第4話 勤務初日、異常なし……?
ドルー渓谷の魔術師、デ=レイの館は玄関ホールを抜けると廊下があり、その先に接客に使う広間があった。
広間には暖炉があり、パチパチと音を立てて薪が燃やされ、室内を暖かくしていた。
真ん中には大きなテーブルがあった。
テーブルには客とデ=レイが腰掛けるための、革張りの暗い色合いの木の椅子が二脚。広間全体の壁紙は濃い紫色で統一されていた。
デ=レイは壁紙とするには暗過ぎるその色を、「神秘的」だと思っていたが、それもシエーナの言葉を借りれば「陰気」な色だった。
シエーナは勇気を出して聞いてみた。
「こちらの内装は全てお師匠様がお決めに?」
「そうだな。ル=ロイドから館を受け継いだ時点でかなり老朽化していたから、全面的に改修したんだ」
「まぁ……」
「陰気で居心地悪いか?」
感想をずばり言い当てられてしまい、シエーナはにわかに焦った。
「そ、そんなことありませんわ! いかにも魔術館らしくて、良いと思います!」
「居心地良くし過ぎて客が殺到しても困るんだ。週に二回しか開館していないからな」
実は開館当初、壁紙はクリーム色にしていた。
だが、開館して一月ほど経つと、若い女の客が殺到したのだ。彼女たちは皆、ただデ=レイの顔を見に来ていた。「顔に中毒になった」という意味不明な理由で。
「壁紙の色を変えたら、物見遊山で来る客が激減した」
「この色にそんな理由があったんですね。素晴らしいですわ」
そう、陰気な内装には迷惑な女性客を避ける効果があった。
そもそもデ=レイはここを繁盛させたくてやっているのではないのだから。
シエーナが案内されたのは、広間の隣にある作業室だった。
簡素な白い部屋には棚が所狭しと並び、魔術に用いる薬草や聖玉の欠片といった材料たちが、瓶や木箱に入れられて整理されていた。
「薬草がこんなにたくさん!」
シエーナは声を上げて棚の前にいき、目を丸くしてその高い棚を見上げた。
王都の人気魔術師であるリドの館の薬草棚と、変わらないくらい豊富な種類の薬草がストックされている。
「お一人でこんなに集められたのですか?」
「まぁ、そうだな」
公爵の財力を持ってすれば、この程度なら容易に集められる。
だがシエーナはデ=レイが森の中に分け入り、汗水垂らして薬草を摘み、袋に入れて運ぶ光景を想像していた。
「次はいつ薬草集めに行かれるのですか? 私も、是非お手伝いをさせて下さい!」
デ=レイは返事に窮した。
なかなかの広さがあるその作業室の真ん中には、頑丈そうなぶ厚い木材で作られた、丸いテーブルが置かれていた。その傷だらけの天板はデ=レイや先代のル=ロイドがここで作製した術具作りの歴史の長さを物語っている。
「薬を煮出すのは、そっちの釜だ」
デ=レイは作業室の奥にある大きな窓の下の、鉄釜を指差した。
(――ああ良かった! 室内にあるのね)
シエーナは思わず胸を撫で下ろした。
釜は外に置いている魔術師も多く、その場合は夏は汗だくに、冬は煮えたぎる湯の中に飛び込みたい衝動を抑えつつ仕事をしなければならない。
ドルー渓谷の魔術館の職場環境は、意外と悪くなさそうだ。
シエーナの心配事が一つ消えた。
シエーナはデ=レイに指示され、薬草に使う葉を茎から毟り始めた。
葉の部分から抽出する液体のみを使うため、茎が混じらないよう、丁寧に毟る。
言いつけた当の本人は、腕を組んでソファにどっかりと座り、シエーナを観察していた。その値踏みするような鋭い視線が怖い。
いたたまれず、シエーナは世間話を始めた。
「今日も雨が続いていますね」
「そうだな。渓谷まで客が来るのが大変になるのが、困る。常連には高齢者も多いからな」
デ=レイは眉をひそめた。
しまった。機嫌が悪くなってしまった、とシエーナは首を引っ込めた。
一方でデ=レイは
あの夜、王宮の夜会で見たシエーナのドレス姿を思い浮かべる。
(全然違うじゃないか。胸の大きさまで違うぞ……)
シエーナにバレないよう、ちらちらと彼女の胸元に視線を走らせる。
王宮の庭園で見たシエーナの胸はかなり盛り上がり、扇情的な谷間すら見せていた。
だが、今目の前にいるシエーナの胸は、大変ささやかだ。
それこそ魔法のようではないか。
デ=レイは茎のカスで汚れた床の清掃をし始めたシエーナの背中の辺りを、食い入るように見つめた。
(そもそも、もしやコルセットを着けていないのか?)
今日のシエーナは夜会に出る女達のように、背中から肉を前に回してカサ増しし、コルセットで締め上げ、寄せて上げてをしていないのかもしれない。
ふとそんな考察を真面目にしてしまっている自分に気づくと、デ=レイは情けなくなった。
頭を抱えて、静かに長い溜め息をつく。
開館時間を少し過ぎた頃、玄関の方からドンドン、ドン! という大きな音が響いた。
魔術館の正面口にある、真鍮製のドアノックが鳴らされたのだ。
その音にシエーナとデ=レイの二人がはっと顔を上げる。
「お客様かしら?」
シエーナにとって初めての客が登場したらしい。
張り切って笑顔を作り、玄関へ行こうと廊下を走りだすと、デ=レイに進路を妨害された。
「待て。私が出る」
シエーナを押しのけたデ=レイが扉を開け、現れたのは腰が曲がった老人客だった。
真っ白い髭に覆われた顔を、くしゃっと笑顔で崩してデ=レイに話しだす。
「デ=レイ。また腰が痛くてのぉ。いつもの薬を…」
そこまで言いかけてから、老人は館の主人の背後に控えるシエーナの存在に気づいたらしい。彼は驚いてよろめき、慌てて杖に縋った。転ぶかと思って、シエーナも焦った。
「お前さん、ついに嫁さんを貰ったかぁ。これまた偉い別嬪さんだのぉ」
「コブレンツさん。コレは嫁ではありません。弟子です」
なんて皮肉だ。
実際嫁に貰おうとしたのに、断られたのだから。
老人は、理解したのかしていないのか、そーか、そーか、それはエライことだ、と何度も頷いた。
老人はシエーナに言った。
「ワシ、腰が痛くて、殆ど歩けんのよ」
この渓谷までどうやって来たのか。シエーナは戸惑った。
デ=レイは緑色の草が浮かぶガラス瓶入りの薬を何本か手に取ると、老人が持参した布の鞄に入れた。
老人は鞄を大事そうに抱え、シエーナに向かって微笑んだ。
「ここの魔術師の薬は、最高に効くのに、ワシでも買える良心価格でのぉ。他の魔術館では、とても買えないわい」
シエーナは意外な気持ちでその話を聞いた。
ランバルドの住人たちに慕われたル=ロイドと同じく、やはりデ=レイも頼りにされているのだ。
自分に対する態度がなぜか結構冷たいので、ここへ来てから忘れていた。
(私には随分な態度だけれど、客からは好かれているのね)
老人の震える手から、デ=レイがお代を頂戴する。
「また来月も頼むよ、デ=レイ」
ビン入の布袋を背負う老人が、あまりに危なっかしく、シエーナは腕を貸して彼を外まで案内した。老人は去り際に、感心したように頷いた。
「デ=レイ、お前さん良い嫁さんを貰ったのぉ」
老人を見送るデ=レイの笑顔が引きつった。
午前中は薬を買いに来る高齢者の客が多かった。
皆、健康上の理由でここに来ている者たちばかりで、シエーナにはそれが新鮮だった。
王都のリド魔術館には、基本的に客は貴族ばかりで、高確率でいるのが媚薬を買いに来る女性だった。
所変われば、客層と目的も違うのだ、と感心した。
昼食の時間になると、デ=レイはシエーナを館の奥にある台所へ案内した。
広い台所の横にはダイニングテーブルも置かれ、清潔な白いテーブルクロスもかけられている。
「昼食はここで食べてくれ。一時まで客も来ないから、ゆっくりして良い」
「ありがとうございます」
シエーナは持参したバスケットをテーブルの上に置くと、少しだけその蓋を開けた。
ちらりとデ=レイの様子を窺うと、彼は台所の木のまな板に長いパンをのせ、包丁で切り始めている。
シエーナは自分のバスケットを覗き込み、小さく溜め息をついた。
――実は中身はほぼ空だった。
伯爵邸を出るときは昼食をちゃんとバスケットに入れてきた。
屋敷そばの駅馬車亭から公共の馬車に乗り、ランバルドの街最北にある終点で降りる。そこからはドルー渓谷のこの魔術館まで、徒歩だ。
だが今日、馬車を降りて少し歩いた所で、シエーナは足を止めた。
痩せ細った少年とその妹らしき少女が道端に座り込んでいたのだ。
素通りはできなかった。
かくして、バスケットの中の食べ物を彼らに上げてしまうと、彼女は軽くなったバスケットを抱えてドルー渓谷の館まで出勤してきた。
バスケットの中に転がっている苺を、一粒摘むと少しずつ食べる。
パンと紅茶のポットを持って向かいに座ったデ=レイは、シエーナの不審な動きにすぐに気がついた。
バスケットを殆ど開けず、苺を前歯でちびちびと
(――ハムスターか?)
デ=レイはパンを咀嚼しつつ、俯きかげんで小さな苺を異様なノロさで食べるシエーナを凝視した。
まさかとは思うが、念の為尋ねてみる。
「昼食は苺だけか?」
シエーナはびくりと顔を上げた。
「い、いえ。屋敷を出る時はちゃんとたくさん入れてきたんです。パンもサンドイッチも、ハムも茹で卵もフライドチキンも、豆サラダも温野菜もプディングも」
「入れ過ぎだろ」
「ですが、途中でお腹を空かせた子どもたちに出くわしてしまいまして…」
「恵んできたのか」
「はい」
気まずい沈黙が続いた。
シエーナは何も悪いことをしたわけではない。善意の行いだ。だが、手放しで褒めることではなかった。
「明日は、それをしない方が良い」
「……はい。わかっております」
二度すると、三度目を期待される。
そうなると子どもたちはシエーナを待ち伏せするようになり、そのうち子どもたちの人数が芋づる式に増えるのだ。
貧者への恵みは、やり方を間違えると危険な結果になることがある。
デ=レイはポットを傾け、シエーナの前に置いたカップに紅茶を注いだ。琥珀色の美味しそうな紅茶から、湯気が上がる。
「紅茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
礼を言ってから一口飲むと、ピリっと辛い味が口いっぱいに広がり、続いて喉が熱くなった。
「ショウガ入りですか?」
「ああ、そうだ」
「身体が暖まります!」
シエーナは嬉しそうに、にっこりと笑った。
その笑顔は実に素朴だった。
デ=レイの知る貴族の女というものは、気取って小指を立て、すました顔で茶を飲むものだった。
やはり伯爵令嬢は変わり者だ、と彼は思った。
二粒目の苺を食べながら、シエーナは話し出した。
「リド魔術館では、従業員の昼ごはんを作るのは私の仕事だったんです」
「リド魔術館では、伯爵令嬢に料理をさせていたのか?」
「私が伯爵家の娘だと知っているのは、リドさんだけでした。ほかの方々には、実家は石屋だと伝えてありました」
石屋、とデ=レイが呟く。
イジュ伯爵令嬢は宝石業で財を成した。当たらずと言えども遠からず、か。
「皆さん私も他の従業員と、変わりなく接して下さいました。勿論、厳しい方もいましたけど」
リド魔術館での日々を思い出したシエーナが、不意にぷっと頰を膨らませた。
特に兄弟子のマクシムという名の男が、やたらにいつもシエーナに突っかかってきた。
彼女より一歳年下なのに、腕が良くリドの館でも勤務歴が長かったマクシムは、シエーナに対していつも偉そうで、意地悪だった。
「結構乱暴な人もいましたわ。すぐに私の頭を叩いたり、やたらに残業させられたり」
「伯爵には話したのか?」
「まさか! 働きに行くのをやめさせられたら、困りますもの」
「どう困るんだ?」
デ=レイが斬り込むとシエーナは一瞬答えに詰まった。そこに畳み掛ける。
「イジュ伯爵は君がリド魔術館ではなく、今はここに来ていることを知っているのか?」
シエーナの胸がどきんと鳴る。
とてもだが知らせられない。この陰気な館で若い男の魔術師と二人でいるところを父が目にしたら、以後の外出を禁じられるかもしれない。
父はいまだに、シエーナは王都のリド魔術師の館で働いていると思っていた。
デ=レイはシエーナの顔色がさっと白くなったのを見て、答えを知った。
「やはりな。――伯爵令嬢は噂と違って、とんだ跳ねっ返りだったようだ」
フラれて多少なりとも傷ついた自尊心を、デ=レイは自分で癒そうとした。
不敵に微笑むデ=レイを前に、シエーナはなんとかゴネた。
「……女が働いたらいけませんの?」
「そうじゃないが、なぜ伯爵令嬢の君が女官や高級侍女ではなく、魔術館なんだ?」
「それは……。伯爵家の娘が魔術師の弟子になったらいけませんの!?」
「だめだろ、普通」
うっ、とシエーナは口ごもる。
急に訪れた静けさの中で、シエーナの腹の虫が盛大に鳴った。
僅かな沈黙の後、デ=レイが声を立てて笑った。
ははははは! と実に愉快そうに笑う彼の前でシエーナは真っ赤になった。
デ=レイは目尻の涙を手の甲で拭いながら、自分のパン皿を差し出した。
「伯爵令嬢どの、パンを恵んで差し上げよう」
「…………。い、いただきますわ」
ムシャムシャとパンを食べ始めたシエーナを、デ=レイは楽しげに見つめた。
シエーナはかわりに自分のバスケットの中の苺をパン皿に転がした。
「苺も召し上がってくださいませ。――あの、お師匠様の昼食はパンだけなのですか?」
「そうだな。ここは買い物が大変だから、あまり食糧を買い置きしていないんだ」
「まぁ。いつもパンだけだなんて……」
今すぐに異変はなくても、長期的にそんな食生活を続けたら、健康に支障が出そうだ
「パンだけでは、身体に良くありませんわ」
週に二日だけのことで、公爵邸では豪勢な食事をとっている。だがまさかそんな話をするわけにもいかない。
デ=レイは適当に「そうかもしれないな」と相槌をうった。
するとシエーナは顔をぱっと輝かせた。
「明日は屋敷からケークサレを持って参りますわ。二人で食べましょう!」
ケークサレは小麦粉とバターを混ぜたものに、野菜や肉類をたくさん入れて焼くものだ。甘くないケーキと言われ、栄養満点で昼食に丁度いい。
ふと疑問に思ってデ=レイが尋ねる。
「君が焼いてくれるのか?」
「いいえ、コックに作らせます」
そりゃそうか、とデ=レイは苦笑した。
シエーナは腐っても伯爵令嬢だった。
だがそんなデ=レイの反応が、シエーナは不服だった。
リド魔術館でまかない作りをしていたから、料理は一通りできるのだ。妙なところでシエーナの自尊心が少し傷ついた。
「いいえ、やっぱり、私が焼いて参りますわ」
「えっ?」
「せっかくですもの。楽しみにしていて下さいませ!」
そう言うなり、シエーナはデ=レイの好きな野菜について、質問をしてきた。
彼の好物を使って、焼くつもりらしい。
「じゃがいもに人参に、ほうれん草と……」
シエーナは暗記しようと連呼しながら、指を折る。
デ=レイは不覚にも会話の締めくくりに呟いてしまった。
「それはとても、楽しみだ」
しまった。
シエーナのペースにいつのまにか乗っていた自分に、心の中で呆れた。
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