第5話 くすんだ庭園
白い太陽が燦々と光を発している。その下に佇むのは、かつての魔界の主が身を寄せていたという、朽ちかけの邸宅。
外から見上げたかの王の住まいは、内部の小綺麗さが嘘のように外壁に蔦が絡まり、黒い錆のような汚れが血痕みたくあちこちに染みついていた。
マニュアルを解読するから出て行けと、アリシアに部屋を追い出された私。しかし特にやることもないまま、自由時間を適当に探索に費やす。
「思ったよりも重傷……かな」
不穏な空気を纏う邸宅を仰ぎ見て、ぽそりと呟く。私は視線を下げ、邸宅に背を向けた。
目の前に広がる薔薇の園。かつては多分、美しい薔薇に彩られた庭園だったのだろう。今は見る影すらもないまでに朽ちて錆びていて、手入れをしてくれる人もいない。
私はふと、枯れた薔薇の表面を覆う黒い錆に触れてみた。錆というより、汚れに近いようだった。黒ずんだ粉が指につく。
冷えた風が、どこからか緩く吹き付けてくる。私は身震いした。
「静かだ」
呟いて、ゆらりと歩き出す。
それからしばしの間、私は適当に庭園を巡っていった。迷路のような薔薇園をうろうろと歩き回る。と、不意に邸宅の窓が勢いよく開け放たれた。
アリシアが壺を覗かせて、叫ぶように私を呼ぶ。
「ノイハ、ちょっとこっち来て!」
「なんですか!」
「説明は後、さっさと来なさい!」
大声に急かされて、私は小走りで邸宅に戻った。書物の部屋に立ち戻ればアリシアが高揚したような声で何かわめいている。
「何か進展があったのですか」
「ええ、ほら、これ見て」
アリシアはそう言うと、一冊の本を宙に浮かばせた。ひとりでにページがめくられていく。
「緊急時の対処法を見つけたの。封を解いた悪魔に異変があった場合、三百五十七ページ目」
「ええと、どれどれ……記憶に不具合が生じた場合には、外部、あるいは内部からの衝撃にて改善される可能性もややあり。もしくは時間の経過による記憶の自動修復を待つこと」
「だから、あなたの頭を殴れば、もしかしたら」
「可能性がややありじゃ、もはや運試しに近いですよ。それより時間が経つにつれて戻るほうが確実です」
「でも、何年かかるか分かったもんじゃないでしょう。その間に魔界がなくなっちゃうわ」
アリシアの言い分も分かる。だが物は試しとは言っても、衝撃を与えただけで簡単に記憶が戻るとは思えなかった。
「……とりあえず、今の私たちにできることを、段階を踏みつつ進めていきませんか。庭園を見ていったのですが、酷い有様でした」
私が挙手しつつ提言する。アリシアはううん、と悩むような素振りを見せ、
「そうねえ、まあ何もしないよりはマシか。魔術の訓練に、庭園の手入れ。あと問題なのは食糧の確保だわ」
「食べ物ですか、店が近くにあればいいのですが」
「ここにいるのは、現状あんたとあたしだけよ。それに、家畜も魚もここにはいない。……ところで、庭園の外は見た?」
「ええまあ、柵の向こうはちらっと見はしましたが……あの、庭園の外ってどうなっているんですか?」
私は、庭園を散策していた最中見た景色を思い出す。庭園を囲う柵の外、薄暗いだけの空間がとめどなく広がっていた。
アリシアはなんでもないような調子で答える。
「深淵とあたしたちは呼んでいるわ。極地に点在する虚の穴。あれに落ちたら最後、魂ごと持って行かれる。落ちたら戻れない落とし穴ってところかしら」
「戻れない、落とし穴……」
つまり庭園から外には出られそうにない。庭園と、その中の邸宅という土地が、魔界の最後の砦ということか。
「……私、庭園を整備しようと思うのですが」
「整備って、普通の庭掃除じゃないのよ」
「重々分かっています。……けど、このままにしておくのは可哀想です」
私はか細い声で言い、アリシアを残して魔術部屋を後にした。
庭掃除、と呼ぶにはあまりにも広大な薔薇庭園。私は邸宅横のオンボロ倉庫で、ホウキと草刈り鎌を持って庭園に向かった。邸宅を囲う広々とした庭園は、使用人が百人いても管理できるか怪しい広さだ
雑草らしき伸びきった草を刈っていき箒で掃く。日の光が照りつける中、私はひたすら腕を動かし続けた。
そうして、どれくらい時間が過ぎたのだろうか。黙々と草を刈っている最中だった。
「オウ、オウ」
どこから視線を感じる。それになにか、呟くような声も同時に聞こえてくる。私は凝り固まった肩を回しながら、辺りを見回した。
「……なんだろう」
アリシアによれば、この土地にいる生物は私たち二人だけ。
だが、確かに生き物らしき気配を感じる。
「オウス、スウ」
私が箒を右手に静止していると、黒い薔薇が首をもたげた茂みが、がさごそと音を立てる。反射的に私は箒を両手で持ち直し、身構えた。
「オオオオ」
茂みがさらに大きな音を立てる。そして次の瞬間、黒くて大きな毛玉のような物体が、茂みから飛び出した。
「うわっ、いたっ」
毛玉が、思いきり私に突進する。私はバランスを大きく崩し、後ろ向きに倒れこんだ。
「い、いったい何が……」
毛玉が、わたしの腹の上で丸っこい尻尾を振る。と、悲鳴を聞きつけてアリシアが駆けつけてきた。
「何があったの……って、あっ、その犬」
「犬? 毛玉じゃないんですか」
私は箒を手放し、腹の上の毛玉を抱き上げた。
どこからどう見ても、犬には見えなかった。目がどこにあるかも分からない、もこもこの異生物。
「多分魔犬でしょうね、とても賢いと魔物よ。……でも、なんでこんなところに」
「食糧が増えましたね」
「いいえ、魔犬は殺せないわ。うかつに手を出せば、あんたはおろか、あたしも返り討ちでしょうね」
「ええ……そんなに強いのですか……」
私はともかく、アリシアでも敵わないとは。私はじゃれついてくる毛玉を眺める。
……とりあえず、このまま放っておくのなんだ。新しい住民ということにしておくか。
私は毛玉を刺激しないよう、そっと距離を取った。
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