第43話 誘引




 王都クヴェレにあるヴィアベル宮殿は広大な敷地の中央部に玉座のある正殿がありそれを中心に両翼を広げた建物が広がっている。意匠を凝らした金と白の宮殿は剪定された草木に囲まれその壮麗さを際立たせられている。落陽間際の現在は全てが朱に染め上げられていて平素とは違う偉容さを主張している。鷲が羽を広げた右翼側が政務を司る空間、左翼側が居住空間として大凡分別される。居住空間は王や王に連なる者の居室が多く占めており、居室の広さはそれぞれの身分に応じて異なっている。庭に面していない景観が悪く外出に不便な階層が上の小さな部屋は使用人達に宛がわれている。

 聖女の部屋は貴族と使用人の中間地点に位置していた。王の居室の近くに用意された聖女の存在がいたことを考えればユーディットの処遇は芳しいものではない。功績のない聖女を優遇するわけにはいかず、かといって軽んじることも出来ずその政治的配慮が中途半端な部屋の場所になっていた。聖女の影であるテオフィルはユーディットの部屋の隣を用意され、もう一方の隣はフォルトゥナートの部屋である。

 荷物を片付けたテオフィルは部屋から出ると、同じように部屋から出てきたフォルトゥナートに気付く。テオフィルが気付いたと言うことは、鋭いフォルトゥナートが気付かないわけがなく、視線がついっとテオフィルに向けられる。遽色を浮かべたテオフィルに対してフォルトゥナートは何かを訴えかけるような真率な眼差しを向ける。向けられた視線の意味を完璧に把握しているわけでなくともテオフィルはフォルトゥナートの誘うようなそれには気付く。蛇に睨まれた蛙のように身を強ばらせた。棚上げされた愛の告白の続きを促されているのは明白でテオフィルは凋んでしまった自分の気勢に挫けてしまい、フォルトゥナートの部屋とは逆の方向に足の切っ先を向けた。フォルトゥナートのぎょっとした顔がテオフィルの目の端に過ぎったが、それは引き止めるには足らなかった。踏み出した一歩は緩やかなものだったが、二歩目にテオフィルは力を込めて駆けだした。一番近くの階段を駆け下りて、テオフィルは安全地帯が無いことにはたと気付く。この宮殿ではテオフィルはどこまで経っても余所者でプライベートが保たれる空間は存在しない。他者からの視線に悚懼しながら、気持ちを立て直せる場所を求めた。

 背後からの気配がないことに安慮してテオフィルは立ち止まり腰を曲げて膝に手を当てて乱れた息を整える。一過性の俊敏性はあれど、持続性がない自分の短所をテオフィルは否応無しに実感しながら今後の身の処し方を思案する。やったことはあからさまな敵前逃亡だ。悪手ばかりを打っているような気がするが、フォルトゥナートに対峙する為には心を真鏡のように澄んだ状態にしなければならないような気がしてテオフィルはどうしても二の足を踏んでしまう。負ける勝負だという陰気な気配が纏うからだろうか、凋んでいく覚悟の端で心は愛をそれでも訴えていた。

 階段を下りて、テオフィルは本殿に近い図書室のことが頭を過ぎる。あの場所ならば少し身を隠して心の安寧を取り戻す静寂さがあると気付く。王の所有物だが一般的なものは宮殿に関わりのある人間にも開架されている。人を値踏みするようなジトリとした暗い双眸を持つ司書のことが頭を過ぎるが背に腹はかえられないとテオフィルは足の爪先をそちらへと向けた。あと僅かで目的地に到達するとテオフィルが足に力を込めた刹那、曲がり角から気配もなくぬっと影が差し込み、

「うわぁっ」

 避けようとするテオフィルの判断は身体の末端には届かず蹈鞴を踏んだ。尻餅をつかなかったのは運が良かっただけだ。鼻頭が何かにぶつかりテオフィルは思わず手を伸ばすが、何と衝突したのか視線をそちらに向けた。

「ノルドっ」

「あれま、影ちゃん」

 驚いた様子で片眉を上げたノルドを見仰いでテオフィルは安堵の息を漏らした。罷り間違って貴族にでもぶつかったのならば大事になることはテオフィルとて理解していた。

「大丈夫? ごめんね」

「平気」

 顔を俯かせて表情を曇らせたテオフィルの様子にノルドは気付く。

「どしたの?」

「いやっ……別に」

 テオフィルの心を占めるのはフォルトゥナートにどう向き合うかとそればかりで、受け答えに戸惑ってしまう。そんなテオフィルに気付いているのか気付いていないのかノルドは周囲を見渡してヘラリと笑みを浮かべた。

「一人なの?」

「べっ、別にフォルトゥナートといつも一緒ってわけじゃないし」

 平素とは違うと指摘されている気分に陥ってテオフィルは荒い口吻で返答をするが次第に声は小さくなっていく。

「ふーん」

 迎合を打つとノルドは思案の素振りを見せた。

「ノルドこそ、なんでこんなとこ居るんだよ」

 テオフィルの疑問は尤もなものであった。警備隊の官舎は左翼の棟ではなく離れた外にある建物だ。宮殿を動かす人員が増えた為、棟の外に建物が幾つか林立しているが景観を維持する為、離れた場所にある。

「――ちょっとこっちに用事があってね」

「俺だってそうだよ」

 テオフィルの口から溜息が漏れる。

「………………」

 強い視線に気付きテオフィルがノルドへ目を向ければ熟視しているものだから居心地が悪い。

「影ちゃんさ、これから暇?」

「は?」

「暇ならさ、僕に付き合わない? 馴染みの店があるんだよね」

「はぁ? 別に良いよ、俺は」

 ノルドの言葉にテオフィルは頭を振る。思い返せば初めての誘いだということにテオフィルはこの時は気付かなかった。

「いやいや、なんかしょんぼりしているし、ここは気分転換に一発どう?」

 ノルドの腕がテオフィルに伸び、がしっと肩が組まれる。身長差がある為に不格好だが近付いたノルドの顔貌をテオフィルは見詰める。傍に居るクヴェンやエルラフリートが強烈だから影に隠れてしまっているが、目鼻立ちが整っていることをテオフィルは再認識する。溌剌とした生の瑞々しさや華やかさは欠けているが、広い額に鼻筋は整い、少し下がった目尻と白い歯は年相応の落ち着きを見せる。鍛えた体躯は厚みが有り、均整が取れている手足はテオフィルも憧れる程だ。十人中七人は男振りに一定の評価をするだろう。

「間に合ってるから」

「そう言わないで。僕が奢っちゃうから」

 ニヘラと笑ったノルドから気遣いを読み取ったテオフィルは断るのがほんの少しだが申し訳なくなってくる。

「何食べに行くんだよ」

 話を聞くだけでもと先程とは違う色の良い返事をしたテオフィルにノルドは目を丸くすると目を瞬かせ、含みのある笑みを口の端に浮かべ、

「綺麗なお姉さん」

「はぁっ!?」

「長期間の任務にはやっぱり癒やしが必要だよね。こう、疲れたって時にドロドロに甘やかされると最高だよね。やっぱ女の子の柔肌って良いよね。命の洗濯って言うか、頑張った甲斐があるなってしみじみ思うもん。あっ、大丈夫だよ。王都の有名なところだからプライバシーだってしっかり守ってくれるし、清潔だし、やんごとない方御用達って話もあるし質も良いよ。どういうタイプが影ちゃんの好み? 影ちゃんみたいに物馴れていない子の相手だって完璧に導いて天国に連れてってくれるよ。怖がらなくても大丈夫。最初は誰だって緊張するし戸惑うだろうけど、経験を重ねれば色んな楽しみ方あるし」

 川の流れのように一切の淀みなくつらつらと語るノルドにテオフィルは顔を紅潮させて頬を引き攣らせた。他人に秘しておくような性的嗜好を口に出されて、テオフィルは耳から毒を注がれたように身を震わせた。羞赧したテオフィルは口早に、

「っ、俺はいいよ。そういうの」

 気分を高揚させているノルドに水を差すのは申し訳ないがテオフィルは興味の無いことだった、と顔を背けてやんわり断りを入れる。一瞬、驚いて目を丸くしたノルドだったが驚慌を収束させるとにんまりと笑う。

「遠慮しなくて良いって。影ちゃんは可愛い系、美人系どっちが良い? 肉付きはやっぱり重要だよね」

「いや、本当大丈夫だから」

 このまま引き摺られそうな雰囲気にテオフィルは困却しながら、ノルドに視線を向ける。自分が善行していると疑わないその衒いの無い笑みにテオフィルは粘着質な何かに絡められた気分に陥る。

「いいから、いいから。僕を信じて。悪いようにしないから」

 悪人が言うであろう定番の台詞を漏らしたノルドに、テオフィルは頃来鳴りを潜めていた軽薄さを感じ取ってしまう。不遇の身と見定めたユーディットの清福を望んでいると真摯に告げた浄潔な性根からは掛け離れているように思えてテオフィルはノルドの実像が分からなくなってくる。

「僕のお薦め紹介しちゃうって――っいたぁっ!!」

 ノルドの悲鳴と同時にテオフィルの肩に回された重みが無くなり、後ろに引っ張られる。腕を掴まれて引き寄せられたとテオフィルが認識したのは視界が黒に覆われた時だった。

「フィルを変な遊びに誘うな」

 耳朶に触れた声にテオフィルは肩の力を抜いて見仰ぎ、息を吐き出して腰に回された力強い腕によって胸板に抱き寄せられていることに気付く。

「げっ、騎士様」

 ノルドの声色に怒りのような不愉快のようなそれが滲んだ。肩を掴まれたのかノルドはしきりに掌で撫でる。

「遊びに行くならば、勝手にしろ。フィルを巻き込むな」

「いやいや、男なら遊びの一つや二つやっとかないと駄目でしょ。後学の為にも行っといた方が良いって」

「フィル行くぞ」

 ノルドの言葉に返答せずフォルトゥナートは胸に抱き寄せていたテオフィルの手を掴んでその場を立ち去ってしまう。憎悪にも似た怒りを孕んだ鋭い流眄にノルドは寒心を抱いて首筋に手を当てて怖気を振り払おうとする。

「過保護にも程があるでしょ」

 見えなくなった背中に向けて恨み言のように独り言つとノルドは肩を落とし、

「先輩、見付けましたよ!! 報告書手伝って下さいよ」

 耳介が拾い上げた遠くの声にげんなりとした。

「見つかっちゃったか」




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