第32話 聖女をやめさせたい男と聖女であろうとする女




 空気が美味しい、とユーディットは空気を肺に深く取り込む。宛がわれた部屋から抜け出して宿舎の屋上を訪れれば暗闇の頭上に瞬くのは星々だった。埃塗れの場所に押し込まれていたからか不自由なく呼吸が出来ることを確認するように呼吸の音は大きくなる。ヒュッと息を呑んだ喉が上下する。

「………………」

 他者の視線の煩わしさから逃れてしまったことを認めてユーディットは細い息を吐き出した。しくじってばかりだ、と自分を心の中で苛むが一定の解決をしていることがユーディットの心を慰める。誰かの気遣わしげな視線が身体を撫でる度に拒否感がユーディットの心に生まれるのだ。その因由を薄らぼんやりと理解しながら明確にすることをユーディットは躊躇ってしまう。

 部屋を抜け出したことが分かれば心配させてしまう、と闇夜を見仰いでいたユーディットは思考を切り替えると部屋に戻ろうかと顔を下げた。


「また、抜け出すつもり?」


 不意に耳朶に触れた声にユーディットは勢いよく振り返れば、軍服の上着を着崩したノルドの姿を捉える。

「………………」

 聖女然として答えようとしたユーディットだが夕刻のクヴェンとの遣り取りを思い出して、この男に適用すべきなのだろうかと言葉を飲み込んでしまう。丁寧な言葉は距離を生み出すことに長けていて踏み込んで欲しくない相手には効力を発揮していた。ユーディットからすれば親しくもない相手に自分の本当の言葉で話すのは気が引けるのだ。心の鎧を一つ剥がされたようで心細く思いながらユーディットは覚悟を決める。

「――もう、戻るわ」

 逡巡して一言告げたユーディットにノルドは承知しているといった様子で軽く頷いた。

「そりゃ、ありがたい」

 額面通りの言葉なのか抑揚のないノルドの言葉にユーディットは内心首を傾げる。

「戻るわよ」

 話を切り上げたくてユーディットはそう口早に告げるとノルドの脇を通って屋上のドアへと足を向けようとする。

「何よ」

 ノルドに右腕を掴まれて自然と立ち止まったユーディットは自分を引き止めるノルドを見上げた。明確な意志のある視線を向けられたノルドは薄く笑うが、ユーディットは笑みの理由に心当たりがない。

「ねぇ、なんで、あの時殺すなって言ったの?」

「人の命を簡単に奪って良いわけないじゃない?」

 質問に質問を返すなんて失礼かもしれないとユーディットは思うが、相手がノルドだから良いだろう、と自分を納得させた。ノルドがあの時、自分の言葉に従ったのではなく機会が無かっただけだということをユーディットはなんとなく理解している。躊躇いも無く人の腕を切り落とした男が小娘の細やかな願いなど容認する理由はないのだ。

「必要ならばそうするよ」

 気負いのないノルドの平坦な声にユーディットは頭を振る。

「必要は無かったわ」

 即座に反駁したユーディットにノルドは顔を顰める。珍しく白地なその表情にユーディットは目の前の男が何を訴えたいのかということに思考を割き始める。

「憎くないの? 髪まで切られた」

 ユーディットの腕から手を放したノルドは少し短くなったユーディットの髪先に触れる。救出時には雑然と切られていたそれはニールマンの手によって綺麗に切り揃えられている。ノルドの視線がユーディットの切られた髪先を滑り、洋服で隠れていない雪膚に不釣り合いな傷痕を熟視する。

「少し切られただけよ」

 髪に触れたノルドの右手を自分の右手で振り払ったユーディットはノルドを睨み付ける。そこで、漸く、ユーディットはノルドの双眸をしっかりと捉えた。思えば、競技会の顕彰の際に抜け出した時以来だとユーディットは気付く。

「切られたに少しも多いもないよ」

 それまで平素を装っていた男の奥にある感情に触れてしまいユーディットは歯噛みする。この男に気を遣われている、哀れまれている、と察知したユーディットは心に渦巻く羞恥で逃げ出したくなる。それでも我慢をして会話を続けるのはユーディットなりの誠意だ。

「それに、なんで、あの男の腕をくっつけたの?」

「くっつきそうだったら、くっつけるでしょ」

 何を言っているのだと顔を顰めたユーディットの返答に面白くなさそうにノルドの眉根が寄る。一方、ユーディットはノルドの反応に反発心のようなものが擡げる。助けられそうでも放置すれば良いと言外に訴えるノルドの主義とユーディットの所念は懸隔していて両立は出来ない。

「助ける理由なんてないでしょ」

「マティアスは助けを求めていたわ」

 ノルドの眉間の皺が更に深くなる。

「それでも、あんたが助けなきゃいけないわけじゃないだろ」

「私は聖女よ」

 ユーディットの言葉にノルドの下ろされた手がビクリと微かに震えた。

「助けを求める声には出来る限り応えるわ」

 自分に何が出来るかは分からなくとも、切迫したあの声を切り捨てられる程ユーディットは淡泊ではない。何れ、切り捨てたことを後悔する日がくることだけ確信するのならば動くべきだと思ったのだ。救える確信があったわけでない。例え、報われなくても、自分がそうしたいと思ったからユーディットは動いたに過ぎない。

「――大層な聖女様だ」

 ユーディットから視線を切り、顔を背けたノルドは鼻で笑った。取るに足りないと軽視されたが不思議とユーディットは怒りが湧かなかった。自分がどれだけ荒唐無稽なことを言っているか正しくは無くともユーディットは少しは理解しているつもりだった。

「そうよ。私は聖女だもの」

 自分の縁とするものだとユーディットは熙笑した。

「っ!! 馬鹿げてる」

 吐き捨てるように告げたノルドから感じ取った同情にユーディットは眉を跳ねさせる。今迄との明確な違いにユーディットは動揺を心の奥底に押し込めようとする。

「負う必要の無い傷を負って、誰が聖女ちゃんを救ってくれるのさ。今回のことだってこの程度で済んだなんて口ぶりだけど、髪を切られた、怪我をさせられた、監禁された、なんて些末なことじゃない。過小評価しているそれは普通の女の子が凡そ経験すべきことじゃない」

 普通の女の子、とノルドが自分をその枠に入れようとしていることにユーディットは驚く。互いに深く関わってこなかったが、ノルドからはそんな憫惻を向けられていたことはユーディットの知る限りなかったのだ。ノルドの気安さは聖女を正しく運用する為の間に合わせの優しさで、興味などないのだと思っていた。こんなにも気安く感情を投げつけられる切っ掛けに覚えがないのだ。一定の距離感があって、互いの末は絡むことなく、それが暗黙の了解でもあったのだ。けれど、今、ノルドはユーディットの柔い部分に無遠慮に踏み込んできた。

「聖女だもの」

 なんて明瞭だ、とユーディットは免罪符のようにその言葉を紡ぐ。

「なんでもその一言で我慢するんだ」

 ノルドの険を孕んだ声にユーディットは頭を振る。我慢なんて意識をせず、乗り越えるべきものだとユーディットは思っていた。

「我慢なんてしてないわ」

「本当、質悪いよね」

 揺らぎのない双眸と欺瞞も虚勢もない言葉にノルドは苦痛だといった様子で顔を歪める。

「こんな、酷い目に遭って――」

「っ………………」

 ユーディットの爪先から頭までノルドの憐情の視線が移動する。含みのあるそれは公にしていないユーディットの傷を慮ると同時に傷口を抉っていく。屈辱に身を震わせながらユーディットは言葉を飲み込む。それをノルドは想起した恐怖によるものだと錯誤した。

「――そんなに頑張って、ただの自己満足だろう」

 積み重ねた努力や時間を塵芥のように扱われてユーディットはギュッと拳を握りしめる。衝動的に暴力を働かないように固く結び掌に爪が突き刺さる。

「誹誉に晒されて心身を磨り減らした果てに何が残るのさ?」

 心底の柔い部分を掴まれて乱暴に振り回される衝撃にユーディットは唇をきつく噛みしめる。訴える痛みだけがユーディットを冷静にさせていた。

「黙り? 悩んでいるってことは考える余地があるってことだよ。そんなに頑張らなくて良いじゃん。適当で良いんだよ。犒いもなければ労りもない。ただ消耗させられ続けるだけだ。誰が損するわけでもない偶像崇拝のようなもんに無理に応える必要はないよ」

 淀みなく告げる言葉はノルドの覆蔵していたものだった。聖女を磨り潰すことで成り立つ崇拝など真っ当なものではないというのがノルドのこれまでの人生を過ごした結論だ。揺らぎのない芯のある言葉にややもすれば屈曲しそうな心魄をユーディットは叱咤する。黙っていても誰かが何かをしてくれるなんて恵まれた立場の人間の思考であって、ユーディットは主張することの大切さを知っている。心の中の蕩揺の片鱗が見えなければ良いと期待をしてユーディットは口を開いた。

「――必要かどうかは私が決めるわ。先刻からベラベラと大きなお世話よ!!」

「聖女ちゃん」

 頑是無い子供を哀れむようなノルドの眼差しにユーディットの心は更に鬱屈していく。否定の言葉を連ねても手応えがないことを推断しながら向けられる柔い眼差しが煩わしいものだとばかりにユーディットは蹴散らす。

「貴方は私を可哀想なものにしたいのね。憐憫じゃなくて、それは侮蔑よ。あの程度で挫けるなんて、私を見縊らないで!! 私は、あんなことで傷つかないわ」

 自分を奮い立たせるようにユーディットはそう告げるとノルドを見据える。啖呵を切ったというのにノルドの容に滲むのは紛れもない憂憐で、目の前の男の認識を変えられないことをユーディットは悔しく思う。きっと話しても平行線だという確信がユーディットの中で強くなる。時間を費やすことの虚しさにユーディットは立ち去ろうとした。

「待ってよ」

 ノルドの言葉にユーディットは数歩歩いてノルドを置き去りにして足を止め振り返る。互いの隔たりが露呈しただけでなんの発展性もないだろうと眄睨すればノルドはヘラリと笑った。

「気が変わったら言ってよ。あいつら殺しに行ってあげる。ユーディットちゃんの為に」

「……結構よ。人は法によって裁かれるべきよ」

 善心を尊ぶ真っ当な人間の言葉にノルドは口の端を歪めた。嘘は片鱗も見当たらないのにその言葉が本物だとはノルドには思えなかった。

「――被害者の処罰感情は重要だよ」

「彼らは救われたかったのよ」

 一定の理解を示すユーディットに、表情が制御出来ていないだろうなとノルドは頭の片隅で考える。渋い顔をするユーディットの様子で自分の人相の悪さを認識するが平静を装うことなんて出来ないと配慮をかなぐり捨てる。あまりにも理不尽ではないか、と心の中で叫ぶ。自分の身を一番に考えるのが普通の人間だ。自分を傷付けた人間に過剰に寄り添うとするなんて、と考えて思い至った言葉にノルドは吐き気を催して口を手で覆う。

「はっ、聖女って、なにそれ」

 あえかな声は掌に阻まれてユーディットに届くことなく、ノルドからの返答がないことに焦れたユーディットは嘆息すると今度こそ本当に足をドアへと向けた。




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