第7話 ケークサレを二人で
早朝の調理場は寒い。
もうすっかり冬だわ、と呟きながらシエーナは羊毛のショールを羽織り直し、胸元をピンでしっかり留めると、まな板の前に立った。
まずは野菜を小さく切っていく。
玉ねぎに人参、それにほうれん草。
切った野菜をフライパンで炒めている間に、ジャガイモの皮を剥く。
ジャガイモはすりおろして生地に混ぜるのだ。
ボウルに小麦粉とバター、卵を割り入れて混ぜる。
そこにチーズをすりおろす。チーズは思い切ってたくさん投入するのが、シエーナ流だ。
すりおろしたイモと、炒めた野菜を生地に混ぜると、型に流し入れる。
型を左右から両手で持ち、軽く三回ほど調理台に叩きつけ、生地の中の空気を抜く。
ここまでくれば、あとはオーブンに入れるだけだ。
つまり、焼けるまで待つだけだ。
(お師匠様は喜んでくれるかしら?)
おいしいと言ってくれる姿を想像してみる。妄想に過ぎないが、それに満足してシエーナは小さく微笑んだ。
焼きあがりまではまだかなり時間がある。
それまでに身支度を済ませよう、とシエーナは調理場から出ていった。
馬車を降り、ドルー渓谷を歩いて魔術館に到着すると、粉のような雪がちらちらと降り始めた。
シエーナは雪がケークサレを入れたバスケットの上に積もらないよう、しっかりと抱えて道を急いだ。
デ=レイの魔術館に入ると、中はまだ寒かった。
デ=レイは扉を開けてシエーナを出迎えると、接客用の広間に向かいながら言った。
「暖炉に火をつけてから、まだあまり時間が経っていないんだ。少しの間、コートを着て我慢していてくれ」
シエーナは暖炉の薪を棒でつつくデ=レイを見つめた。
「お師匠様は、夜は二階でいつもお過ごしなんですか?」
館の二階部分は踏み入れたことがない。どうなっているのか、シエーナには分からない。彼女は天井を見上げた。
「ああ。二階は私的空間になっている。今二階から降りてきたばかりなんだ」
デ=レイがカーテンを全開にし、黒いローブを羽織る。
このローブは一応制服のつもりだ。魔術師はまず、それらしく見えることが重要なのだと彼は考えた。
シエーナは雑巾で机の上を拭き始めた。
広間の隅には、脚付きの鳥籠が置かれている。籠の中の雀は止まり木に止まり、羽を膨らませて首を引っ込めて目を閉じ、ジッと動かない。
「この子、お師匠様の使い魔ですか?」
「ああ。他の鳥に襲われていたところを、雛の時に助けたんだ」
「可愛いですね。フワフワのボールみたいになってます」
燭台の上の赤いロウソクを補充していたデ=レイは、口元を綻ばせた。
「冬は羽が生え変わるんだ。夏のイチ号はスリムで別人のようになるぞ」
「イチ号っていう名前なんですね」
その名を口にのぼらせると、イチ号は首を微かに伸ばしてその丸い小さな目を一瞬だけ開けた。再び閉じると、また頭が体に埋もれていく。
その様子が可愛かったので、ついまた呼んでみたくなる衝動をどうにか堪える。
何度も起こしたら、可哀想だ。
この日の一番客は二十歳くらいの男だった。
男はランバルドで喫茶店を営んでいるらしく、開店前に慌てて駆けつけたとのことで、広間に入ってもまだ息が上がっていた。
デ=レイが男を広間の椅子に座らせ、自身もその向かいに座る。
尻が座面につくや否や、男は堰を切ったように話し出した。
「助けてください! 俺の彼女が、いなくなったんです!」
行方不明者捜しだろうか。
にわかに広間の空気が張り詰める。
行方不明者の捜索を依頼する客は、リド魔術館でも、媚薬や惚れ薬を買いに来る客に次いで多かった。
「俺には勿体ないくらいの、美人だったんです! ああ、どうしよう、俺どうしたら…」
「カルキンさん、まずは落ち着いてください。――彼女がいなくなった時の状況は?」
「昨夜仕事から戻ったら、いなくなってたんです。荷物もなくなって」
ん? とシエーナは小首を傾げた。それは行方不明というよりは、もしや単なる別れ話のもつれというやつでは……、と。
デ=レイは冷静な声で尋ねる。
「つまり貴方と恋人は同棲していたんですね? その部屋から、彼女が出て行ったと」
カルキンは泣き崩れた。
黒髪の上に薄っすらと残っていた粉雪が溶け、髪が濡れて顔まわりにへばりついている。
「お願いです! 彼女を捜してください! ジュリエットがいない人生なんて…」
デ=レイがすかさずハンカチを男に差し出す。男は一瞬躊躇したものの、手を出して受け取り、滝のように流れる涙をそれで拭う。
「カルキンさん、どうか落ち着いて聞いてください。貴女の恋人が自分の意思で出て行ったのなら、私は彼女を捜すお手伝いはできません」
そんなぁ、と呻いてカルキンがうな垂れる。
その様子を少しの間、じっと見つめていたデ=レイが口を開く。
「――昨夜は本当にお店でお仕事を?」
カルキンがぴくりと顔をハンカチから上げる。
茶色い瞳が不安げに揺れる。
「は、いや…」
「魔術師の前で嘘をつくと、良いことはありませんよ」
するとカルキンはぎこちなく椅子を座り直した。
「参ったな……。実は、最近客の入りが悪くて、昼には店を閉じて……。すみません、夜まで酒場で飲んでいました」
目を閉じたカルキンの目から、つーっと涙が流れる。
なんだか色々と気の毒で、シエーナは胸を痛めた。
デ=レイは立ち上がると、飾り棚に置いてあった水晶球を手にし、カルキンの隣に立った。
そうしてその水晶球を手のひらに載せると、カルキンの顔の周りにかざし、手をユラユラと動かし始めた。
「カルキンさん、貴方の未来を少し覗いて見ましょう」
「俺の、未来…」
カルキンが目を瞬き、その近くで左右に揺すられる水晶球が、微かに三色に輝き始める。透明な球の中に、光の液体が漂っているように見える。
デ=レイはその中を覗いた。
そばに立つシエーナは、デ=レイの様子を目を丸くして見守っていた。未来を見るのは非常に高度な魔術だ。まさかデ=レイがそこまでできるとは、思っていなかった。
とにかく、集中が必要な高等魔術の邪魔になってはいけないので、デ=レイの視界に入らないよう、彼の真後ろに移動して息を詰める。
「――ジュリエットさんは、近い将来貴方のもとに戻ってきますよ」
「本当ですか!」
「ただし、これはあくまでも予想される未来のうちの、ほんの一つに過ぎません。未来というものは枝分かれして、たくさんありますから」
カルキンは目を見開き、デ=レイの話を理解しようとパチパチと瞬いた。
「どの未来に転がるかは、貴方次第です。ご自身の行動がそれを選ぶのですよ」
「どうしたら、ジュリエットは帰って来ますか!?」
「真面目に喫茶店経営に取り組んで下さい。――仕事帰りにいつも酒場に寄るのは、やめた方がいいですよ」
カルキンは気まずそうにデ=レイから目を逸らし、いくらかムッとしたように唇を尖らせた。
もしかしたら、同じことを誰かに注意されたことがあるのかもしれない。
カルキンは頭を掻いていた。
デ=レイは水晶球を動かすのを止めると、まだ三色に光る球をじっと見つめて言った。
「それから、酒場でよく鉢合わせする赤いスカーフをいつも巻いた女性には、気をつけた方がいいですよ」
カルキンは驚いたように目を見開き、水晶球とデ=レイを交互に見た。
「ど、どうしてそれを!? 別に彼女とは本当になんでもないんです!」
「魔術師として私が申し上げられるのは、ここまでです」
カルキンはデ=レイから借りているハンカチを両手で握り締め、縋るように聞き直した。
「真面目に待っていれば、ジュリエットは戻って来てくれるんですね!?」
「約束しましょう」
「ありがとうございます!!」
大きな声で礼を言うと、カルキンは感激したように天井を仰いだ。
「来て良かった……。俺、頑張ります」
来た時とは打って変わり、爽やかな笑みを披露しながらカルキンが立ち上がる。
デ=レイはガラスのペン先に黒いインクを吸わせると、さらさらと書類に書き込み始めた。
客の名前や事情を簡潔に記録し、「未来を処方」と末尾を結ぶと、カルキンの前に置く。
「それではこちらにサインを。お代は二万バルになります」
結構高いのね、とシエーナは納得した。とはいえ、やはりドルー渓谷の価格だ。当社比で言えば高いが、王都の魔術館の相場と比べれば、とても安い。
人気のリド魔術館で同じく、水晶球で未来を見てもらった場合、おそらく十万バルは下らない。
カルキンは満足感に溢れた顔で書類にサインを記し、代金を支払った。
再度デ=レイに礼を言い、広間を出て行くカルキンをシエーナが玄関まで送る。
カルキンは陰気な壁紙が続く廊下を、晴れ晴れとした表情で歩いた。
「さすが、ドルー渓谷の魔術師は凄いですね。未来まで変えちゃうんだから」
「ありがとうございます」
正確に言えば、デ=レイは未来を見たのであって、変えてはいない。だがシエーナは敢えて訂正はしなかった。
どちらにせよ、カルキン本人が今後しないとならないことは、同じなのだ。
一番客を見送ると、シエーナは広間に戻った。
デ=レイは書類の端に穴を開け、黒い綴じ紐で綴っている。
「お師匠様、昨日の夜あのお客様が仕事をしていなかったって、よく分かりましたね」
するとデ=レイは肩を竦めた。
「酒くさかったんだ」
答えを聞いてシエーナは感心した。デ=レイは顔ばかりでなく、鼻も良いらしい。
彼女自身は全く気がつかなかった。
「嗅覚が鋭いんですね。素敵です」
「それ、本当に素敵か?」
「……赤いスカーフの女性というのは、何なんですか?」
「カルキンの未来として最も濃く見えたのは、ある酒場で会ったその女と結婚することだった。だがあまり良い未来ではなかった。このまま行けば、一番可能性の高い未来だった」
なるほど、とシエーナは納得した。
昼になると、シエーナは勇んで調理場に向かった。
持参したケークサレをまな板にのせると、薄く切り始める。
隣ではデ=レイが湯を沸かす。
崩れないよう、細心の注意を払ってナイフをいれつつ、シエーナはデ=レイに尋ねた。
「それにしても未来まで見えるとは、驚きました。お師匠様なら王都の中心部でも、魔術館を開けますわ」
「祖母のル=ロイドも水晶球を扱うのが得意だったんだ。子どもの頃から、私は祖母の特訓を受けていたんでね」
シエーナは黒い瞳を大きく見開き、パッと顔を上げた。
「祖母……。お師匠様は、あのル=ロイドさんのお孫さんだったんですか?」
その通りだ、と答えながらデ=レイは違和感を覚える。「あのル=ロイドさん」という言い方は、まるでシエーナが彼女と知り合いだったようにも聞こえる。
「もしかして君はル=ロイドに会ったことがあるのか?」
「いいえ」
シエーナの返事はいささか食い気味だった。
内容が簡潔過ぎる上に焦りを思わせる。
デ=レイが鋭く観察するような眼差しを向けると、シエーナは逃げるように食器棚に向かった。
その後ろ姿を見ながら、デ=レイは考えた。
シエーナはデ=レイに憧れてこの魔術館に来た、と言っていた。だが本当のところは、ここの先代のル=ロイドと何か関係があるのかもしれない。
シエーナはシエーナで、アイスブルーの射るような視線をビシバシと感じていた。
(今だけじゃないわ。ずっと、何か物凄く私を不審に思っているみたい……)
伯爵の娘とバレた時点で、シエーナが当初描いていたシナリオは、初っ端からつまずいてしまった。
本当は怪しまれないよう、この魔術館に入り込み、デ=レイの信用を得るつもりだったのに。
食器棚にあった皿を借りると、ケークサレを乗せ、食卓に置く。
二人分を並べ終えた頃、デ=レイも二人分の茶を淹れて食卓に並べてくれた。
少しどきどきと緊張しながら、シエーナは席についた。
「焼きあがったのをそのまま持って来たので、味見してないんです。お口に合うか分からないんですが」
「ありがとう。いただこう」
デ=レイが向かいに座ると、シエーナはバスケットから大きな瓶詰めの魚と林檎を出した。
デ=レイの動きが止まる。
「こちらも一緒に食べましょう」
「重くなかったか? いつもこれくらい食べるのか?」
純粋に疑問だった。
デ=レイの周囲にいる貴族の娘というものは、摘む程度にしか食事をしない。
イチ号のエサとたいして変わりない量しか、貴族の女は食べないものだ。特に若いうちは。
食べ過ぎるとコルセットの締め付けが苦しくなり、気持ちが悪くなるのだと聞く。
「だって、食べないと労働ができませんもの」
「なるほど。それはそうだな」
「それにお腹が空くと、イライラしてしまうし」
「イライラ…」
「しませんか? お師匠様もお腹が空くと不機嫌になりませんか?」
「ああ、たしかになるな」
二人は目を合わせて笑い出した。
デ=レイは一旦笑いを収めると、ケークサレにフォークを刺した。
口に入れるとバターの上品な香りが広がり、続けて野菜の旨味が存在を主張する。味は決して濃過ぎず、チーズの塩梅が素晴らしい。
デ=レイは二口目を頬張りつつ、口角を上げて頷いた。
「美味い…」
「本当ですか? 嬉しいです!」
デ=レイが顔を上げると、弾けるような笑顔を見せるシエーナと目が合った。
釣られて思わずにっこりと彼も笑ってしまう。
「残りは全部置いていきますね! 夜にでも召し上がってくださいな」
今夜はドルー渓谷に残らず、王都でのハイランダー公爵の住まいがある王宮に戻るつもりだ。だがまさかそんなことは言えない。
一瞬返事に詰まったが、デ=レイは頷いた。
「ありがとう。とても助かる」
夜は国王と王妃と晩餐の予定だ。
王宮の料理人が気合いを入れて作るメニューで、お腹がいっぱいになること間違いなしだったが、持ち帰ろうとデ=レイは決心した。
金曜日まで魔術館に置いていけば、カビが生えてしまう。それはいただけない。
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