第9話 徘徊する亡霊
「嗚呼……忌まわしい……憎い……あの男……」
虚ろな眼差しに薄い笑みを浮かべる女は、ぶつぶつと独り言を繰り返す。
異様なその姿を前に、私は戸惑いを隠せなかった。
「なんですか、あれ」
私が絞り出すように言うと、それまで言葉を失っていたアリシアが、ぽつりと呟いた。
「あの魔力、魔女だわ」
「魔女? どう見ても幽霊にしか見えないのですが」
「魔女であり霊でもあるのよ。……おおかた、この書物に封じられた後、命を落としたんでしょうね。そうして冥界にも行けないまま、書物に宿る亡霊となった……」
私はアリシアの言葉の聞き流しながら、頭を垂れるその亡霊……魔女だったものを見つめた。ひざ丈まで伸びた黒髪に真っ白のローブを纏った、奇っ怪な出で立ち。
彼女は私たちに気付く素振りもなく、扉をすり抜ける形で部屋から出て行ってしまう。
「……あの、アリシア、どうすればいいんですかね」
「別に、放っておけばいいんじゃない。害をなす存在ってわけでもなさそうだし、そのうち消えるでしょ」
「ですが……」
私は、今しがた亡霊のすり抜けていった扉を見る。
モフモとは違って、あれはどこか……危うい空気を纏っているように見えてならない。
放っておいたら大事になりかねないような、そんな気がした。
「……本当に、このままにして大丈夫ですかね」
不安になりながらも、私は散らばった本を拾っていく。
――その、およそ半日後のことだ。私の予感は見事的中することとなった。
かつて魔女だったとされる亡霊は、ただの霊でも魔女でもなかったのだ。
「引き裂いて……ずたずたに……ただでは死なせてなるものか……」
迷路のような庭園をぐるぐると徘徊する女。
私はその姿を魔術部屋の窓から眺め、熱心に本を読み込んでいるアリシアに向く。
「アリシア、やっぱりあの人、危険な感じがします。このまま自由にさせておくのは……」
「……そうね、ちょっとまずいかも。早急に追い払うべきでしょうね」
アリシアは壺を傾けて、やや強張った声で言う。
私もアリシアも、あの霊の異様な力に気付き始めていた。
魔力、と呼ぶにはあまりに禍々しい力。呪いの類に限りなく近い。
「ですが問題は、どう追い払えばいいかということですね」
「ええ、少なくとも魔術書に封じ直すことはできないわ」
「……アリシアの力が足りないからですか」
「それもあるけど、封印の呪文が分からないっていうのが理由」
「解くことはできても封じることはできないってことですか。……困りましたね」
私は言いながら、掃除に使っていたモップを両手で握りしめた。
どうやら、アリシアに任せきりとはいかないらしい。いよいよ私が体を張らなければ。
「嗚呼、嗚呼……嗚呼」
嘆くような声を上げ続ける女の亡霊。私は無駄だと分かっていながらも、武器は手放せなかった。
「魔女相手にモップでどう戦うのよ」
呆れきったアリシアの声が後方から聞こえてくる。私は黙ったまま、庭園を彷徨い続ける亡霊の前に立ち塞がる。
相手は霊だ。物理的な攻撃は恐らく効かない。ということは、やれることは限られる。
「ええっと……あの、すみません、あなたの名前をうかがってもよろしいでしょうか」
私はなるべく落ち着きはらった態度を装い、女に声をかける。それまで呪文のように呪いの言葉を唱えていた女が、わずかに顔を上げる。
「そういう、あなたは」
女は恐ろしいまでの無表情で、落ちくぼんだ底にある濁った目を私に向けた。
……どうやら言葉はぎりぎり通じるようだ。
「私はノイハ・レイハといいます。この庭園を再建するという役目を担っていて……」
「てい、えん。ここは、庭?」
「ええ、かつて魔界の王が住んでいたという邸宅と、庭園です」
「魔界の王……魔王?」
女の動きがぴたりと止まる。
私がさらに説明しようとしたところで、不意に女が死にかけていた目をかっと見開き、金切り声を上げた。
「あいつ……嗚呼、あいつのせいだ! 私をこんな目に遭わせた、死よりも惨い苦痛を私に与え続けた! どこにも帰る場所などない。私を永久的にここに繋ぎ留め続けて……」
女が頭をかき乱し、半狂乱になって叫ぶ。あまりの剣幕に、私はおろかアリシアさえも言葉を失う。
「許さない、あれの気配がまとわりついている……ここはどこ? 私は……私は、なんという名前だった? どこから来て、何をしていたの……」
激高したと思えば、女は急に哀しそうに顔を歪め、すすり泣く。情緒がかなり不安定だ。
「あ、あの……私たちに、話してくれませんか。ここで何があったのか。……少なくとも私たちは、あなたの敵ではありません。それに私たち以外に、ここには誰もいませんよ。だから……」
相手を刺激しないように、私はそれまで握りしめていたモップを手放した。害はないというように両の手のひらを店ながら、女……いや、女性に歩み寄る。
女性は、どこか怯えたように縮こまりながら、上目遣いに私を見た。
「……本当に?」
「ええ、話せそうなところまででいいので、聞かせてください」
相手に目線を合わせ、私はなるべく柔らかな表情になるよう努力した。
女性は迷うような素振りを見せたが、どこか諦めたように、
「……嗚呼、そうね。ここにはもう、主がいないもの。……魔王が遺した呪い、私はあれに縛られ続けている」
「呪い……?」
「ええ……あの人は最初から最期まで、魔王だったわ。私の魂を体から切り離し、書物に封じ込めた。生きながらに物言わぬ傀儡にされた。……そこの喋る壺みたいに、物質に魂を宿す禁術よ」
彼女はそう告げ、アリシアに目を向ける。
その口元には薄気味悪い笑みが張り付いていた。
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