第39話 聖女の矜持




 何回目かになる事情聴取を終えたテオフィルは机と椅子が置かれた小部屋から廊下へ移動して息を一つ吐いた。機密性の高い軍の施設だからか、部屋には窓もなく妙な圧迫感を始終感じざるをえなかった。漸く、お目に掛かった廊下の窓の外には空が広がっており、テオフィルの気分も少しばかり浮上する。聴取は何度か質問者も代わり、違う人間に話したのに、といったことが度々あり、融通の利かなさに苛立ちが募ったのは確かだった。

「ユーディット」

 階段の近くの待合スペースだろうか、ソファとテーブルが並べられ、その一つのソファにユーディットが手持ち無沙汰でぼんやりと座っている姿をテオフィルは目に留める。

「テオフィル、終わったの?」

「一応?」

 話し終えた、と思えば別の日に再度聴取があるのだから、疲弊が積み重なる。

「ユーディットも終わったのか?」

「私は、一旦休憩よ。監禁がテオフィルよりも長いから、聞かれることも多いのよ」

 自分が終わったのだからユーディットも、と安易に思っていたテオフィルはユーディットの返答に納得する。不意に、違和感に気付きテオフィルは周囲を見渡す。

「フォルトゥナートは?」

「別行動よ。警備隊と動いているわ」

 途端、思案顔をしたテオフィルにユーディットは気付くが、声を掛けず反応を待つ。再度周囲をキョロキョロと確認する姿に、秘め事かとユーディットは推測するが、思い当たる節がない。

「あのさ――」

 フォルトゥナート不在の今なら、ユーディットに尋ねることができるのではないか、とテオフィルは思い至る。こちらを見返すユーディットは不思議そうな顔をしていて、テオフィルの心は不安と期待とで綯い交ぜになる。

「――フォルトゥナートのことなんだけど」

「ええ」

 歯切れの悪いテオフィルの様子に気付きながらユーディットは次の言葉を待つ。

「俺さ、その――」

 テオフィルが自分の内奥を披瀝しようとした刹那――。


 何かを叩き付けるような大きな音が廊下の奥から響き渡る。


「っ!!」

 肩を揺らし音の方へユーディットは顔を向けるとソファから立ち上がる。

「ユーディット?」

「何かあったのかしら? 気になるわね」

 テオフィルの返答を待たずに小走りに音のした方へと向かったユーディットにテオフィルは困惑しながら放っておくわけにもいかずその背を追った。




 ヴェンデルの快弁は、歓楽街に迷い込んだ聖女を保護したことから始まり、如何に手厚く遇したか朗々と語り、警備隊の反応が渋いことに気付くと次に如何に自分が同情されるに相応しい身の上か語った。その話しも、また、取るに足らないものとして扱われれば話は二転三転し、犯罪の核心には触れず、曖昧な言葉で濁し続けた。時には、自分は他の人間に使われるだけだと責任逃れを繰り返し、空疎な犯罪事実だけが組み上げられた。

「計画を立てたのは俺じゃない。聖女を連れて来たのはマティアスだ」

 椅子に座っているヴェンデルは机を挟んだ真向かいに座る警備隊士に目を向ける。目映い面貌と一挙手一投足から滲み出る品の良さから、貴族の出自とヴェンデルは推断する。

 実際、ヴェンデルの目の前にいるのは貴族出身のエルラフリートなので間違いではない。

「………………」

 自己弁護を繰り返すヴェンデルから視線を切りエルラフリートは取調室の入口付近にいる、書記代わりの隊士とドアの傍らで扼腕して威圧感を放つクヴェンを眄視する。小さな部屋に体躯の良い男が四人押し込まれているのは窮屈である。硬い床はお世辞にも綺麗とは言えず、浅黒い染みが広がっている。本来の部屋の使い方を考えればそれは当然のことで、エルラフリートは気重になりながらも目の前の男を見据えた。

「そのマティアスも、貴方に指示をされたと言っている」

「そりゃ、あいつの嘘さ。誰だって罪から逃れたいさ」

 エルラフリートの言葉にヴェンデルは表情を変えず返答する。その堂々とした振る舞いはふてぶてしさを他人に印象づける。

「おたくら、ほんと、何も分かってないな。折角、穏便に黙ってやっているのに。その方があんたらも都合が良いだろ?」

 ヴェンデルの言葉の意味が分からずエルラフリートは首を傾げれば、ヴェンデルは何かに気付いたかのように下卑た笑みを漏らした。

「あれぇ、聖女様から何も聞いてないの? そっか、そっか、おたくら聖女様に信頼されていないのか。それとも、都合が悪いから見ないふりしているのか。まぁ、どっちでも良いか。そっちがその気なら俺だって公の場に連れ出されたら大声で騒ぎ立ててやるさ」

「何の話をしている」

 何を知っているのか、とエルラフリートは話半分で尋ねる。どうせ、今迄と同じで取るに足らない話しだとエルラフリートは高を括っていた。


「聖女様の肌は柔くて、温かかったってことだ」


 ヴェンデルの言葉に速記していた隊士の手が止まり、エルラフリートは瞠若する。

「温かくて、すべすべしてて、触り心地がよくて、ああ、それは天に昇るように気持ちが良かった。喘ぎ声もか細くて可愛くて、嫌だと首を振って泣くその様が美しかった。泣きじゃくって、俺の手でぐずぐずに解して、女の悦びに溺れる様子は聖女じゃなくて、まるで娼婦のようだ。快楽に服従して、哀願して、俺を貪るように求めた。清らかなる乙女だなんて笑わせる。聖女を汚してやった。はは、ははははっ」

「下卑た口に刃物をお望みですか?」

 温度を感じさせない平坦な声にヴェンデルは視線をエルラフリートに向けて、背に氷塊を押しつけられたように身体を強ばらせた。口元に笑みは絶やしていないのに、爛々たる双眸は害意を執意している。

「は、どうとでも言え。触れ回ってやる。死の間際まで、聖女は俺に身体を許した穢れた女だって言ってやる」

 自分の落ちたところまで相手を引き摺り落とさなければ気が済まない、と言いたげなヴェンデルにエルラフリートは脅しではなくこの場で不幸な事故を起こすべきかと腰に据えていた剣に手を伸ばす。

「先刻から、ベラベラと余計なことを喋る。黙ってやっていたのはこっちも同じだ」

「へぇ、なにもしかして、あんたらも聖女様に慰めてもらったのか? 隊士に身体を許すなんて、とんだあばずれだな」

 入口脇の壁に背を預けていたクヴェンは、背中を離すと座っているヴェンデルと距離を詰めると椅子から立ち上がらせる。勢いそのまま、背後の壁にヴェンデルを叩き付けたクヴェンは革手袋を嵌めた指をヴェンデルの口に指を突っ込む。分厚い舌を無遠慮に掴むと引っ張り、ヴェンデルは苦しさで嘔吐く。

「その時まで、舌があると思っているのか? おめでたい頭だ」

 クヴェンの言わんとしたことを察したのかヴェンデルは顔を青ざめさせると頭を振る。

「自分の身が可愛ければ口に出すべきじゃなかった。てめぇで獅子の尾を踏んだ」

 ヴェンデルの舌から手を離し、穢らわしいものを触ったとその指をヴェンデルの服に擦りつける。加減無しのそれはヴェンデルの身体を転倒させるには十分だった。揺らいだ身体は椅子にぶつかりけたたましい音を立て、椅子は床に転げ落ちた。足を滑らせたヴェンデルの身体も床に倒れ伏した。

「痛っ……」

「そうか」

 身体を起こそうとしたヴェンデルの視線に飛び込んできたのは黒い革靴で、磨かれているそれを目視して持っている人間への反発心が頭を擡げる。投げ出していた両足に力を込めようとした、刹那、跨下に痛みが走る。

「気色悪りぃ粗末なもん、ねじ切った方が良いだろう」

 グリグリと硬い革靴で抉るような素振りを見せるクヴェンをヴェンデルは睨み付ければ、クヴェンは足を引いた。気分を害したのかクヴェンは靴底を床で何度は擦るとヴェンデルを見下ろして鼻で笑った。

「はっ、この程度のもんで聖女を満たしたなんて大洞も良いところだ」

 男としての矜持を傷付けられて色を成したヴェンデルを平然とクヴェンは見詰める。

「益体無しの聖女になんの価値がある。男の慰み者になるしかないだろう」

「懲りずにまだ喋る気力があるのか。女のように非情な暴力に蹂躙される痛みを味わうか?」

 服を剥ぎ取り、性器を受け入れる場所では無い孔を乱暴に穿たせれば痛みの理解に至るだろう。人の精神を屈服させて、拉ぎ潰すことに長けた刑吏を呼ぶ寄せるのはクヴェンにとって容易いことだった。

「はっ、どう言い繕ったって聖女は俺に穢された。それは不変な事実だ」

 意地か矜持かヴェンデルは言葉を取り消すことなく一層ユーディットの尊厳を穢すようなことを口にする。自分の優位は揺らがないと自信があるのかヴェンデルは薄い笑みを収束させることはない。勘に障る男だ、とクヴェンは心の中で罵りながら身体を害する為に一歩、足を踏み込もうとした。

「何があったの――」

 勢いよく開け放たれたドアの音に肩越しに振り返ったクヴェンは、タイミングの悪い女、と不安げな顔をしているユーディットを見詰めて舌を鳴らした。

 クヴェンの足下にへたり込んでいるヴェンデルの姿を捉えたユーディットの表情がほんの少し強ばる。凋喪した瞬間を見逃さなかったのはクヴェンだけではなく、ヴェンデルも同じであった。

「これは、これは聖女様」

 自分の命の終わりを他人に奪われている状況だというのにヴェンデルは平然としている。寧ろ、芝居がかった口調で聖女の登場を喜んでいた。

「っ…………」

 想定外の光景だったのかユーディットの反応は鈍く、逃げるように、後ろ足に体重を移動させる。ユーディットの無意識の行動だが怖じ気づいているとヴェンデルが判断するには十分だった。

「聖女様、隊士のみなさんに語ってあげてよ。あの夜のこと。聖女様が俺を慰めたこと。柔い太股を露わにして、秘所を俺に晒して、懇願したこと」

 一際大きい声でヴェンデルはユーディットを見据えて言う。開け放たれたドアの先にいる誰かの耳に届けば良いとヴェンデルはほくそ笑み、傍に居るクヴェンの意識がユーディットに向いていることに気付き、気取られぬよう一蹴り届かぬよう距離をとる。顔を俯かせて両手で拳を握りしめているユーディットの表情を確認するには至らない。屈辱で身を震わせているのではないか、とヴェンデルは己の優位性を疑わなかった。

「そう」

 顔を上げたユーディットは穏和な笑みを浮かべていた。場面にそぐわないその笑みにヴェンデルは遽色を浮かべてしまう。驚悸を気の所為だと看過したヴェンデルは気持ちで退くわけにはいかないとユーディットから視線を外さない。空の蒼さを想起させるユーディットの双眸に愧懼の片鱗は見当たらない。先程の慙色は掻き消えて、嬋媛な笑みを湛えているのだからヴェンデルには空恐ろしかった。心底を見透かされている気になり、思わず顔を背けてしまう。

「貴方はそんなことで救われたのかしら?」

 自憐を一笑に付すようなユーディットの言葉に色を作したヴェンデルは顔を声の方へ向ける。揺らぎのない、冷ややかともとれる感情を伺わせない眸睛に射貫かれる。

「救われた? お互い愉しんだじゃないか」

 声望を貶めようとするヴェンデルの言葉を浴びせられてもユーディットは顔色を変えない。聖女然として、隙を見せようとしないユーディットに、あの夜、自分に屈服した姿をヴェンデルは思い起こす。ただの小娘に成り果てた癖に、今、自分の言っていることは詆欺であると扱おうとする姿は滑稽だ、とヴェンデルは己を慰める。虚勢に過ぎない、刺衝を繰り返せば尻込みするに決まっていると高を括る。

「あの程度のこと、誇りたいの?」

 溜息を一つ零して、ユーディットの紅唇から零れた言葉にヴェンデルは目を剥く。瑕疵を過小評価して幼子のしたことだと言いたげな様子でユーディットは寛恕した。それこそ、滄溟の如き広い心で取るに足らないことを受容したとでも言いたげな笑みを浮かべている。

「はっ、矮小化しようとしたとしても事実は事実だ」

「それで私を傷付けられると思っているの?」

 ヴェンデルの舌鋒鋭い言葉を突っぱねるユーディットの声は穏やかだが微かに惘惑が滲んでいた。自分の持っていた手札が、途端、色褪せたものに変質させられた気分に陥るヴェンデルだが、ことの主眼は聖女を辱めることにある。言葉の真偽は重要では無い。

「俺を受け入れて、喘いで、ただの女になった。肉欲に溺れて、男を銜え込んで離さなかった。聖女は穢れている」

 否定の言葉を返して喚けば良いと期待をしてヴェンデルはユーディットを見返すが、恬としてユーディットは眉根を寄せることすらしなかった。対峙している小柄な少女が、到底壊れぬ頑強な城壁のようで、ヴェンデルは舌を鳴らした。

「嘘を触れ回りたければ、触れ回れば良い――」

 そう告げてユーディットは、でも、と、言葉を重ねる。


「――私は傷ついてなんてやらない」


 この場に不釣り合いな清澄な笑みと玉音にヴェンデルは、曲がり形にもこれは聖女であった、と改めて思い知る羽目になった。




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