯爵邸と陰気な魔術館を往復しながら、一人で焦っていた。

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