2.魔が宿る目
エテルニアに覆われてしまった部屋は、結局のところ封鎖することになった。
重傷患者である少年も部屋を移ることになったが、部屋を移動してから暫くは昏々と眠り続けた。起きたとしても怪我の具合からベッドから動くことはできないだろうが、何も飲まず食わずの状態が続いた為、レーヴェが心配そうに何度も様子を見に来ては『彼』へと問いかけるという行動を繰り返していた。
「起きないねぇ、ハカセ」
「まぁ、部屋一つが埋まっちまうほどの記憶を吐き出したからな」
この日の『彼』は女性の体を借りている。
女性の右瞼には傷痕がある為、髪を伸ばして隠しているのだが、『彼』は気にせず顔にかかる栗色の長い髪を掻き上げてしまう。そして、息を吐いた。
あの部屋を埋めたエテルニア結晶は、少年の負の記憶から形成されている。あの量と、少年の年齢を考えるならば、少年が生きてきた殆どの記憶がエテルニアへと返還されてしまったと考えられる……と、『彼』はレーヴェに言う。
「自己防衛の一環として寝てるんだろ。そのうち空腹で嫌でも起きるはずだ」
「ほんとう? もう丸二日目だよ?」
「……起きるはずだ。たぶん」
「説得力がないよ、ハカセ」
明後日の方向へと目を逸らす『彼』に、レーヴェは呆れた声を上げた。
『彼』はふるりと首を振り、落ちてきて顔にかかる髪を再び掻き上げる。
「どのみち、もう暫く様子を見たら叩き起こすつもりだ。だから心配すんな。そら、レーヴェはさっさと昼飯食べてこい。育ち盛りだろ」
「えー、お兄ちゃんといっしょに食べようと思ったのにぃ」
レーヴェはふて腐れながらも、言うとおりに部屋を後にした。腹の音が聞こえていたのでしっかり空腹ではあったのだろう。少年と一緒に食べたかった、と言うのはおそらく年齢が近い為に親近感を抱いている為か。集落内で一番の年下であり同年代がいないレーヴェにとっては、目覚めた少年と早く仲良くなりたいところなのだろう。
『彼』はレーヴェの後ろ姿を見送った後、椅子をベッド横に置いて腰掛け、ベッド上を一瞥した。
「起きてんだろ。こっち見ろよ」
少年の瞼がふるりと揺れ、ゆっくりと開かれる。
相変わらずの、年齢にそぐわない虚空を見ているかのような瞳だ。ただ、今はそんな瞳にも困惑が浮かんでいる。寝ているフリをしていたことを咎められると思っているのか、少年はおずおずと『彼』へと目を向けた。
「体はまだ痛いだろうが、気分はどうだ。少しはマシになったか?」
「……」
逡巡の後、少年は声には出さずに小さく頷く。
『彼』は女性の体で腕を組む。
「まぁ……意図的ではなかったとはいえ負の記憶を吐き出せた結果として、思考力が戻ってきたのは不幸中の幸いってところか。自分以外のことに気をやれるだけの心の余裕ができた、ってことだしな……体、起こせそうか?」
今の少年の体は全身打撲状態のままではあるが、二日前と比べると多少は動けるようになっているようだ。『彼』の呼びかけに応えるようになんとか腕を動かす少年を手伝ってやりつつ、用意していたクッションを背に宛がってやれば、少年は僅かに安心したのか息を吐き出した。
その間、『彼』は少年の目を見ていた。
少年の過去は、先日の記憶巡りである程度は把握している。その際に得た知識から推測し、確かめるように少年の目を覗き込んだ。
「お前、それは生まれつきか」
それに対して少年は、視線を逸らした。おそらく、身についてしまった癖、だろう。
『彼』はさらに問いかける。
「その目だ。なんだお前、自覚が無いのか」
逸らされていた視線が、戸惑いがちに戻ってくる。
それでも絶妙に視線を合わせようとはしなかった。僅かに俯きながら、小さく首を傾げている。
「……お前が理由あって無口なのは知っているがな。声が出ないわけではないだろうが。それともなんだ、『俺』がお前の発声練習に付き合えばいいのか」
少々呆れながらに言ってやれば、少年は今思い出したとばかりに口を開けた。
が、出てきたのは声ではなく、咳だった。久しく声を出していなかったせいだろう、呼吸を間違えたようだ。
やれやれと息を吐く。
そして『彼』は言う。
「その目の使い方を、教えてやろうか」
×××
少年の問題点は、その目にあった。
無論、生い立ちや経緯も問題ではあったが、それ以前に目のせいでこの少年は不幸な人生を歩んできたのだと『彼』は断言する。
生気のない、光も見えないほどの、深く暗い、紅の瞳。
この目には魔が宿っている、と。
「簡単に言えば、こいつの目は見るだけで相手を催眠状態にする力がある。ただし相手を自由自在に操るだとか、そんな夢のような能力ではない。目を通して相手の深層心理を刺激し、強制的に感情を引き出すことで、相手に衝動的な行動を起こさせる……まぁつまり、メリットよりもデメリットの方が強い能力ってことだな。催眠した相手がろくでもない人間だった場合、内に秘めた暴力願望を刺激しちまうわけだから、目を合わせただけでいきなり殴られるっていう構図が発生しちまうわけだ」
そう言いながら、『彼』は適当な布を用意してきては細く裂き、少年の頭にぐるぐると巻く。その巻き方が些か乱暴であった為、ちょうど様子を見に来ていたオイレ老人が横から止めに入った。
「こらこら、ハカセや。相変わらず不器用だのぅ、儂がやるから貸してみなさい」
『彼』が女性の顔でふて腐れている傍らで、オイレ老人は丁寧に布を巻いていく。
その間、少年は目を閉じていた。布を巻き終えた老人から良いと言われるまでじっとしていた少年は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
頭に巻かれた布によって、少年の片目は塞がれていた。その片目に布越しに触れ、少年は小さく首を傾げる。
「……?」
「とりあえずは片目から、な。両目の時よりは能力も押さえられる。まずはそれで慣れていくことにしよう。そら、試しに爺さんを見てみな」
『彼』に言われ、少年の肩がびくりと跳ねる。小さく首を横に振るが、痛みでうまく動かない体では覗き込んでくる老人の目を避けきることはできなかったようだ。
一瞬だけ視線が合わされ、咄嗟に少年は目を瞑る。そして老人の「ふーむ」という声に、怖々と瞼を開けた。
「どうだ、爺さん」
「ふむふむ……猛烈にこやつの頭を撫で繰り回したくなったのだが、それかのぅ?」
「あー、まぁ、子供好きの爺さんならそんなもんか。ふぅん……お互いが事前に知っているとより効果は落ちるか。ってことは……」
女性の体で『彼』は腕を組み、何かを思案する。
その間にオイレ老人は笑顔で少年の頭を撫で繰り回した。戸惑いと困惑でされるがまま髪をぐしゃぐしゃにされる少年を眺めながら、『彼』は口を開く。
「……そうだな。とりあえず集落の奴らには簡単に説明ぐらいはしておくか。下手に事故になるよりはマシだろ。それからお前は、まずは自分の能力について自覚することからだな。今まで無意識だったみてぇだし」
そう今後の方針を軽く説明したところで、少年がおずおずと『彼』を見る。言いたいことがあるのか、小さく口を開け、けれど少し躊躇い、片目の視線を彷徨わせながらなんとか声を出す。
「……ぁ、の……声……」
酷く掠れた声だった。今にも消え入りそうなその言葉に、意味をくみ取った『彼』が応える。
「この集落にはお前を縛り付ける者はいない。喋りたければ喋れ。主張できることは主張しろ。むしろ、お前から喋ってくれないと困る奴らの方がここには多い。声を出しただけで殴るような馬鹿はこの集落にはいないから、そこは安心して良い」
そう言ってやれば、少年は数秒かけて言葉を飲み込み、息を吐き、強ばっていた体から力を抜いた。
そんな少年の様子に、怪訝な顔をしたのはオイレ老人であった。老人は『彼』へと問いかける。
「どういうことかな、ハカセや。この子は声を出せなかった、ということか?」
「そう厳しく命令されてた、ってことだよ。こいつを買い取る予定だったクソ貴族にな。目を合わせるどころか、声を出しただけで暴力に走るとか、マジでろくな男じゃなさそうだったが……」
答えながら、『彼』は僅かに思考する。
少年の記憶巡りをした際に、少年を買い取る予定だった男の顔はしっかりと確認していた。貴族らしい風貌のあの男は、どうやらここからだいぶ離れているグローリア国の人間であるようだったが――
(あの奴隷市からグローリアへ、か……なのに馬車はこっちに落ちた。方向はまったくの逆方向。それに、あの男、どうにも『同胞たち』の気配がした……こりゃ、近々またアイツのところに話を聞きに行く必要がありそうだな)
女性の体で腕を組みながら考え、道中の道のりを思い浮かべてげんなりとする。
そんな『彼』の思考を止めたのは、ふいに響いた扉のノック音だった。
「ハカセ、お昼ごはん食べたよ。ハカセも早くって、おばちゃんが……」
言いながら扉を開けたのはレーヴェだった。レーヴェは部屋の中を見渡し、ベッド上の少年が体を起こしていることに気が付くと、途端に目を輝かせた。
「あっ、お兄ちゃん起きたんだ! 良かった、だいじょうぶ? お腹すいてない? ごはん持ってこようか?」
興奮気味のレーヴェに矢継ぎ早に質問され、少年はたじろいでしまう。オイレ老人が「これ、患者に無理をさせるでないぞ」とレーヴェを押さえようとしたが、それにはお構いなしにレーヴェは首を傾げた。
「あれ? そういえば、お兄ちゃんの名前は? ボク、まだお兄ちゃんの名前を聞いてないよ?」
レーヴェの純粋な瞳が、ベッド上の少年へと向けられる。
体の小さなレーヴェだと必然的に少年の顔を覗き込む形になるため、下手に俯くこともできずに少年はおろおろと視線を彷徨わせる。つい先程自身の目について説明を受けたばかりではあるが、どうやら自身の異常さは自覚できたようだ。
戸惑いながら、少年はなんとか口を開く。
「……なまえ……?」
「うん。あ、ボクの名前はね、レーヴェ・レントゥスだよ。レーヴェでいいよ!」
にっこりと満面の笑みで自己紹介するレーヴェに、少年は更に戸惑って口を閉ざす。
少年が答えられない理由を、少年の記憶巡りをした『彼』は知っている。レーヴェの首根っこを掴んでベッドから引き離してやりながら、『彼』はやれやれと少年の代わりに答えてやる。
「レーヴェ、こいつはまだ重傷人だ。無茶させるな。それと、こいつは名前がないから、その質問には答えられないぞ」
「あわっわ……え? 名前がないの? なんで?」
急に後ろへ引かれたことで手をばたつかせつつ、レーヴェは女性の顔をしている『彼』を見上げる。
当の少年は困惑したまま体を縮こませている。その様子から少年本人から説明させるのは無理そうだ。『彼』は大きく息を吐く。
「そいつには、生まれた時から名前がないんだよ。名付ける奴がいなかったからな」
そう、少年には名前がない。
父親は誰かわからず、産んだ母親でさえ、望んだ出産ではなかったようで早々に我が子を手放し、あとは勝手に生きろと見せ物小屋へ放り込んだ。さらには引き取った側もまともに育てるつもりはまったく無く、まるで物のように扱い、少年に人としての名を付けることすらしなかった。
その結果が、思考放棄であり、生気のない瞳であり、そして、起きてから今の瞬間まで誰であっても怯えて身を震わせるしかできない少年の有様に繋がっているわけである。
(さらには名前が無いもんだから、こいつの目の能力が悪化したとも考えられる。自己が確立できない分、無意識ではあるが余計に他人を刺激しているわけだし……けどなぁ)
女性の顔で眉間に皺を寄せていればレーヴェが『彼』と少年を交互に見渡し、案の定、想定していた提案を口にする。
「じゃぁ、ハカセがお兄ちゃんの名前をつけたらいいじゃん!」
「駄目だ」
「えーっ? なんで?」
「こいつ、今はほぼ記憶喪失みたいな状態だからな。名付けるにしても、あの部屋を埋め尽くしてるエテルニアをどうにかしてからじゃねぇと無理だ」
「えぇー……んと、じゃぁボク、お兄ちゃんって呼ぶことにするね。ねぇねぇ、お腹すいてない? ご飯もってこようか?」
不満そうながらもすぐさま順応したレーヴェがにこにこと笑顔を向ける。少年は相変わらず戸惑った顔のまま「あ、う」と口をパクパクさせたが、なんとかこくりと頷いた。
自身の問いかけに返事をしてくれたことに目を輝かせ、レーヴェは食事を取りにぱたぱたと部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、それまで黙っていたオイレ老人が笑う。
「ほほ、元気がよくて可愛らしいのぅ」
「いや、レーヴェもこいつの目の影響受けてんじゃねぇか? いつにも増して世話焼きすぎるだろ」
オイレ老人とは対照的に、『彼』は呆れながら小さな背中を見送り、そして少年へと向き直った。
「レーヴェにはああ説明したが、まぁつまりそういうことだ。お前、今はぼんやりしていて自覚ないだろうが、ほとんど記憶がないはずだ。そんな状態で下手に名で縛ると、碌な事にならない。あと、そもそも『俺』は名付けのセンスが壊滅的に無い」
「そういうことは自分で言うものではないぞ、ハカセや……」
今度は老人の方が呆れた声を上げる。が、それには構わず、『彼』は言葉を続けた。
「とにかく、だ。お前は暫く安静にするのと、その目の練習に集中しろ。練習については口で説明するより感覚で覚えた方が早いから、『俺』が付き合ってやる。わかったか?」
念を押すように『彼』が問いかける。
少年はほんの少し困ったように視線を彷徨わせたが、小さく頷いた。
×××
それから更に数日が経った。少年の治療は順調であり、一人で体を起こし立って歩けるほどにまでなった。どうやら充分な休息と食事さえあれば回復は早い体質のようだ。無論、若さもあるだろうが。
とはいえ、それは身体の怪我に限定した話である。少年の精神的な回復については非常にゆっくりであり、長期間を掛けて癒やしていく必要がありそうだった。現に、少年よりも年下であるはずのレーヴェにすら、少年は顔色を青くさせながら耳を塞ぎ首を横に振っている状態であり。
「……いや、何やってんだレーヴェ」
「あ、ハカセ」
この日は青年の体を借りている『彼』を視認し、レーヴェは助かったと言わんばかりにホッと息を吐いた。
よく見れば、レーヴェの手には小さな鋏が握られている。耳を塞ぎながら震えている少年と、何が原因なのかわからず困り果ててしまっているレーヴェを見やり、『彼』は心当たりを口にする。
「そいつの髪を切ろうとしてたなら、やめてやれよ。そいつ、昔に髪を切ると言われながら耳やら首やらを切り落とされそうになったトラウマがあるからな」
「そうなのっ? わっ! ごめん、そりゃ怖いよね!」
レーヴェはぎょっとした顔をし、その勢いのままに鋏を放り投げた。『彼』は物を投げるなと注意しつつその鋏を拾い上げ、少年の目につかない棚の上に置いてやる。
そして少年を見やった。
「お前なぁ、主張できることは主張しろって言っただろうが。言わないと困る奴の方が多いと最初に忠告しただろ? それにレーヴェ、お前も患者がいる部屋に刃物類を持ってくるな。お前に悪気はなくても、何かの拍子に怪我でもしたら療養している意味がなくなる」
「うぅ、ごめんなさい……お兄ちゃんもごめんね……」
しゅんとして落ち込むレーヴェに、耳から手を離した少年がふるふると首を横に振る。レーヴェに悪気がなかったのは少年もわかっているのだろう。が、言葉がすぐに出てこないのか「あ、う」と口を開け閉めしている。
少年の言葉についても近々リハビリをしてやらなければならないだろう。人と話すという行為を禁じられたトラウマを癒やすのは、これまた時間が掛かりそうだが。
そう、少年に関しては、まだまだやる事が多い。肉体的な治療はこのまま経過を見るにしても、精神的なトラウマのリハビリに、部屋一つを埋めたままのエテルニアの処理。
そして、少年がなぜこの集落に引き寄せられたのか、という疑問の真相解明も必要だった。
『彼』は一息吐いた後、少年の目を覗き込んだ。
「お前がもう少し動けるようになったら、お前の体を借りてゼーレに行こうと思う。一応、そのつもりでいてくれよ」
少年は小さく「え……」と声を出す。
代わりに反応したのはレーヴェだった。
「えっ、ゼーレ国に行くの? ねぇボクは? 次はボクも連れてってくれるって、前に約束したじゃんか!」
「レーヴェはもう少し体がでかくならないと地下洞を通るのに苦労しそうだから、まだ暫くは駄目だ。それに、父親探しは時間がとれそうにない。今回は交渉するのが目的だからな」
「交渉って……誰に会いに行くの?」
がっかりと肩を落としながら、レーヴェは尋ねる。
『彼』は何食わぬ様子で、あっさりと返答した。
「十二代目のゼーレ王に、だよ」
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