第36話 襲雑
困った、とユーディットは心の中で呟いた。外の喧騒も問題だが、目の前の状況が想定外過ぎて頭が痛くなってくる。ノルドの罵声に吃驚して顔をそちらに向けていたユーディットが顔を正面に戻すとマティアスの姿がそこにはなかった。自分の目の前で跪いて伏し拝むマティアスの頭を見下ろしてユーディットは息を一つ吐く。フォルトゥナートが時間を稼いでくれていても有限だというのは承知してその場に屈み込んだ。
「マティアス、何してるの」
ビクリとマティアスの身体が揺れる。顔を上げようとしないマティアスの肩に躊躇いがちにユーディットは手を伸ばす。筋肉の付いた肩にほんの少し指先が触れると、マティアスは身体を縮込ませる。
「……マティアス、私をからかってる?」
緘黙して取り調べにも応じないとマティアスの様子を聞いていたユーディットは、自分ならばなんとか出来ると思っていた自信が、思い上がりだったのではないかと思い始める。
「貴方と話がしたいんだけど」
肉体言語を用いなければならないかとユーディットは半ば諦めながら声を掛けるとマティアスから震える声が漏れる。
「っ……俺なんかが、駄目なんだ。合わせる顔がない」
「何それ」
萎縮しきっているマティアスの様子にユーディットは慍色を浮かべると、これ見よがしに盛大に溜息を吐く。
「――顔を上げなさい、マティアス」
張りのあるユーディットの声にマティアスは怖ず怖ずと顔をあげた。笑みを浮かべているユーディットのそれが偽りだということを察するが口にはせずマティアスはユーディットの言葉を待つ。
「まず、腕は平気?」
ユーディットの言葉にマティアスは左腕で右腕を掴んでさする。無事な様子を確認してユーディットは安堵の息を漏らした。
「大丈夫なようね。良かったわ」
「俺は誘拐犯の仲間で、温情掛けられるような存在じゃなくて、害になることしかしてないのにどうして、俺なんかを助けてくれた」
右手をきつく握りしめたマティアスにユーディットは腕が切り落とされた時のことを想起する。
「助けてって言ったじゃない、貴方。応えられて良かった」
開いたマティアスの右手にユーディットは自分の左手で掴む。唐突のことに驚いたマティアスが瞠若する様子が鳩が豆鉄砲を喰らったようでユーディットは楽しくなってくる。
「俺なんかに触ったら穢れる」
「何それ」
手を振り解こうとするマティアスにユーディットは空いていた右手で更に手を包み込んだ。
「駄目だって。俺は、卑怯者で、汚くて、優しくされる価値なんてないんだ。助けようと思えば助けられたのに、怖くて、それどころか、襲われているお前に興奮して黙っていた。最低だろ。軽蔑して罰してくれ」
ヴェンデルに襲われた時のことを言っているのだと気付いたユーディットは思わず手の力を緩めてしまう。マティアスは自分の手を引き戻すと、ユーディットから顔を背ける。
「俺もお前を陵辱したんだ。如何なる罰も受け入れる。俺の命を聖女の為に好きに使ってくれ」
「――だから、黙っていたの?」
好きに罪状を付けて良いからと沈黙を貫いていたのかとユーディットは問い掛ければマティアスは首肯した。
「呆れた。貴方やってることがちぐはぐよ。聖女の為と言うのならばもっと誠実に取り調べを受けるべきよ」
「だから、聖女の為に――」
自分が出来る事を為すべきだとマティアスはユーディットに顔を向ければ、真率な眼差しとかち合ってしまう。
「誠実になるのは私にではなく、自分に対してよ」
ユーディットが言わんとすることが汲み取れずマティアスは眉根を寄せる。五体投地して命を差し出したというのに、そうではない、と否定されたも同義だ。
「――私を言い訳にして自分の命を諦めないで」
ユーディットは膝を付きマティアスの右手を自分の両手で振り解かれぬようにきつく握りしめる。
「私が助けた命粗末に扱って欲しくないわ。最期の最後まで生き抜いて」
「俺は――」
「わたしは生きて欲しいわ」
荒れ果てた地に一滴の雨が注がれたように、その言葉はマティアスの胸に染み渡る。真っ直ぐに注がれる感情に価値があることをマティアスは知っている。揺らぎも嘘も無い真の言葉だ。
「だから、全部自分が背負えば良いなんて思わないで。黙ってたら本当に都合の良い存在になるわ。貴方が可哀想よ。やってもいない罪を背負うのは美しくないわ」
ユーディットが自分を励まそうとしていることを理解したマティアスは、そんな価値がないのに、と項垂れそうになる。その気配を察知したのかユーディットの温かな両手に力が込められてマティアスは顔を上げる。
「――だって、話したら俺みたいな幼馴染みがいることになる」
「実際そうじゃない。隠すことじゃないでしょう」
笑い飛ばしたユーディットの様子にマティアスの冷たく強ばっていた指先に熱が宿る。
「貴方は私の恥ずかしい過去幾つも知っているでしょう? でも、楽しかったのよ。それを無かったことにはしたくないわ」
嗚咽を漏らすマティアスにユーディットは自分が包んでいるマティアスの右手を自分の口元に引き寄せる。中指の背にそっと唇を寄せた。
「貴方は、わたしを、覚えていて、お願い」
鍵が差し込まれる音にユーディットはハッとして立ち上がるがそれと同時に壁に叩き付けられる。
「っ!!」
「あんた、自分が何をやってるか分かってるの?」
ユーディットの右肩を右手で掴み腕でそのままユーディットの首元を押さえつけたノルドは顔を近付ける。射るが如き炯眼に晒されて、これが殺意かとユーディットは暢気なことを思いながらノルドを引き剥がそうとするフォルトゥナートに大丈夫だと目配せする。ノルドのこれは正当な怒りだ、とユーディットは受容する。
「自分を襲った人間にフラフラ近付くとか頭沸いてるの?」
「平気だったじゃない。私はこの通り五体満足よ」
空いている左手でユーディットの顔の脇の壁に手を付いてノルドは更に詰め寄る。
「はぁ!? 結果的にそうなっただけでこっちの心配分かってるのか」
いつものヘラリとした笑みを掻き消したノルドはユーディットを責める言葉を控えない。噴き上がったマグマのような怒りではなく、沸々と煮立つような憤りは感情のままに迸るものではないからこそ、冷徹さの片鱗が見受けられる。
「悪いと思っているけど、譲れなかったのよ」
悪びれもしないユーディットにノルドは譲れなかった理由を眄視して舌を鳴らす。間近で浴びた他人の不満にユーディットは不快そうな顔するが、こちらのほうが不愉快だとノルドは眉根を寄せる。
「勝手気儘に振る舞ってあんたはそれで満足だろうけど、責任を取らされるのはこっちだって分かってるのか?」
「責任は私が取るわ。わたしの願いだもの」
それを本気で思っているからこそ質が悪い、とノルドは心の中でユーディットを罵る。
「あんたは大人しく守られれてれば良いの。余計なことして引っかき回すのは迷惑だって言ってるの分かんないかね」
詰ったところでユーディットが応えていないのは明白でノルドは自分の腕の中にある小さな存在が思い通りにならなくて焦れてしまう。少し本気を出せば命を奪うことすら簡単な相手だ。
「でも、マティアスはちゃんと取り調べに応じるって言ってるわ」
「……そんなのどうでも良いから」
自分の為したことを無下にされたユーディットは不服そうな顔を崩さない。
「あんたがそんなので怪我したらどうするの」
聞き分けの無い子供に語りかけているようでノルドの瞬間的な怒りは呆れに上書きされる。力で上下関係を示せば大人しくなる子供の方が余程御しやすいとノルドは自分の仕事がなんだったか忘れそうになる。
「有耶無耶のまま、お綺麗な都合の良い物語が出来るのはごめんよ」
ユーディットの言葉で眠っている間に全て終わらせてしまおうと言ったことをノルドは思い出してしまう。最良だと思った献策を価値のないものだと蔑ろにされた気分に陥りノルドは唇を噛みしめる。
「守られるだけなんて嫌よ」
俯いたノルドの神経を逆撫でする言葉をユーディットは浴びせる。思わず力の弛んだノルドの手を振り払ったユーディットは硬直したノルドを不思議そうに見詰める。ノルドの焦慮にも葛藤にもユーディットは気付かない。ノルドの地雷を悉く踏み抜いていくユーディットの姿に傍から見ていたフォルトゥナートはいっそ感心しながら、わたわたとしているテオフィルと取調室に雪崩れ込んできた人間に驚愕しているマティアスに目を遣った。
「――私そんな守られる価値がある存在じゃないもの。出来る事は自分でやるわ」
外連も欺瞞も無いユーディットの言葉にノルドは盛大に息を吐き出す。
「クソガキがっ、こっちが下手に出りゃ、勝手な事をベラベラと言いやがって、こっちの気遣い台無しにしやがって自分の立場ってもんを理解しろ。あんたはか弱い女で俺達に守られて当然だってこと思い知らせてやろうか」
戦場に立っている時かのような低い唸るようなノルドの声にユーディットは肩を揺らす。ユーディットの双眸に過ぎった怖気を息が掛かる程、顔を近付けたノルドはかえって見過ごして言葉を重ねる。
「幾ら、あんたが能弁だって言っても腕力はそこいらの男にも劣るって単純なこと考慮していないのか」
純粋な力がどれだけ人を縛り付けるのかノルドが言っているようにユーディットは何も知らないわけではない。少なくとも、マティアスはヴェンデルの暴力に屈服して良心を看過した。あるべき筈の救いの手から零れた痛みはユーディットの心を蝕んでいる。
「何かあったとしても、それは、必要なコストよ」
必要なことだった、そう言い聞かすようにユーディットはノルドに言葉を返す。あたかも、不可避の自然現象だと告げるユーディットにノルドは分かり易く顔を顰めた。
「誰に、そう、吹き込まれた」
一層、声が低くなったノルドにユーディットは無意識の警戒か距離を取ろうとする。意識をせず獲物を逃がすまいと空いた分の距離を縮めたノルドはユーディットを見下ろす。
「ただの経験則よ」
自分の吐き出した言葉がまるで他人の借り物だと言いたげなノルドを否定するようにユーディットは頭を振った。
「――本当、可愛くない女」
感情の籠もったその一言を浴びせられたユーディットは抗議すべきかと口を開き掛けるが、途端掴まれていた肩が急に軽くなる。
「貴方、何しているんですか!!」
声と共にノルドの身体が離れ、ユーディットは声の主に目を向けた。
ノルドの肩を掴んでユーディットから引き剥がしたのは騒ぎを聞きつけたエルラフリートだった。笑みで覆い隠して自身の感情を表に出さないことに長けている筈のエルラフリートが容に滲ませたのは明らかな嫌悪と忿恚だ。
「別に。何処かのじゃじゃ馬に摂理を説いただけだよ」
忿然としているエルラフリートにノルドはユーディットから手を放して、加害する意志はないと肩の辺りで手をヒラヒラとさせる。
「貴方――」
エルラフリートの慍声が耳朶に触れたユーディットは咄嗟にエルラフリートの手首を掴む。
「待って。悪いのは私よ」
エルラフリートの視線が自分に向いたことにユーディットは安慮する。少しでもエルラフリートの意識からノルドを追い出すことが出来たのならば怖じ気を振り払って声を掛けた甲斐があった。
「だとしても、やりようがあります。あんな手荒な真似、御婦人にするものではないでしょう」
「高潔な貴族様はお気に召さなかったようで」
態と煽るようなことを口にしたノルドにユーディットは、黙っていろ、と眼居で訴えるがノルドはヘラリと締まりのない笑みを零すだけだ。服越しに掴んだ手首が熱を孕んでいて、エルラフリートが興奮していることにユーディットは気付きなんとか宥めようと言葉を探す。言葉に窮しているユーディットの手をエルラフリートは外すと目の前のノルドを見据える。
「我慢の限界です。貴方の聖女様に対する態度は明らかに不敬。この職の尊さが分からぬと言うのならば、思い知らせる必要があります」
エルラフリートが腰から吊した剣の鞘を手を伸ばして攻撃態勢を見せるものだから、自然とノルドも応じるように剣の柄を掴んだ。一触即発の雰囲気をどうにか回避しなければとこの場に居る張本人以外が思った刹那、声が緊張を打ち破る。
「何をしている」
人垣が割れて姿を現したクヴェンの姿にユーディットは、この男の声に安堵する日が来るなんて、と心の中でぼやきながら笑みを向けた。
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