第40話 打ち明け話




「ユーディット、ユーディット待てって」

 ヴェンデルに一方的な宣言をしたユーディットはくるりと反転してスタスタと先を進んだ。呆気にとられたテオフィルは慌ててユーディット追い掛ける。騒ぎを聞きつけた幾人かの警備隊士の脇を通り過ぎながら、テオフィルの胸宇を占有するのはヴェンデルの言葉だ。

「ユーディット」

 立ち止まったユーディットにホッと息を吐いて、テオフィルは小走りを止めて緩やかに歩を進める。ギュッと拳を握りしめて顔を俯かせているユーディットの姿になんて声を掛ければ良いかテオフィルは逡巡するが、それより先にユーディットの声が耳朶に触れた。

「私、ちゃんと出来てた?」

 酷くあえかな声にテオフィルは駭汗してしまう。言葉選びを違えれば、ユーディットの深い傷となるような気がしてテオフィルは、何が正しいのか思案するが、目の端に捉えたユーディットの拳が小刻みに震えていることに気付く。

「………………」

 無理をさせた、とテオフィルは自分の行動を後悔する。偶然とは言え対面させるべきではなかったのだ。フォルトゥナートがいれば、もっと卒無く窮地から救出することが出来たのだろうかと詮無いことを考えてしまう。

「格好良かったよ」

 ユーディットの左手をテオフィルは両手で掴むと自分の胸元の位置まで引き上げる。

「ユーディットは、ちゃんと聖女だよ」

「よかった」

 表情を緩めたユーディットは笑みを漏らした。破顔とは違う、気の抜けた力のない、困ったような笑みは脆いガラス細工のようでテオフィルは思わず握っている手に更に力を込めてしまう。

「テオフィル?」

「あのさ、先刻のあいつが言ってたこと――」

 自分の想像以上の暴行を受けていたのではないか、とテオフィルは無遠慮だと思いながらユーディットに怖ず怖ずと尋ねかけた。

「嘘よ。言ったでしょ。出鱈目よ」

 テオフィルの言葉を遮るようにユーディットの硬い声がその場に響いた。

「でも――」

 反駁しかけたテオフィルにユーディットは空いている右手でテオフィルの頬を抓る。

「いたたたたっ」

「私とあの男のどっちの言葉を信じるの?」

「そりゃ、ユーディットだけど……」

 ユーディットの手がテオフィルの頬から離れる。自然とテオフィルはユーディットの手を掴んでいた両手を解いて左手で抓られた自分の頬を撫でる。

「そうよ。だから、私は何もされてない」

 こちらを覗き込むユーディットの双眸に気圧されたテオフィルは、何故かそうなのだ、と得心する。

「そっか」

「そうよ」

 伏し目がちに笑ったユーディットに何か違和感を覚えるが、言語化出来ない不明瞭なそれをテオフィルは見逃すと、ユーディットに話そうとしていたことを思い出す。

「あっ――」

「どうかした?」

 声を漏らしたテオフィルにユーディットは首を傾げた。

「いや、そのユーディットに話したいことがあって……」

 周囲を窺ってテオフィルは思わず声を潜める。平素と違う様子にユーディットは何事かと眉を跳ねさせる。

「何かあったの?」

 テオフィルの右の二の腕にユーディットの掌が気遣わしげに添えられる。先程の騒動とは違う表情を向けるユーディットにテオフィルは、一つ呼吸をして心を整えようとする。忙しなく波打つ心は止めるように、警戒を訴えてくる。

「フォルトゥナートももうすぐ来ると思うし――」

「駄目。ユーディットに、ユーディットだけに話したいことがある」

 常に傍に居るフォルトゥナートの名を告げれば過剰に反応したテオフィルに、おや、とユーディットは片眉を上げた。

「分かったわ。宿舎に戻りましょう」

「えっ? でも、聴取が――」

「聖女は疲れたので、少し休むだけよ」

 テオフィルに薄く笑ってそう告げるとユーディットの行動は素早かった。見付けた警備隊士に一旦宿舎へ戻ることを伝え、呆けていたテオフィルを手招いて軍の駐屯所から出ていく。誰かに見咎められたらと危ぶむテオフィルの心情とは裏腹にユーディットは悠然と歩を進めた。用意されていた馬車に二人で乗り込めば車内には沈黙が支配する。普段ならばフォルトゥナートが居るからか広々とした車内に奇妙な感覚を抱いてテオフィルは口を結ぶ。車窓の外に視線を向けているユーディットの感情を推し量る術は無く、ユーディットがフォルトゥナートをどう思っているか今更ながらテオフィルの中で不安が膨らんでいく。チラリ、とユーディットの視線がテオフィルを撫でるが、なにか言葉を発そうとはしない。ガタン、と音を立てて馬車が止まるとユーディットは颯爽と馬車から降りて宿舎の門を潜っていく。隊士に笑みを下賜して進む姿は堂に入っている。そんなユーディットを見る度、ちゃんと影法師としての役割を全う出来ているのかテオフィルには不安が過ぎる。湧いた憂慮は今、優先するべきものではないと振り払ってテオフィルはユーディットを追い掛ける。廊下に敷き詰められた赤い絨毯を踏みしめテオフィルはユーディットが宛がわれた部屋に足を踏み入れたのを目視する。数拍置いて入室したテオフィルは窓辺のカウチに腰を下ろしたユーディットに迎えられる。

「ここならいいかしら?」

 自分への配慮を怠らないユーディットに感服しながらテオフィルはユーディットに近付く。手近な椅子に腰を下ろそうとしないテオフィルにユーディットは怪訝な顔をするが、既にテオフィルの脳内は、どう話を切り出すかで一色になっていた。平素と違うテオフィルを観察しながらユーディットは言葉を待つ。


「ゆっ、ユーディットはフォルトゥナートが好きか?」


「は?」

 顔を真っ赤にしてテオフィルはユーディットにそう告げる。告げるということに意識を割かれていたテオフィルは目の前のユーディットの顔が固まったことに気付かない。

「俺、フォルトゥナートが好きなんだ!!」

「それで?」

 ユーディットの反応は恬としていてテオフィルは押し止めていた言葉が堰を切ったようにまろびでる。

「ユーディットは、フォルトゥナートのこと好きか? 恋愛対象として!!」

 錯誤しないように付け加えたテオフィルの言葉にユーディットは難問を前にしたかのように眉根を寄せる。口元に添えた手は軽く結ばれ、思案顔を崩さない。

「私が好きだって言ったらどうするの? 諦めて譲ってくれるの?」

「それは――」

 ユーディットの否定の言葉を淡く期待していたテオフィルは想定外の言葉に遽色を浮かべる。ユーディットがフォルトゥナートを好きだという可能性をテオフィルは無意識にか小さく見積もっていた。

「フォルトゥナートは私の騎士だもの。私のものになるのが必然でしょう?」

 胸に手を置き得たり顔でユーディットはフォルトゥナートを自分の所有物だと宣った。その言葉に対する反発と競争心がテオフィルの中で膨張する。

「駄目」

「どうして?」

 不服そうなユーディットにテオフィルは頭を振る。ユーディットの言葉を受けて心の中で主張する感情をテオフィルは自覚する。

「ごめん。ユーディットでも譲れない。俺はフォルトゥナートが好きで、独占したいって思ってる」

 引け目や衒いのない、テオフィルの素直な言葉だった。瞠若したユーディットはやおら笑った。

「なら、それで良いじゃない。なんで、私を気にするの? お墨付きが欲しかったの? 否定の言葉が欲しかったの? 好きだって自覚しているなら食らいつきなさいよ」

 ユーディットの正論に自分の浅ましさを思い知りながらテオフィルは、何故だろうかと自問する。ユーディットの許可が欲しかったのか、後押しが欲しかったのか、どちらにしても他力を望んでいた。向き合うにはほんの少し勇気が足りなかったのだ。加えて、頭を過ぎったのは辛抱強いユーディットが自分に遠慮するのではないかという憂慮だった。

「だって、もし、本当にユーディットが好きなら、俺は、出し抜いたり誤魔化したりせずちゃんと正々堂々と戦いたかった。ユーディットが自分の気持ち、遠慮して捨ててしまわないかって思って――」

「安心しなさい、好きじゃないわよ」

「へ?」

 間の抜けた声を漏らしたテオフィルを見詰めて、ふふ、と笑みを漏らしたユーディットは顎に手を当てて俯く。

「大体、どうしてそういう思考になるのかしら。馬鹿なの? ありえないわね。好きになる要素ないでしょ」

 自分が価値があると思っているものを貶されてしまいテオフィルは反発心が頭を擡げて抗言する。

「ふぉっ、フォルトゥナートは格好良くて――」

「美醜は人の主観によるでしょ。私の好みじゃないわね」

「優しくて」

「懐に入れた人間とそれ以外の落差が激しいわよね」

「冷静沈着で」

「反応薄いと言うよりは、情が薄いのよね」

「一本筋が通っていて」

「頑固で利かん気で面倒なところあるわ」

「強くて」

「負けを知らない人間の底はたかが知れてるわ」

 つらつらと澱みのない返答にテオフィルは自分の価値観を否定されている気分に陥る。

「ユーディット、フォルトゥナート嫌いなのかよっ」

 思わずそう叫んだテオフィルはユーディットを見下ろすが、精神的には見下ろされている気分だ。

「まさか。好きだし、信頼してるわ」

 テオフィルの言葉をありえないものだと否定をしたユーディットは首を傾げる。

「本当かよ」

「見え方は人それぞれ、ってことよ」

「だって、フォルトゥナートはあんなに素敵だし、ユーディットが惚れてもおかしくないし……」

 これまでのことを思い起こしてテオフィルはぶつぶつと言葉を漏らす。

「………………」

 能弁だったユーディットの沈黙にテオフィルが視線を向ければユーディットは薄く笑みを浮かべていた。

「ユーディット?」

「惚れた欲目ってやつね」

「だって、フォルトゥナートは女官にも人気だし、ファンも多いし、貴族の令嬢から恋文めいたもの貰ってるし、本当にユーディット嘘吐いてないか?」

 ユーディットが自分に遠慮しているのではないかと疑念を持つテオフィルはユーディットに詰め寄るが、力なく首を振られる。

「いい? テオフィル。他人より顔貌が優れているから必ずしも誰もが好きになるわけじゃないのよ?」

 容貌は優れていると言外に告げるユーディットにテオフィルは反射的に反論してしまう。

「俺が見てくれだけで好いているみたいな言い方、人聞きが悪いじゃないか」

「そんなつもりで言ったわけじゃないわよ。私は興味ないと言っただけよ。フォルトゥナートだけじゃないわ、誰だってそうなのよ。だから安心なさいな」

「?」

 宥めるユーディットの言葉を話半分でテオフィルは聞きながら、口吻が穏やかなユーディットに嘘の気配は感じ取ることが出来なかった。漸く、ユーディットがフォルトゥナートを恋愛対象として見ていないと納得に至る。

「なんで、こうなってるんだか」

 呆れの入り交じったユーディットの口吻は投げ遣りなものだ。興奮で頬を紅潮させ目を潤ませ気落ちしているテオフィルを一瞥するとユーディットは深い溜息を漏らす。

「ユーディット?」

「面倒事はごめんだって言ったけどねぇ」

 独り言つユーディットの視線は明後日の方向を向いている。壁に掛けられている絵画を見ているようにも見えるが焦点が合っていない。

「それで、どうしたいの?」

 テオフィルの方へ視線を向けたユーディットはテオフィルに先を促す。

「へ?」

「私がフォルトゥナートを好きじゃない結果どうしたいの?」

 幼子に窘めるように言葉を噛み砕いたユーディットに、馬鹿にされているような気分に陥るが言葉の内容が脳内で処理出来たテオフィルは顔を更に真っ赤にする。

「それは――」

 テオフィルとて人並みの欲求を持っている。恋い慕った相手と結ばれたいと願うのは当然の形だろう。

「まさか、私に見当違いの嫌疑を掛けておいて、心で想うだけで十分、で済まさないわよね?」

 にこり、と擬音がつきそうな程綺麗な笑みを浮かべたユーディットにテオフィルは駭遽する。確認をしなければ、というその意識だけが先行して、その次の行動について疎かにしていた。

「いや、でも男同士だし……」

 冷静になってしまい思わず尻込みしたテオフィルにユーディットはこめかみに手を当てて、やれやれと首を振る。

「その程度のこと?」

 その程度、とユーディットは軽んじているがテオフィルからすれば大きな障害だ。同性愛者は迫害されているわけではないが諸手を挙げて歓迎される存在ではない。教会で説く愛は親子のそれであり、異性のそれである。つまり一般の枠に当てはまらない日陰の存在だ。社会から逸脱している落伍者と言っても差し支えが無い。

「愛には色々な形があるでしょう。その一つに過ぎないわ。誰に恥じるものでもない。純度の高いそれを否定する方が余程、不自然だわ」

「でも――」

「私、テオフィルには幸せになって欲しいわ。緘黙することは貴方の幸せに繋がるのかしら?」

 反駁しようとするテオフィルの言葉をユーディットは遮る。真っ直ぐにテオフィルを見詰める両眼は清澄でユーディットの本心を語っていた。

「貴方の選んだことならば尊重するけど、後悔しない?」

 ユーディットの言葉は先案じばかりで困却しているテオフィルの心を強く揺さぶる。

「俺は、フォルトゥナートが好きで、でも、フォルトゥナートを困らせたくない」

「そう。じゃ、フォルトゥナートに恋人が出来ても笑顔で祝福するのね。誰か知らない子と結婚して、子供作って、お前も誰か良い人を見付けろよなんて無神経な言葉投げかけられてもへらへら笑うのね」

 ユーディットの語るもしもの世界を思い描いてテオフィルは胸に迫り上がってくる苦痛に顔を顰める。例え話だというのに、胸を引き裂くような痛みは現実味を帯びていてテオフィルは唇を噛みしめる。

「泣きそうな顔してるじゃない、馬鹿ね。強がって」

 カウチから立ち上がるとユーディットはテオフィルの頬に手で触れる。ひんやりとしたその感触にテオフィルは驚きながら、人の心を和らげるようなユーディットの笑みにホッと太息を吐く。

「気持ち、伝えたい」

「伝えればいいじゃない。何に遠慮するの?」

 小首を傾げたユーディットの思慮をテオフィルはなぞることは出来ないが、自分を鼓舞しようとしていることだけは理解出来た。

「フォルトゥナートの重荷にもなりたくないし、ユーディットの迷惑にもなりたくない」

 泣き声に近いテオフィルの震えた声にユーディットは小さく笑った。母親が幼子を見詰めるような無条件な慈悲を湛えた眼差しにテオフィルは撫でられる。

「誰かに好かれるって気分の良いことよ。嫌な気持ちになんてならないわ」

 ユーディットの言葉に、そうだろうか、と心の中でテオフィルは迎合を打つ。ユーディットの言う通りならば恋に破れて哀しむ人間の数は少ない筈ではないか。

「でも――」

「そればかりね。諦める理由を探していたの?」

 ユーディットの言葉に虚を衝かれたテオフィルは瞠若し、ああ、と嗟悼するように首肯した。

「そうかも」

 思えば終わりを探していたのかもしれないとテオフィルは考える。下焦がれ、芽吹いたそれを千切るような強い衝撃があれば楽になるだろう。

「他人を思いやってばかり、貴方の恋心が可哀想よ」

「可哀想?」

「そうよ。それはきっと、人として大事なものだもの。人の営みに寄り添う不可欠なもの。蔑ろにしては駄目。他人を純粋に思えるそれは尊いものよ。生まれてきたのに殺すのはあまりにも酷いわ」

 ユーディットにしては酷く漠然とした物言いだとテオフィルは思う。ただ、押しつけるではなく、見えなかったものを教えるような優しい口吻はテオフィルの頑なだった心を解していく。

「ユーディットは俺のこと気持ち悪くないの?」

 聖女に問い掛けるべきではないだろう、とテオフィルは頭の片隅で考える。聖女として優等生の発言を求められるユーディットが他人を害するような発言を口にするわけがない。甘言を欲しがっただけだとテオフィルは自分を情けなく思いユーディットを見遣れば、想像に違わずユーディットは淡い笑みを口に宿している。

「私には理解が及ばない感情だけど、フォルトゥナートを好きだって思うテオフィルは凄いと思うわ」

「…………うん」

 慰めの言葉は存外に心に響かない。ユーディットの言葉に迫力がないからではない。ただ、他者からもたらされたそれに意味がないのだとテオフィルは漸く気付く。

「ユーディット、俺が振られたらさ、気まずくならない?」

 最終確認だとばかりにテオフィルはユーディットに尋ねる。

「まさか」

 朗笑したユーディットにテオフィルは決意を一つ胸に灯した。




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