第3話 予期せぬ再会
「なんなんだ、あの令嬢は……」
一体、どういうことだ。
公爵は事態をさっぱり理解できぬまま馬車に乗り、帰路についた。
イジュ伯爵令嬢のシエーナは厠へ行った後、帰宅してしまったのか王宮夜会のホールに二度と姿を現さなかった。
まさか夜会が終わるまで厠に篭っていたわけではないだろう。
公爵が帰宅するなり、彼の従者のセインは屋敷の酒蔵に飛び込んで酒瓶を抱え、公爵のもとに戻った。
公爵は苛立って居間のソファーに腰掛け、ローテーブルにどかりとその長い足を投げ出した。
その足をそっと掴んで床上に戻しながら、セインは酒瓶をローテーブルに並べる。
九才からハイランダー公爵邸で小姓として仕えていたセインは、この同い年の公爵の機嫌の悪さを敏感に察知していた。
公爵はここ一ヶ月、ずっと虫の居所が悪そうだった。
だが今夜はまちがいなく、ここ最近の中で一番不機嫌だ。
「伯爵令嬢とはお会いになれなかったのですか?」
セインはグラスに酒を注ぎながら、直球気味の質問をした。
「会えた」
セインが注ぎ終わったグラスから視線を上げる。
「それならなぜそんなに仏頂面なんです?」
セインは言葉を飾らない従者だった。
公爵は更に仏頂面になり、呟いた。
「名を告げたら、逃げられたんだ」
「まさか……! お館様から逃げ出す女がいるなんて、信じられません」
セインは茶色の瞳を丸く見開き、驚きを露わにした。
公爵はそれ以上詳細を語ろうとしなかったので、セインはソファーの背もたれに掛けてあった公爵のコートを取ると、クロゼットに戻しに行った。
再び居間に戻ると、公爵は既に酒瓶を半分ほど飲み干していた。
「――明日はお出かけにならず、屋敷でゆっくり過ごされますか?」
だが公爵は首を左右に振った。
「いや、ドルー渓谷に行く。これだけは休めない。客が私を待っているからな」
気分は大変悪い。
だが今日は金曜日だ。
公爵はいつも週末をドルー渓谷にある別宅で過ごしている。
公爵の祖母は王妃だった。
祖母は王太后となってからは公務を殆ど引退し、以後は身分を隠し、生まれ持った強大な魔術をいかして不定期で魔術館を開いていた。
祖母はただの趣味で魔術館を開いていたのではない。国内の貧しい民は、どんなに困っても魔法に頼ることはできないのだ。魔術師は高給取りで、魔法は高価だからだ。
だから祖母は貧者たちのために、破格の安さで魔術師をしていた。彼らを助けるために。
祖母は魔術師としてはル=ロイドという名を名乗り、ドルー渓谷のル=ロイドは慈悲深く、貧しい者たちに寄り添う魔術師として、周辺住民から深く敬愛されていた。
公爵はその魔術館を祖母から受け継いだのだった。
強い魔術を生まれつき持っていたのは、家族の内で公爵だけだったからだ。
彼の魔術師名はデ=レイだった。ル=ロイドから魔術館を譲り受けた時に、彼女につけてもらった名前だ。
魔術館はやり甲斐も感じさせたが、息抜きにも丁度いい。
王宮を抜け出し、魔術館である郊外の別宅に行くと、不思議な解放感に満たされ、癒されるのだ。
客は誰も魔術師が公爵だとは思っていない。
だからこそ、魔術師としての仕事もやり易かった。
伯爵令嬢を娶れという祖母の遺言は、何やら実現が難しいように思える。
どうもあの令嬢は、色々まずそうだ。
だからこそ、魔術館を守れという遺言の方は、守ってやりたい。
そんなことを考えながら明くる朝、公爵は王都郊外のドルー渓谷の魔術館に向かった。
…………………………
ドルー渓谷は霧の中にあった。
じっとりと身体にまとわりつく、極細かな雨が絶え間なく降っている。
早朝のせいか、立ち込める白い霧が辺りに漂っていた。日頃は深い緑色のドルー渓谷の景色を、今は薄ぼんやりとどこまでも白く染め上げている。
その陰気な渓谷にシエーナは立っていた。
薄い外套についたフードでその
目深に被るフードから覗く瞳の色はティーリス王国でも珍しく、濡れたような黒色をしており、強い意思を感じさせる。
「いよいよなのよ。ついにこの日が来たわ」
彼女は自分を奮い立たせる為に、そう呟いた。
まさにこの日の為に、長年努力してきたと言っても過言ではない。
手にしっかりと握りしめた白い封筒を胸に抱き、辺りを見渡す。
イジュ伯爵の屋敷がある賑やかなランバルドの街から近距離にあるにも関わらず、ドルー渓谷には一軒の建物しかなかった。
魔術師の館である。
暗い空に切り立つ様な、薄気味悪い崖を背に、その館はあった。
渓谷の闇に溶けそうな暗い木の色のドアの前で、彼女は大きく深呼吸をした。高い湿度を帯びた渓谷の空気を口腔内に感じる。まるで白い霧を食べたようだ。
ーー勇気を出すんだ!
フードを払ってから、榛色の髪の毛を緊張で震える手で丁寧に整えると咳払いを一度し、決心をするとドアを強く叩いた。
蝶番が軋む不気味な音が響き、ドアが開く。
中から現れたのは、長いローブを羽織った金髪の男だった。
その男のあまりに整った顔立ちに束の間見惚れる。
日も当たらないのに輝く金色の髪は清潔に短く揃い、鼻梁や頬は白く滑らかな石材を匠が彫ったように美しい。アイスブルーの瞳は綺麗だがやや冷たい印象を与える。
シエーナは震える声で話し掛けた。
「こんばんは! 私、マリー・セリーヌと申します。あの、魔術師のデ=レイ様に会いに来ました」
本名の一部は故意に省いた。イジュ伯爵家の娘だとバレれば、面倒なことになると思ったからだ。
男はその黒い瞳の女性を、眼光鋭く観察しながら言った。
「デ=レイは私だ。何の用だ?」
シエーナは、黒い瞳を一瞬丸くさせて驚いた。
陰気な谷に住む魔術師が、こんなに美形だとは思っていなかった。なんという宝の持ち腐れだろう。
「あの!! 私、ここで働きたいんです!」
「間に合っている」
バン!
と無情にも扉が閉められた。そのあまりの勢いに思わず後ずさる。
――えっ!? こんなにあっさり? 検討すらしてもらえないの?
そもそもランバルドの公設市場の掲示板に「ドルー渓谷の魔術館にて、助手募集中。随時面接可」と張り紙がしてあったではないか。
それを確認したからこそ、勇んでやって来たのに。あの広告が出されるのを今か今かと毎日のようにチェックしていた。
もう丸一年も。
やっと見つけたこの魔術館の助手の座を、ここまで速攻断られるとは想像していなかったシエーナは、閉められたドアの前でしばし硬直した。
――いいえ。ここで引き下がってはだめ。何の為に、努力してきたと思うの?
己を叱咤し、再び激しくドアをノックする。
無視されないよう、ちよっと長めに、うるさく。
ややあってから開かれたドアの隙間から顔を出したデ=レイの表情は険しかった。
「しつこいぞ。そんなに若い女の助手を雇うつもりはない」
「デ=レイ様は、この辺りで一番の魔術師だと聞きました。昨年この魔術館を継がれたばかりなのに、しかも週に二日しか開いていないのに、一年でもうランバルド中にそのお名前が知れ渡っています。ぜひ、貴方様の下で働かせて下さい」
お世辞を混ぜつつ、なけなしの笑顔で持ち上げてみる。
髪にはとびきりの香油を塗ってきたし、滅多にしない化粧を今日はちょっぴりしてきた。……この雨で全て落ちているかもしれないが。
至近距離にいるデ=レイは徹底して冷たい眼差しをこちらに向けているので、笑顔を絶やさぬ様にするのに一苦労し、頰が引き攣る。
「お給金は、日当二千バルで結構です!」
デ=レイの眉が微かに動いた。
破格の安さに多少心動かされたらしい。ケチなのだろう。もうひと押し必要か。
「いえ……千八百でも構いません!」
「千八百?」
「千五百!…………いえ、千!! 千バルでいかがです?!」
最早叩き売りである。
「安過ぎて怖いぞ」
デ=レイは呆れたように言った。彼は深い溜息をつきながら、首を左右にふり、一転して同情のこもった眼差しでシエーナを見た。
ふと、デ=レイの瞳が微かに見開かれる。
(どこかで見たか?)
目の前で雇え雇えとしつこい小娘に、なぜか見覚えがある。
客として来館したことがある娘だろうか?
こんなに質素な身なりと地味な顔立ち、そしてダサい髪型をした娘は、彼が社交の場で出会うような、王侯貴族にはいるはずもない。
だからどう考えても、魔術館で出会った娘だろう。
だが記憶にあるどの娘とも一致しない。
日当千バルなどという、激安価格で自分を売り込んでまで仕事を得ようとする身の上に、多少の同情を禁じ得ない。よほど生活に困っているのだろう。
とは言え、若い娘を雇うのはやはり気が向かない。
デ=レイはシエーナの肩を優しく叩いた。
「自分を安売りするんじゃない。他を当たってくれ」
他じゃ意味がないのだ。ここでなければ。
シエーナは事前のリサーチをここで活かした。新進気鋭の魔導師デ=レイの薬はランバルドの町でもとても評判が良かった。だが、苦味が強い事が若干の欠点としても知られていた。
煮るのが下手なのだろう。
「私、薬を仕上げるのも得意です。つい最近まで別の魔導師のお店でも働いてきました」
どうやら一考の価値あり、と思われたらしい。デ=レイは立ち止まり、シエーナの顔を真剣に見た。
雨足はとまることなく、シエーナの服の裾をも濡らしていた。デ=レイは寒そうに震える彼女に遅まきながら気がつき、館の玄関に招き入れた。
中は随分と広かった。
家具類は暗い色調で統一されており、陰気さは館の外と中で変わらなかった。
所々に配置された水晶の装飾品が、闇の中から浮かび上がっている様に見える。
デ=レイはシエーナに尋ねた。
「以前も魔術師の助手を?」
「はい! 私、前職は王都のリド魔術師の所で働いておりました。推薦状も持参しています」
「あのリド魔術師か?」
デ=レイは意外そうに片眉を上げた。
最後のひと押しだとばかりにシエーナは大きく頷く。
王都の高名な魔術師の下で働いた経歴は、相当のウリになる筈だ。リドの名を知らぬ魔術師はこの国にいない。
シエーナは予め書いてきてもらっていたリドからの推薦状を、恭しくデ=レイに手渡した。
実はリドに雇って貰うのは簡単だった。シエーナの父のコネを使ったからだ。リドは断れなかったはずだ。
だが推薦状を書いてもらうのは、もっと簡単だった。
書いてくれれば辞めるとシエーナがリドに申しでると、彼は顔をバラ色に輝かせて嬉々として書いてくれたのだ。シエーナを見送る時は、空から大金が落ちてきたかのように嬉しそうだった。
失礼な話だ。
デ=レイは雨で湿る手紙を、人差し指と親指の先で摘まむようにして開いた。
そこには、シエーナを弟子として大絶賛する魔術師リドの数枚にも亘る力作がしたためられていた。
「随分評価が高かったらしいな」
シエーナは胸に手を当て、膝を折った。
惜しみつつ推薦する、と締めくくられた力作から目をあげると、デ=レイはしばし考えた後で口を開く。
「募集しているのは、短期の間の助手だけなのだ。短期雇用でよいのなら、早速明日の朝から来てくれ」
「勿論です!」
「一応確認するが、日当八百バルで良いんだな?」
――あれっ、ちょっと下がってる……。
一瞬言葉に詰まったシエーナだったが、即座に首を縦に振る。
給金などどうでもいいのだ。この館で働けることに、全ての意味があるのだから。
来た時とは対照的に足取り軽く館を後にするシエーナの後ろ姿を、デ=レイは眉根を寄せて観察していた。
彼は指笛を吹くと、使い魔の雀を呼んだ。
玄関脇の止まり木にいた雀は、小さな翼を羽ばたきデ=レイの肩に止まると、チュッ、チュッと鳴いて主人の命を待つ。
デ=レイは雀の丸い頭を人差し指で軽く撫でながら言った。
「イチ号。――あの小娘の後をつけろ」
一体どこの何者だ、と独りごちるデ=レイの肩から、イチ号はサッと旅立った。
約一時間後、戻ってきた雀に案内されながら、公爵は馬で駆けた。
雀はある一軒の大きな屋敷の門扉にとまった。
そこから動かない雀を見上げ、公爵は言った。
「おい、イチ号。なぜこんな所でとまる。あの娘の家を突きとめろと言ったはずだ」
イチ号はチュン、チュンと鳴きながら、門を小さな嘴でツンツンと叩いた。
「――まさか、ここなのか?」
公爵は絶句した。
なぜならこの屋敷には最近来たからだ。
イチ号が案内したのは、イジュ伯爵邸だった。
「あの娘は、伯爵家のメイドか何かか?」
――いや、待てよ。あの黒い瞳。あの声……。
白い雪片が空から降り始めた中、公爵が身を震わせる。
寒さからではない。
狼狽のあまり、震えた。
否定したくて仕方がないが、小娘は昨夜夜会で見かけた伯爵令嬢に似ていることに気がついたのだ。
昨夜のシエーナを二割減で不細工にすれば、丁度あの小娘に似ているかもしれない。いや、三割か。
今朝の小娘の眉は行方不明だったし、目力もなかった。鼻や頰にはそばかすが散っていた。
だが、そんなものは塗りたくれば変わる。
「そうだ。イジュ伯爵令嬢のフルネームはたしか…」
シエーナ・マリー・セリーヌ・フォイアンヌ・イジュ伯爵令嬢。
「嘘だろ!!」
デ=レイは叫んだ。
何が、マリー・セリーヌだ。
驚いたことに、ドルー渓谷にやって来たのはイジュ伯爵家の唯一のご令嬢だった。
つまり、デ=レイが最近求婚し、フラれた令嬢だった。
(どこかで見たと思った。それにしても、化粧をしないと、まるで別人じゃないか……)
たしか先月、自分が伯爵家を訪ねた際、伯爵は娘が仕事をしている、と言っていた。
だがまさか、リドの魔術館で働いていたとは思いもしなかった。
夜会で会った時は、「言うのも憚られる下らない仕事をしている」と彼女自身が言っていた。まさか自分がその雇い主になるとは、思ってもいなかった。
「どういうことだ。あの小娘…、じゃなくてご令嬢、一体何が目的だ?」
指先にイチ号を乗せ、デ=レイは唸った。
迎えた翌日、玄関でシエーナを迎えたデ=レイはあからさまに失意していた。
「本当に来たのか」
「勿論ですわ。おはようございます」
昨日よりは多少明るい館の中で、改めてまともにデ=レイの顔を見て、シエーナは驚いた。
渓谷の魔術師は、目が合った瞬間胸に痛みすら覚えるほどの美貌の持ち主だった。
(このアイスブルーの瞳、どこかで見たような……?)
だがデ=レイはその形の良い眉を相変わらず不機嫌そうにひそめていた。
腰に手を当て玄関に仁王立ちのデ=レイの横をすり抜け館に入ろうとすると、シエーナはまるで子猫のようにデ=レイに襟元を後ろから掴まれ、扉まで引きずられた。
「おい。お前、伯爵令嬢なのだろう? なぜ隠していた?」
素早く三度ほどその黒い瞳を瞬く。
なぜこんなに早々にバレてしまったのか。
焦りつつもシエーナは平静を装い、答えた。
「そんな、隠したつもりはありませんわ。ちゃんと名乗ったではありませんか」
「だいぶ省略しただろう」
「他意はありませんわ。――早速、仕事場に案内してくださ…」
再び中に入ろうとしたシエーナの前に、デ=レイはその長い足を突き出して進路を塞いだ。
玄関に貼られた緑と紫色のストライプ柄の壁紙に、デ=レイの靴の跡がつく。
――この壁紙も色使いが陰気だわ。
「教えてくれ。ご令嬢が、なぜ魔術師の助手ゴッコなどしている?」
「あら、ゴッコだなんて。心外ですわ。私真剣にお勤めするつもりです」
デ=レイは疑り深い眼差しをシエーナに向けた。
少し頰を膨らませたシエーナは、睥睨されてもなお、懸命に目を逸らさない。
イジュ伯爵家の令嬢と言えば、変わり者で有名だった。
宝石業で成功を収め、ここ十年ほどで急速に豊かになったイジュ伯爵には、二人の子ども――次期当主のエドワルドとその姉のシエーナがいた。
伯爵家は名門貴族だったが、一時は没落し長く貧しい時期があった。
その記憶が脳に深く刻まれ過ぎたのか、齢二十とまだ若いはずの伯爵令嬢シエーナは、極度の倹約家としてその名を馳せていた。
――なるほどな。百聞は一見にしかず、か。
デ=レイは不躾に目の前のシエーナの頭からつま先までを舐め回すように見つめた。
夜会でシエーナが着ていたドレスは素敵なものだったが、どうやら普段は冴えない服を着ているようだ。
年齢に比して地味過ぎる意匠のドレスは、着倒し過ぎたせいか、薄紅色なのか灰色なのか最早区別がつかない。
キラキラと輝く榛色の髪は艶があり美しいものの、一切の工夫も飾りもなくハーフアップにされているのみ。
化粧はナチュラルメイクなのか、していないのかよく分からない。いや、恐らく多分きっと、していない。
「あの。私……貴方に、憧れて来たんです」
「意味が分からん」
「じっ、地元の人々に頼りにされているドルー渓谷の魔術師様のお噂は、王都の魔術館でも耳にしておりましたの」
「そうか。人里離れた渓谷に住む魔術師を、興味本位で見に来たのか?」
「違います。 働きに来たんです!」
デ=レイが冷たい目で腕組みをすると、シエーナは耐え切れずに一歩後ずさった。
その細い足が小刻みに震えていることに気がつき、デ=レイはようやく通せんぼをしていた長い足を下げた。
少し脅かし過ぎたらしい。
「ならば真面目に働いてくれ。それと、あくまでも君のことは一介の助手として扱う。ご令嬢として丁重に扱うつもりは毛頭ない」
最初からずっとその丁寧さの欠片もない態度じゃないか、という反論を無理やり呑み込み、シエーナは引き攣る笑顔で頷いた。
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