第42話 渦旋の木の葉



 王都クヴェレへと向かう馬車の中は平素とは違い奇妙な沈黙と間に合わせの迎合に占められていた。消沈しているテオフィルとフォルトゥナートの様子にユーディットはあり得ないものを見詰める目を向けるが、二人から反応はなく諦めたのか普段のように他愛ないことを口にした。慮って話題を振ってもにべもない様子に気が削がれたのかやがてユーディットは窓の外に視線を向けることが多くなった。いっそのこと馬車から降りて、騎乗している警備隊士に同乗するかと考えたユーディットを引き止めるかのようにテオフィルから縋るような眼差しが向けられる。嗟悼するようにユーディットは頭を振り王都までの時間を苦行として諦めた。

 太陽が南中を少し傾いた頃馬車は目的の場所へと到着した。

「……疲れたわ」

 馬車を降りて宮殿に与えられた自室へと向かうテオフィルとフォルトゥナートを見送ったユーディットも長い時間揺られていた身体を地面に降り立たせる。

「そんなに長時間だったか?」

 これよりも長い移動距離はあった筈だ、と不思議そうな顔をしたクヴェンにユーディットは顔を向ける。

「別に、そういう意味じゃないんだけど……」

 複雑そうな表情で言葉を濁したユーディットは話すべきことではないと判断して頭を振って笑みで誤魔化した。不快そうに眉根を寄せたクヴェンを無視してユーディットは広がる宮殿に目を遣った。王都に連れられてこられてからの拠点だが郷愁の念というのは薄い。心が安まる還るべき場所、とは思うにはあまりにも厳しい場所だ。隙を見せれば足元を掬われるのが自然摂理としている強者の道理が通る社会である。

「誘拐犯だが、司法長官に引き渡され裁判をすることになる」

 多くの犯罪者と同様の手順を踏むことにユーディットは安慮の表情を浮かべた。目算の甘いユーディットの臆見にクヴェンの眉根が寄る。聖女の要望があるから、建前として裁判を起こさないといけないというだけである。超法規的な措置を講じないのは外聞が悪いほかに理由は無い。

「弁護をする者も国から選ばれ、形式的に行うだけだ。恐らく密室で行われ、陪審員すら意図的に選出される。温情を期待するなら無駄だ。誘拐犯、しかも聖女をだ。主犯は極刑もあり得る」

 抗言しようとしたのかユーディットの口がもぞ、と動くが自分を省みたのかキュッと口は真一文字に結ばれる。

「罪にはそれ相応の罰が必要だ。それを凌駕させようとするのは聖女の領分ではない」

「――知っているわ」

 理屈として承知しているとユーディットは頷く。自分の無力さがもどかしくてユーディットは視線を石畳に彷徨わせる。

「上の人間が待ってる」

 テオフィルとフォルトゥナートを先に行かせた理由を思い出してユーディットは苦い顔をする。王都に戻ると同時に聖哲局から聖女への聴取は知らぬ間に決定していた。

「………………」

「何よ」

「いや、そんなに嫌か」

 クヴェンの尋ねにユーディットは不愉快そうに顔を顰める。自分を粗雑に扱う人間に敬意を払えというのは無理な話ではないだろうか。

「好感持つ要素がどこにあるの?」

 聖哲局に帰属している自分に随分と明け透けなことを告げる、とクヴェンは片眉を上げる。筒抜けになっても構わないというのか、それとも、報告しないと職務を軽んじられているのか判断が付かないがクヴェンにはどちらでも良かった。以前の密度のある壁のような頑なな態度よりは余程マシである。

「聖女様にも好き嫌いはあるか」

「未熟だって分かってるわよ。せめて、公にはしないわ」

 人間味のある対応に安慮したクヴェンの言葉にユーディットは見当違いの返答をする。

「案内する」

「あら、迷子になんてならないわよ?」

 歩き出したクヴェンから視線を外したユーディットは荷馬車から旅行鞄を運ぶ使用人の姿を捉える。宮殿は広いが、それなりに過ごしておりユーディットに案内は不要だった。

「いいから、付いてこい」

 クヴェンの後ろを歩いて付いていくユーディットは女官が顔面蒼白になって道を譲る様に何度も遭遇する。一般的に強面と評されるだろうが、そんなにも怯えられるほど凶漢ではないだろうと考えながらユーディットはクヴェンの背を追う。宮殿内の毛足の長い赤い絨毯に足が絡み取られそうになるが踵に力を込めて押し返す。窓枠一つですら黄金に煌めいていて、サイズの合わない靴を無理矢理履いているような違和感がユーディットに張り付く。横切ったホールにある精緻な装飾品は一目で贅沢品だと分かるもので、経済力で他を圧倒させる為のものだ。回廊の先を進むクヴェンにまた女官が一人小さな悲鳴を上げて頭を垂れて道を譲る。肩書きではなく当人の持つ要素で他人をひれ伏させるのは一種の才能だろう。道を譲る女官や使用人、役人が自分を窃視していることにユーディットは気が付く。憧憬めいたものから悚懼のようなものまで多様だが、それが以前よりも濃くなっていることは明らかであった。気重になりながらユーディットは視線を先に向けて、クヴェンが立ち止まっていることに気付き、周囲を見渡す。聖哲局が使う部屋に気付けば近付いていた。


 ――コンコン


 心の準備が出来るよりも先にクヴェンがドアをノックするものだからユーディットはギョッとして睨み付けるがクヴェンは涼しい顔を崩さない。部屋の中からの返事にクヴェンはドアを開けて中に入り視線でユーディットを促した。長息を吐き出してユーディットはドレスの裾を両手で掴んで静やかに足を踏み入れた。大きな長机に見知った顔が三つ。普段ならば、もう少し多い数の筈だったが都合が付かなかったのだろうかとユーディットは推察する。机を挟んだ対面に置かれている椅子が一脚空いており、ユーディットは椅子の近くに寄る。

「遠方よりの無事の帰還、誠に喜ばしい」

 ランプレヒトはそう言うと空いている目の前の椅子を指し示す。無事、と強調された言葉に何を言外に訴えたいのかユーディットは判断が付かず笑みを浮かべて椅子に腰を下ろした。途端、右目の端に何かが過ぎり、ユーディットは思わずそちらを向いてしまう。

「ロシュト君、君はもう下がってくれて良いんだよ」

 ユーディットの傍らに立ったクヴェンにランプレヒトは穏やかな口調でそう語る。

「報告書を取り纏めた者としてこの場に立ち会う必要があると判断します」

「ロシュト、出過ぎた発言だ」

 ランプレヒトの左に座るプロールが部下であるクヴェンを叱責する。上官からの言葉だというのにクヴェンは引き下がらない。

「……そうか。まぁ、いいでしょう。報告内容が正しいのか確認をさせてもらいます。まず――」

「ランプレヒト殿、こちらから良いだろうか」

 プロールの視線がクヴェンからユーディットに向けられる。

「ノルド・シュトラウスが切り落とした犯人の腕を聖女が繋げたというのは本当か?」

 硬質な声がユーディットの身体を貫く。ユーディットが咎められてる気分に陥るのはプロールの表情が強ばっているからだろう。

「それは――」

「報告の通りです」

 どう言葉を尽くせば良いのか逡巡したユーディットより先にクヴェンが返答する。

「聖女に聞いている」

 クヴェンの存在を無力化させようとプロールはクヴェンを一睨みして、ユーディットに視線を戻した。

「……確かに切り落とされた腕は繋げました」

「っ、そんな、あり得ないことを――」

 ユーディットの言葉にプロールは容に遽色を浮かべる。

「大仰に修飾したわけではなく、か?」

 嘘だろう、と暗に告げるプロールにユーディットは事実を伝えているだけなのに、と遣る瀬無さを感じる。

「傷口を塞いだ、とか。いや、それも異常には違いないが――」

 ユーディットの為した事を過小評価しようとするプロールは誰かに語るでもなくブツブツと独り言つ。

「多くの警備隊士、それに、一般人と多くの目撃者がいます」

「知っている。だからこそ噂が広まっている。聖女が奇蹟を起こした、と」

 クヴェンの言葉にプロールは扼腕していた腕を解き、苦々しい顔で吐き捨てるように告げた。

「本当にそうだろうが、どちらでも良いではないですか。聖女の奇蹟に民衆は喜んでいます。聖女は本物だと。いやはや、五年ですよ、五年。聖女はまともに機能していなかった。それが奇蹟を起こした。これは目出度い。惜しむらくは犯罪者に施したことですかな」

 ランプレヒトの右隣に座っていたハーネイがプロールの言葉を一笑に付す。拘泥していることが軽んじられたプロールはハーネイに鋭い眼差しを向ける。瞋怒を取り合わないでハーネイは涼しい顔で笑った。

「どう在るか、ではなくどう見えるかが大事なのですよ。こういうものは」

 論駁することに意義を見出せなかったのかプロールは言葉を飲み込むとハーネイの方へ乗り出していた身体を引き戻して咳払いを一つして、顔をユーディットへと向ける。

「それは聖女の意思で発現したものなのか」

「私の自由意志で起きたことではありません。光が見えて、導かれるように繋げただけです」

「聖女の制御下にないのか」

 落胆の色を滲ませたプロールの声にユーディットは口角が下がってしまいそうになる。頬に力を込めてどうにか笑みを象る。

「奇蹟を起こせる可能性があるだけでも十分、聖女のアピールポイントになりますでしょう」

 プロールの凋喪の理由が判別付かないのかハーネイは有用であることを訴えるがプロールは呆れたような眼差しを向けて頭を振った。

「分かっていない。制御の出来ない強大な力など、平穏を脅かす危険因子に他ならない」

「大袈裟な。プロール殿の杞憂では?」

「最悪を想定して行動しないなど愚者のすることだ」

 自分を挟んでのプロールとハーネイの口論に慣れているのかランプレヒトは容に浮かべた笑みを崩さずユーディットを熟視している。

「お二方、そろそろ宜しいですか? 話が逸れてしまっています」

 ユーディットから視線を外さずランプレヒトはプロールとハーネイを抑えると笑みを深める。その様子にユーディットは駭慄する。人好きのする笑みを浮かべて友好的に見えるランプレヒトのことをユーディットは一番苦手としている。彼の発言で精神的に追い詰められることが多いと経験則で知っている。理論的で、言葉を交わすと言うよりは一方的に詰責するに近い口吻はユーディットからすれば互いの主張を折衝するものではなく説伏するものだ。

「さて、肝心な話です。私の耳にある報告が届いています。普段よりも参加の人数を絞ったのもそれが理由です」

 含みのある口吻にユーディットの心臓がドクリと脈打った。

「聖女が襲われた、という話は本当ですか?」

 表情が凍り付いたユーディットは隣に立つクヴェンが色然としたことに気付かず膝に揃えた手を硬く結んで震わせている。プロールとハーネイから冷ややかな眼差しを向けられてユーディットは耐えきれず顔を俯かせる。

「純潔を失ったと? 由々しき問題ですよ」

 詆誚に近い言葉を浴びせられてユーディットは唇を震わす。自分の意見を言わなければ、という意志とはぐれて身体がユーディットの制御下から離れる。

「――これが、聖女とは穢らわしい」

 プロールの謗言にユーディットは一層身を縮こまらせる。

「聖女は処女と相場が決まっているのに民衆に知られでもしたら評価は暴落するでしょう」

「ちっ、違います。襲われはしましたが、身体を許していません」

 六つの目が猜疑に彩られてユーディットは腹を固めて唇に力を込め顔を上げる。

「私は処女ですっ!!」

 なんでこっぱずかしいことを宣言しなければならないのかと脳内の片隅で考えながらユーディットは大声で訴えた。

「………………」

 ユーディットの視線とかち合ったランプレヒトが淡く笑う。

「ええ。確かに膜は破られていないと診察したニールマンに確認済みです」

 ランプレヒトの言葉に安堵したのかハーネイはホッと息を吐くが、プロールは渋面を崩さない。

「何か訂正しておくことはありますか?」

 ランプレヒトから水を向けられるがユーディットは頭を振るだけだ。ランプレヒトの視線がユーディットから傍らに立つクヴェンに注がれる。意図が無ければ視線が交わらない相手のそれにクヴェンは眉根を寄せるがランプレヒトは言葉を発そうとはしない。

「聖女として支障がないのならば良いのでは?」

 沈黙に耐えきれず言葉を漏らしたハーネイにランプレヒトは顔を向けると小さく頷いた。

「先程、光が見えて導かれて接合したと言いましたね」

 ランプレヒトの双眸が再度ユーディットを捉える。絡みつくような粘度の高いそれにユーディットは身動ぐと視線をソッと外してしまう。

「つまり、貴方には選ばないという選択肢もあったわけだ」

「何を仰りたいのか分からないのですが……」

 怯臆を隠してユーディットは言葉を返す。ランプレヒトの口がニコリと綺麗な弧を描いた。


「何、生かすことが出来るというのならば、殺すことも出来るだろうという可能性の話ですよ」


 脳内から意識的に排除してきた可能性を眼前に引き摺り出されたユーディットは小さな悲鳴を喉から零した。

「祈りが凶器になるとでも言うのですか?」

 驚きで声を上げたのはハーネイで、対照的にプロールは想定していたのか硬い表情のままだ。

「力というのは扱う人間の志念によって善にも悪にもなるものでしょう。聖女の胸三寸で生死が決まるのかもしれませんよ」

 ランプレヒトの言葉にハーネイは顔面を蒼白させるとユーディットに怯えた目を向ける。これまでユーディットに対して非礼を働いた自覚がハーネイの心には確かにあった。

「私は、聖女としては未熟ですがっ、命には貴賤はなく救える命は救いたいと思っています」

 好悪で人を生かしも殺しもするとランプレヒトに言われた気分に陥ったユーディットは自分は公平な人間であると訴えたくて前のめりになりながら言葉を絞り出した。

「その志は素晴らしい。まさに聖女だ。貴方を貶めた者にも慈悲を与えたぐらいだ」

「彼は――」

「顔見知りだった、のでしょう?」

 マティアスを指し示したと察したユーディットが説明をしようとするがそれを遮るようにランプレヒトが告げる。遽色を浮かべたユーディットにランプレヒトは笑みを深めた。

「それは貴方の起こした奇蹟に影響があったのでしょうか?」

「どのような悪人であったとしても、私は同じことをすると思います」

 腕を切られたのがマティアスではなく、ヴェンデルだったと仮定してもユーディットの考えは揺らがない。

「そうですか」

 恬として答えたランプレヒトにユーディットは小さく息を漏らす。追及の手が緩んだことに安慮するが直ぐに気持ちを持ち直して対峙する。

「ですが、いつかどちらかを選ぶ日が来るかもしれません」

 ランプレヒトが言いたいことは何だろうか、と思案するがユーディットには思い至らない。警告なのか忠告なのかそれすらもあやふやでユーディットは猜疑の眼差しを向けるが、返されるのは穏やかな笑みだ。

「選ぶのならば、大勢が納得するもの。それが当然の論理です。少数は捨て置くべきです」

 助言なのかハーネイは得たり顔でユーディットに話しかける。胸に生じた反発心のようなものの存在を自覚しながらユーディットは殊勝な顔をして聞き入るふりをする。

「一過性のパフォーマンスなど意味がない。国の為になるもの、それが道理だ。どんな綺麗事を言おうとも命に貴賤はあり、存在価値があるものが優先される。国王の命と平民の命ならば比ぶべくもない」

 ハーネイの言葉に対抗したのかプロールも持論を展開する。強ばった表情でユーディットは傾聴した。

「まさか、咎人に特別な感情を抱いているわけではないですよね? いけませんよ、それは。聖女とは釣り合いが取れていない。なまじ結婚するのならば聖女ならば白の結婚と相場が決まっている。相応しい相手を選出する必要があります」

 ハーネイは顔をパッとあげると眉根を寄せて距絶の振る舞いをする。

「聖女が結婚? あり得ない話をしないでいただきたい」

 ハーネイの言葉を否定するようにプロールは頭を振るが、ハーネイは憐れむような笑みを口元に宿す。

「おや、プロール殿はご存じない。公にはなっていませんが先例は確かにあるのですよ」

「だとしても、此度のこととは無関係だろう」

 問題を切り離そうとするプロールの容には軽蔑が滲んでいる。人間が持つ当然の営みとしての情動が聖女には不要なものだとばかりだと言外に言っている。

「どうでしょうね」

 先程見せた怖気を潜めて、ちらりとハーネイの蛇のようなジトリとした視線がユーディットを撫でた。粘着気質のそれは静かに絡め取るものでユーディットは寒心に堪えない。何かを誘うように、そして咎めるような好奇を孕んだ眼差しを振り払うようにユーディットは頭を振って憂慮を振り払う。

「お二方共、それは今の問題ではありません。聖女の行動の問題は聖女騎士はおろか警備隊を連れず単独の行動をしたこと、突き詰めればその一点です。祭りの競技会に騎士の参加を独断で許可したことは民衆の切望を考えれば致し方がないでしょう。そう、するのが自然の流れであり聖女の振るまいとしては合理的です。体調不良で顕彰を欠席し、影法師を代役としたのもこれは妥当でしょう。問題は嘗ての知り合いを目撃し単独で探そうとする浅慮です。必要があるのならば警備隊士に命令し、連行させれば事足りる。それで済むだけのことだった筈です。最善の手を打たずして、独力でやろうとしたことで却って周囲に迷惑を及ぼす愚行。聖女の行作からは逸脱しています。誘拐されたこと自体の迂闊さは悔やまれるがそれ以降の行動は最低限の節度と慎みを保ってはいるので問題はやはり、単独行動になるかと思います」

「人の使い方を覚えるべきですな」

「抑も、知人に会遇したからどうだというんだ。それは聖女には必要の無いことだろう。聖女は公の人物であり、個人的な願望など持つべきではない」

 ユーディットの軽挙を糾弾するプロールの声は厳しい。

「プロール殿、締め付けてばかりでは何れ暴発してしまいます。聖女には代わりは居ないのです。大事に、扱わなければなりません」

「何を生温いことを言っている。まるで、聖女が人間のように言っているが、聖女とは国に殉じる高潔な聖者だ。そこらに居る人間と同一視する必要はない。単独行動をしたことが誤りなのではなく、望みを持ったことが過ちだ。聖女としての自覚が不足している。それが今回の事件を引き起こしたと言っても過言ではない」

「そんな聖女に出し抜かれた警備隊の落ち度には触れないのですか?」

 挑発するようなハーネイの言葉にプロールは蟀谷をピクリと動かして睚眥した。

「いえ、ねぇ、あれ程までに警備は万全だと言いながら防げなかったのは問題があると思いますよ、私は。勿論、聖女に問題があり、女手がなく隙が生まれることも承知してますよ。ただ、ねぇ、あれだけの人数で誰一人気付かなかったというのは怠慢と叱責されても反論は出来ないのではないですかね」

 プロールの口元が引き攣り肩が震える。ハーネイを見詰める眼差しには憎悪と嫌忌が滲んでおり、火箭のように剣呑だった。

「――聖女に勝手な行動を許した責任は我々警備隊にあります。どのような罰も受ける所存です」

 クヴェンの言葉にユーディット以外の三人の視線が一斉に動く。

「……責任の所在は重要ですがね、処分をするのは勝手が悪いでしょう。聖女の誘拐については詳細を伏せられている状況です。平仄を合わせなければならないでしょう? 聖女が犯人に慈悲を与え、切り落とした腕を繋げた。警備隊は無事に聖女を取り戻した。美しい物語が必要です」

 クヴェンの言葉に難色を示したのは警備隊の不手際を責めていたハーネイだった。感情を優先せず、合理的な判断に傾いたのか先程の演技がかった口調とは違い平坦であった。

「ハーネイ殿、そちらはお任せして宜しいですか?」

「ええ、万事心得ていますよ。惻隠の情を抱かせるに足る物語を組み立てましょう」

 ランプレヒトの言葉に頷いたハーネイはニタリと笑った。当人の与り知らぬところで事実が変質する恐ろしさにユーディットは不快感を抱くが抗議の声をあげる無意味さに歯噛みする。

「………………」

 不服を覆蔵したユーディットの視線がランプレヒトの視線と磁石のように絡み合う。視線を切ることはユーディットの気位がそれを許さない。

「――聖女を監視する目が少ないことも原因なのでしょうね。貴方には、抑止が必要だというのは理解しました。警備隊士の増員も検討が必要なのでしょう」

 台詞にそぐわない穏やかなランプレヒトの声にユーディットの容に一瞬、軽蔑の色がのる。即座にそれを掻き消したユーディットは淑やかな微笑みを返す。

「犯人一味の処遇は何れ裁判によって決定するでしょう。これは法に則って行われることであり、聖女が責を負うことではありません」

 言葉を途切りランプレヒトが何かを告げようとするが、それを遮るようにプロールが口を開く。

「ああいった手合いは生かす価値などないだろう」

「処分するとは短絡的ですね。どんな命であれ使いようはあるでしょう? 彼らは総じて聖女の礎になってもらわなければなりません。聖女の偉業を証明するものですからね。少なくとも、腕を切り落とされた男には生きていてもらわなければ困ります。まぁ、余計なことを喋らなければ、という前提がありますが。それに研究対象として魅力的だと医師達が興味を持っています」

 ユーディットの胸に去来するのは安慮と軫憂だ。項垂れるように顔を俯かせた典麗な顔貌に影が差したことをこの部屋に居る誰か気付いたと言うのだろうか。少なくとも隣に並び立つクヴェンにはユーディットの豊かな髪が邪魔をして窺い知ることは出来なかった。

「改悛した罪人が無私の献身をする、それは好餌として十分果たせるでしょう」

 目の前で遣り取りされるおぞましい会話にユーディットは怖気を抑えこんだ。煮立った悪意の塊を口に放り込まれて無遠慮に手で口を覆われ、飲み下させられた気分だ。食道を自重で落ちたそれは臓腑の端を灼いた。

 恵まれたことにユーディットは王都に来るまで悪意というものをとんと知らなかった。憎悪や嫌忌は自分からは縁遠く、身近で感じることはなかったのだ。多少の隔意はあれど、他人の不幸を積極的に願うような捻子曲がった思考はありもしない幻想のようなものだった。在ることは識っていても、肌で感じたことはない。そんな空想上の産物だと思われた邪意が姿を現したのはユーディットが聖女として故郷を離れた時だ。自分が何をしなくとも、害意や非心に晒される不条理さをユーディットはその時、初めて理解したのだ。

「全ては裁判で決まることです、ハーネイ殿」

 ハーネイの企みに荷担するつもりはないのかランプレヒトは恬然と窘めた。

 被疑者を篩に掛けて、好き勝手に扱えると言外に告げたハーネイの醜悪な優越にユーディットは唇を噛みしめる。色を失って青ざめた唇は堪えるように固く結ばれている。

 正しさが恣放に平伏する悔しさにユーディットの目の前は暗くなる。正しいことの形を理解していても、正しさを貫く為の力をユーディットは持ち合わせていない。力の無い正しさの迫力の無さをどう言葉にすれば良いのだろうか。自家撞着に虚しさと情けなさを覚えて心が挫けそうになるユーディットを誰が咎められるというのだろうか。黙殺してきた正しさの片鱗はユーディットの心に棘のように突き刺さったまま外れることはない。

「犯罪者を利用するなど穢らわしい。そんなもので聖女というものを補強したところで、脆いに決まっている」

「彼らの命に価値と意味を生み出すのですよ。打ち捨てるなんて勿体ないではないですか。何にも為れず、何の意味も無い人生なんて哀れではないですか。意義を与える、これは仁愛なのですよ。神もきっとお喜びになります」

 ハーネイの敬虔な信徒のような口吻にユーディットは憤慍する。ムカムカとする胸を落ち着かせるように膝に揃えた両手をキュッと結ぶ。質の悪いことにハーネイは自分の行動を慈憫だと信じて疑っていない。

「我々に求められているのは、事態を速やかに収拾させることと今後の対応です」

「ええ、ええ。分かっていますとも」

 ランプレヒトの言葉にハーネイは、心得ているとばかりに深く頷く。

「……聖女への聞き取りは以上です。お二方共何か質問はありますか? ないようですので、退席して大丈夫ですよ」

 これから聖女について相談をするというのに、一番の当事者が爪弾きにされる矛盾にユーディットは不満を抱くが、口を真一文字に結んで立ち上がる。排除される苦痛に馴らされているユーディットは扉へと向かいながら隣に立っていたクヴェンの存在を思い出して振り返った。

「ああ、ロシュト君にはまだ聞きたいことがあるので残って下さい」

 ランプレヒトの言葉にユーディットの背を追い掛けて退室しようとしたクヴェンの足が止まる。長机への方へ引き返したクヴェンの背を見詰めてユーディットは、この為に同席したのかと得心がいく。微かな期待を掻き消してユーディットは扉に向かおうとし、ランプレヒトと視線が合ってしまう。しんねりと篤実な笑みを浮かべたランプレヒトにユーディットは逃れるように身体を扉へ向けて、

「貴方の持つ、その力取り扱いには十分注意をして下さい」

 背中から冷や水を浴びせられた。




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