縁切り

 十数年前、私は「タチキリ様」という神を信仰する山奥の村で生まれた。タチキリ様とは悪縁を断つ鋏の神であり、まともな交通の便もない秘境じみた場所にありながら、村の神社には全国各地から「切りたい縁を抱えた人間」が頻繁に訪れていたのを覚えている。

 しかし、神社に生まれ、神社で育った私には分かっていた。ここにタチキリ様なんて神は居ないということ。そして、ほかならぬ私に、彼らの願いを叶える力があるということを。

 神の居ない神社へ、神に縋る者が集まる。私は彼らの願いを聞くと、それに応えるように数多の縁を断ち切った。友との縁、親との縁、組織との縁、社会との縁、金との縁、病との縁。果ては現世との縁までも、願われさえすればどんな縁であれ、二度とは結ばれぬように断ち切ってきた。

 そう、私は人々の願いを叶えてきたのだ。しかし、人々は次第にタチキリ様を恐れるようになった。縁を切りたいと願ったのは自分たちなのに、やれ友人に金を貸した記録がなくなっているだの、子を生んだ覚えがないと騒ぐ親に家を追い出されただの、戸籍がなくなって生きていけないだの。

 そして誰かが言い出した。「神社の一人娘はタチキリ様と話せるそうだ」と。そしてまた誰かが言った。「こんなことになったのはあの娘が生まれてからだ」と。噂は狭い村の中を巡る中で形を変え、遂には「巫女を殺して神社にも火を放つべきだ」という考えが村人たちを支配するまでになっていた。

 それを知ってもなお、私は何もしなかった。否、出来なかった。逃げようが、隠れようが、狭い村の中では無意味なことだ。まして私は、生まれてからずっと誰かの願いを叶えるために神の代役を務めてきた存在。自分自身の排斥であっても、それが人々の願いなら、応えるまでだ。そう考えていた。

 しかし、彼女はそう思っていなかったらしい。

「私は、貴方が悪い神様じゃないって知ってるから」

 立花たちばな狭霧さぎり、タチキリ様を祀る神社の一人娘にして、人ならぬ私が唯一言葉を交わせる巫女。

「知ってる? この神社には昔、本当にタチキリ様が居たんだって。でも、今みたいにタチキリ様のことを怖がった当時の人が、タチキリ様自身とこの村の縁を切っちゃったみたいなの。貴方が宿っているその糸切り鋏は、そのとき本物のタチキリ様が置いていったもので……タチキリ様が居なくなった後も、それを知らない人たちが変わらずその鋏に祈り続けていたんだって。勝手な話だと思わない?」

 そう話す狭霧の目は、穏やかな語り口調と裏腹に、悲しい決意に満ちていた。

「同じ日に生まれてからずっと一緒に過ごしてきた貴方と一緒に死ぬなら怖くはないけど、でもちょっとムカついちゃうんだよね。勝手な信者たちもそうだけど、それよりも、貴方に。私と違って、本当はどこにでも行けるはずなのに、ずっとこの村に留まっている貴方が嫌い」

 普段の巫女服だけでなく、儀式用の装束である千早も身にまとった彼女は、タチキリ様の御神体とされる鋏ではなく、そこに宿る私自身の姿を睨みつける。きっと私の姿は醜く、人の目では直視に耐えぬものであろうに、狭霧は幼い頃からそうであるように、私の友として私の前に立っていた。

「私は今から、神降ろしの儀式を執り行う。その意味が分かる? 貴方は私の体に憑依して、自由を手に入れるということ。誰の願いも聞かず、誰の願いも叶えなくて良い。貴方が貴方自身の願いを得て、それを叶えるために生きること。それが私にとって、貴方に捧げる最初で最後の願い。……神は祈りを受けて応えるもの、でしょ? 可愛い幼馴染のお願いくらい、縁切りじゃなくても叶えてよね」

 そう言って、狭霧は華麗に舞った。タチキリ様を降ろす巫女の舞踏、それはタチキリ様の居ない現代では意味をなさないはずの儀式だったが、彼女と私を結ぶ縁に呼ばれてか、私は気づけば確かに彼女の体へと降ろされていた。

「……ぁ」

 人間の体を得て最初に私がしたことは、後悔と悲痛に襲われ咽び泣くことだった。

 私はただ、狭霧に喜んでほしかった。私が人々の願いを叶え、神社を訪れる人が増えれば、彼女が喜んでくれると思っていた。それが結果的に彼女を危険に晒してもなお、私には、それ以外の方法が分からなかった。

 狭霧に「嫌い」だと言われて胸が張り裂けるようだった。彼女が村に縛られることを嫌い、どこか遠くへ行きたいと思っていたことなど知らなかった。たった一度でも、彼女が「この村を離れたい」と願ってくれれば、否、私がその願いに気づきさえしていれば、私にはそれを叶える力があったのに。

 もう狭霧の声は聞こえない。私の体は彼女のものであって、しかし彼女はここに居ない。

 人の身に降ろされて、私はようやく気づいた。きっと私は、彼女に恋をしていたのだ。

「……タチキリ様、タチキリ様、どうか悪縁をお切りください」

 ひとしきり泣いた後、私はかつての依代である糸切り鋏を手に取ると、立花狭霧と村との縁を断ち切って誰にも気づかれぬまま村を出た。「村を出たい」という狭霧の願いを叶えるために。

 盗み出しておいた賽銭を消費しながら東京へ出た後は、ラーメン屋のアルバイトで金を稼ぎながら生活を続けた。「普通の仕事をしてみたい」という狭霧の願いを叶えるために。

 バイト先に新人として入ってきた金森千秋と出会ったときは、かつての私が狭霧にそうしてもらったように優しく接してやった。「友達が欲しい」という狭霧の願いを叶えるために。

 そして今、目の前で金森千秋は呪いに蝕まれている。「呪いとの縁を切る」という彼女の願いは、本来の私ならば容易に叶えられるだろう。だが今の私は人の身に降ろされ、狭霧の願いに縛られた身。このまま横槍を入れれば、狭霧の体もろとも私は呪いに負ける。

 だが、方法がないわけではない。要は、元に戻れば良いだけの話だ。

「狭霧、後は君に任せるよ。私の願いは……大事な友達を救うために自分を犠牲に出来る、君に誇れるような男になることだ」

 私は私と狭霧の縁を断ち切り、彼女の体から抜け出した。彼女はほどなく目覚めるだろうが、意識が戻っても私のことは覚えていないだろう。私の力はそういうものだ。だが、私はそれで構わない。

「さあさ、断ち切ってみせよう、良縁も悪縁も、縁であれば区別なく。我が名はタチキリ様、縁を断つ神が故に」

 千秋の血筋と、大昔から続く呪いの縁。糸切り鋏に宿る異形へと戻った私にとって、それは容易く切れる柔い糸のようだった。

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