第8話 子爵、アップを始める

 イジュ伯爵邸では伯爵の一人息子の妻、メアリーが義姉であるシエーナの帰宅を、今か今かと待ちわびていた。

 正面玄関が見下ろせる二階の広い部屋に立ち、大きな窓の前を、手を揉みながら左右にゆっくりと歩いている。

 そのそばには彼女の侍女のルルが、心配顔で控えていた。


「メアリー様、まだお帰りには時間がかかると思いますよ。どうかお座りになって、お茶でも…」

「興奮してしまって、とてもじっとしていられないのよ。わたくし、本当に素晴らしいことを思いついたのだもの!」


 メアリーはその磁器のように白い頰を桃色に染め、華奢な両手を胸の前に組んで恍惚と微笑んだ。





 遡ること一時間前。

 ルルはメアリー宛ての手紙を執事から受け取り、彼女に手渡した。

 手紙はメアリーの祖母からだった。

 メアリーは居間のソファに腰掛け、その手紙を読み始めた。そして読み終えると軽く溜め息をついたのだ。


「困ったわね。おばあ様はかなり本気みたい…」

「何がです?」

「わたくしののマール子爵を、お義姉様に熱烈にすすめてきているの」


 祖母からの手紙によれば、マール子爵は優しく穏やかな人柄で、大層な動物好きなのだという。

 祖母は「動物好きには悪い人がいない」と手紙の中で4回も主張していた。


「わたくし、お義姉様は恋をしたことがないのだと思うの」


 恋は素晴らしい。

 それまでなんの変哲もなかった景色に彩りを与え、毎日を鮮やかで美しいものに変えてくれる。

 メアリーはそう確信していた。

 貴族は政略結婚が多い。だが近年、ただ肖像画の交換だけで結婚に至るケースは稀だ。

 その前に周囲がお膳立てし、二人が会う機会を設ける。相性を多少なりとも確認しあった上で、両家は話を進めるのだ。

 義姉とマール子爵の出会いをお膳立てするのは、自分しかいない。


「そう、わたくしがひと肌脱ぐしかないのよ! 」


 熱い使命感に駆られ、メアリーは拳を握り締めた。

 どんな出会いがあの堅物の義姉に相応しいだろうか?


「ねぇルル。お義姉様が仮面舞踏会でしつこいブ男に絡まれるというのは、どうかしら? そこを謎の紳士が登場して、お義姉様を助けるの」

「まあ。まるで小説なような出会いですね」

「二人で素敵な時間を過ごした後、紳士はお顔だけ披露して、名も告げずに去るの」


 そして、メアリーの実家のパーティで、二人は再会するのだ。

 義姉は運命の出会いだと、確信するだろう。

 メアリーは己の描いた妄想恋愛物語に狂喜乱舞した。想像するだけで、胸がきゅんきゅんしてしまうではないか。


「素晴らしいアイディアだと思わない!?」

「でもメアリー様……。最初の設定に無理があります。シエーナ様はそもそも仮面舞踏会に行かれませんから」


 ふふ、とメアリーは可愛らしく笑った。

 名案が既にあったのだ。


「その点なら大丈夫よ。ねぇルル、お前たしか国立舞踏ホールに行ってみたいって言っていたわよね?」

「え、ええ…そうですけれど」

「それに、お誕生日がもうすぐよね?」


 ルルは嫌な予感に冷や汗をかいた。

 この無謀で無茶な計画に、自分が引きずりこまれそうな予感がする。


「お前は、貴族の出だもの。きちんとお祝いをしなくてはね」


 ルルはただの侍女ではない。

 行儀見習いとしてイジュ伯爵家に来ている、下級貴族の娘だ。

 だから他の侍女のようにベッドメイキングだの、掃除だの、雑用はさせず仕事は主にメアリーの話し相手だ。

 メアリーは祖母からの手紙をローテーブルに置くと、ルルの両手を握った。


「心配しないで。お前も楽しめるよう、とっておきのドレスと宝石をあげるから」


 ああ、仮面舞踏会にシエーナと行かされるのは、自分なのだ、とルルは悟った。





 ティーリス王国の王宮は、複数の建物が集まってできている。

 最も大きな白い建物が、国王の住まい兼執務の場であり、その周辺にある建物には王族が暮らしていた。

 王宮の星の間では、今夜国王が弟のハイランダー公を招き、晩餐会を開いていた。

 星の間は数世紀前にいた星好きの国王が作らせた部屋で、濃い青色の壁に色とりどりの貴石が埋め込まれており、それがまるで星々のように煌めき、美しい。

 天井には星座にちなんだ登場人物や動物の絵画が描かれており、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 星の間の真ん中に置かれた長いテーブルに、次々と料理が運ばれてくると、国王は膝にナプキンを敷き、向かいに座るハイランダー公に尋ねた。


「で、結局イジュ伯爵家のご令嬢とは王宮夜会の後、会ってないわけ?」

「はい。会っておりません」


 するすると嘘をついてしまった。

 ハイランダー公はシエーナが自分の魔術館で働いていることを、言いたくなかった。何しろ彼女自身が親にも隠しているのだから。


「それじゃ、どーすんの? お祖母様の遺言」


 先先代の国王が悪化していた財政を立て直せたのは、当時の王妃の助言によるものだったらしい。その為、国王の祖母には絶大な信頼と影響力があった。

 現在も彼女を讃える者は多い。


 亡くなる前に国王の祖母が親族たちにそれぞれ書いた遺言書には、細々としたことがたくさん書き連ねられていた。親族のほとんどは、「健康に気をつけて」だの「両親を大事に」だの、「勉学に励みなさい」といった抽象的な内容を書かれていた。だがハイランダー公に対しての遺言はヤケに具体的だったのだ。

 そこに書かれていたのは、たったの二つ。

「ドルー渓谷の魔術館を任せます」と「イジュ伯爵家のシエーナと結婚しなさい。その令嬢と結婚しないのなら、一生独身を貫きなさい」だった。


 国王の隣に座る王妃は、七面鳥のハーブ詰めをナイフとフォークを使って、小指の爪先ほどの大きさに切ると、その真紅の口紅をさした口を小さく開き、食べた。

 あまりに小さなその一口を、口の中にもはやカケラも残らないと思われるほどしつこく咀嚼すると、ようやく嚥下する。王妃は皿の上で白い手をヒラリと振り、合図を受けた侍女がその殆ど食べられていない皿を下げる。

 王妃はワインを一口飲んでから、ハイランダー公に話しかけた。


「宮廷の女たちは、貴方が独身でいる方が喜ぶかもしれなくてよ」


 ふふふ、と笑う王妃を国王は軽く睨んだ。


「なんて事を。……まぁ、たしかにジュードなら一生女に困らなそうだが。羨ましい」


 今度は王妃が国王を睨む。

 デザートの載る皿が給仕されると、王妃は端に盛られた山羊のチーズをひとかけら、口に入れた。

 そのキャラメルのような濃厚な味を堪能しながら、あることを思い出した。


「そう言えば、マール子爵がイジュ伯爵令嬢に大変な興味を持っているとか」

「なにぃ、どういう事だ?」


 大きな肉の塊を口に入れようとしていた国王が、がばりと王妃の方を向く。


「マール子爵はシエーナの義妹の、遠縁ですわ。周囲の後押しがあったのでしょうね」

「イジュ家はここ十年ほどで、巨万の富を築いたからなぁ。その一人娘とあらば、やはり皆放っておかないな」


 その話を聞かされたハイランダー公は、少しムッとした。財産目当てでシエーナを狙うなど、けしからんと思ったのだ。

 だがすぐに人のことを言えた立場ではないと気がつく。

 自分を動かしたのも、遺言とイジュ伯爵の経済的成功だ。シエーナに群がる男たちと、大差ない。むしろ、同じ穴のむじなだ。

 そう思うと、胸の内に微かな隙間風が吹いたような、切なさがこみ上げた。

 あの夜、王宮夜会でシエーナに近づいた自分の行動が、急に恥ずかしく思える。


「マール子爵か。あまり宮廷には出入りしないからな。顔が思い出せないな」


 国王がぼそりと呟く。


「あのメアリー・イジュの親戚ですもの。きっとハンサムだわ」


 夫妻の会話を聞き、ハイランダー公は複雑な思いでパンを千切った。

 なぜこんなにも苛立つのか、分からない。とにかく、マール子爵とやらのことが、気になって仕方がない。

 帰宅をしたら、シエーナがくれたケークサレを食べよう。そうすれば、少しはこの胸のザワつきが、収まる気がした。




 晩餐が終わると、国王はハイランダー公を建物の外まで見送った。


「渓谷の方はどんな? 忙しい?」

「そうですね。一応、そこそこやり甲斐を感じる程度には」

「たまには一日ゆっくりしな? セインが心配してしてたぞ」


 どうやら従者が余計なことを言ったらしい。

 ハイランダー公は苦笑した。


「兄上こそ、これからまた仕事をなさるのですか?」

「勿論! 国王は忙しいよ、まったく」


 国王はへらへらと笑い、軽そうな話し方をする男だったが、人一倍真面目だった。

 下から上がる書類にただ国王のサインを書いていくのではなく、十分に勉強していた。その為質問も常に的確で、家臣も常に国王の意見を求めた。

 国王は起床後、寝る直前まで食事の時以外はずっと仕事をしているのだ。

 ハイランダー公は改めて自身の兄を見つめた。

 兄は背が低く、もともと少し膨よかな体型をしていた。

 だが今はかなり細身になった。

 国王として兄が背負うものの大きさを、痛感せずにはいられない。


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