第30話 秘密




 意識が浮上したユーディットの視界に飛び込んできたのは天井と見覚えのある顔で咄嗟に取り繕う余地が無く顔を顰める。

「……意識は大丈夫なようだね」

 自分の今の状況をぼんやりと認識していたユーディットは徐々に輪郭を持った記憶に、ああ、と、声を漏らした。

「気分はどうだい?」

「――真っ当なお医者様のようなことを言いますのね」

 笑みを浮かべて返答したユーディットにニールマンは首を竦める。言外に医者としての在り方を非難されているようで面白くないが、相手は病人だとニールマンは言葉を控えた。

「軽口が叩けるなら大丈夫かな」

「少し、頭が痛いわ」

 我慢することに長けていて他人に自分のつらさを教えようとはしないユーディットが言っているのならば注意しなければならないことだとニールマンは心に留める。

「そう。話は出来るかな」

 そう言ったニールマンに応えるようにユーディットは上半身を軽く起こす。ふらりと傾いた身体に座っていた椅子からニールマンは立ち上がるとユーディットを支え、枕やクッションをベッドの天板と背中の間に置いた。

「ありがとうございます」

 常とは違う振る舞いにユーディットが奇妙なものを見るような眼差しを向ければニールマンは苦笑した。

「病人だからね」

 頭痛があるのか頭を振ったユーディットの姿を目視してニールマンは手元のノートに記載をする。

「あれから、何時間経ちましたの?」

 ユーディットの尋ねに、なるほど、とニールマンは興味深げにユーディットを熟視すればユーディットは、なんなのかと不服そうな目を向ける。

「一日だよ」

 ニールマンの言葉に目を瞠ったユーディットはそれを収束させると、そう、と、小さく声を漏らした。

「死者なんて出てませんよね」

「警備隊には死者はいないよ」

 ユーディットの言いたいことを分かりながらニールマンは意地の悪い返答をする。睨み付けてきたユーディットにニールマンは溜息を漏らして言葉を続けた。

「誘拐犯連中にもいないよ」

「そうですか」

 安堵の息を漏らしたユーディットの甘さにニールマンは呆れながらこれを伝える為に居残っていたわけでは無いと本題に進めようとするが、伝えていないことを思い出す。

「聖女を余すところなく診察した」

 その言葉の裏を察したのかユーディットは嫌そうに顔を歪めた。

「生娘のように責任を取って欲しいなんて戯れ言言わないよね」

「――それが、貴方のお仕事でしょう?」

 聞き分けの良い少女に罵倒されることを念の為覚悟していたニールマンからすれば手応えが無くて物足りない。

「まぁ、責任を取って欲しいと訴えられても困るんだけどね」

 そう軽口を叩くとニールマンは薄く笑った。

「君の状態はクヴェン達には子細に伝えていない」

 ニールマンの言葉にユーディットは瞠若して、ニールマンを凝視する。その眼差しは、どういうことだ、と如実に語っていてニールマンは意地悪く笑った。

「後に響くものなどないし、聖女が使えるかどうかにそれは必要な情報じゃ無い。なにより黙ってた方が面白そうだからね」

 必要事項だからと些細な傷ですら共有していたニールマンの言葉とは思えずユーディットは言葉の裏を読もうとするが、鈍い頭では碌な思考すら出来ない。渋面して思案するユーディットは“誰が”面白いのかということに考えが及ばず眉根の皺を深くするばかりだ。そんなユーディットをニールマンは興味深げに見詰める。

「なにか?」

 ニールマンの視線が煩すぎて鬱陶しいがそれを巧みに覆い隠してユーディットは笑みを向けた。

「――昔の方が可愛げがあったね。夜寝れないだとか人の声が気になるだとか、つまらないことに心を痛めていた」

 顔を歪めたニールマンに対してユーディットは笑顔を崩さず笑みを深める。精神的に今よりも幼かったことを知られていることに羞恥を抱きながら黙っているだけではないとユーディットは言葉を返した。

「ニールマン先生はそういった女性が好みと言うことなのですね」

「俺の好み!? ぁあ、そういう観点で考えたことは無かったな。従順な女は嫌いではないが馬鹿では困るし、邪魔にならなければ傍に居るのは構わないさ」

 声が驚きに彩られたのは一瞬で、俯いて即座に考え込んだニールマンの言葉は異性にもてる人間のそれで、見てくれと肩書きだけで異性を釣っているのかとユーディットは眉根を寄せる。

「俺の話は良いんだよ」

 そう告げるとニールマンは言葉を途切りユーディットに顔を向ける。

「君のこれからについてさ」

 途端畏まったニールマンの姿にユーディットは自然と背筋を伸ばしてしまう。何か重要なことを言われるのならば心構えが必要だ。

「何か問題でもありますか?」

「一見問題が無いから問題なんだよ」

 ニールマンの言葉に、ユーディットは口を半開きにして首を傾げる。問題が無いのならばそれが一番ではないかと心の中で反論するが専門家の話に口を差し挟むなんて分不相応なこと出来る筈もない。

「君の身体に付いていた傷も時間が癒してくれるだろうが、俺が気にしているのは目に見えない心的外傷の話だ」

 心の傷に触れてきたニールマンにユーディットは無遠慮だとも思うが、医者はそれを許されている。心の調子を気に掛けたのは初めてではないかとユーディットはニールマンを気味悪く思ってしまう。

「なんでそんな話をって顔をしている。そりゃ、俺は今迄君が悲しい苦しいと思ってきたことに対して対処療法はしたが根治療法はしていないで半ば放置していたからそう思うのも当然か。聖女が機能不全に陥るのは望むところではないからこんな話をしているのさ」

 理路整然としたニールマンの人情味が欠けた言葉にユーディットは納得をして言葉の先を促す。

「何が言いたいのかと言えば、君がいくら傷なんてないと虚勢を張ったところで存外身体は正直だってことさ」

 ニールマンの言葉が理解に至らずユーディットは怪訝な顔をすれば、ニールマンは察しの悪い女だ、と嗤った。

「沈む心のまま身体が鉛のように重くなることがあるってことさ」

「まさか、そんな――」

 疑いの言葉を漏らしたユーディットは平素と変わらない。だが、目に見えぬ傷は負っているのだとニールマンは考えている。それはユーディット本人が自覚していないものかもしれないが、何れ歪みは表層に響くだろう。

「心と体は密接に繋がっているからね。馬鹿に出来ないことさ。何かあったら相談をして欲しい。君を診察するのはどうせ俺だろうからね」

 親切すぎる、とユーディットは警戒心が頭を擡げてしまう。以前のニールマンはもっと淡泊で聖女に対する敬いもなければ蔑みもない、ビジネスライクな距離間のある男だった。

「先生こそ、先程から私を気遣って、何か悪いものでも食べたのですか?」

 もしや、目の前に居るニールマンは自分の知るニールマンでは無いのかとユーディットは疑い始める。疑義の眼差しに身体を撫でられたニールマンはそんなに事務的に接していたかと思い起こして、尤もだったと納得した。

「君に興味が湧いた。心身共に健康でいてくれなければ困る。だってそうだろう。人の手を接合しただって!? なんだ、それ。荒唐無稽にも程があるだろう。そんな力どこにある? あり得ないだろう。今度誰かしらの腕を切るからもう一度目の前でやってくれ。ああ、君が治した男の腕を見たが傷痕なんてなくて、本当に切り落としたのか? 警備隊の連中に聞き回っても切り落としたって言うし、切り落とした本人は凄い嫌そうな顔しているし、確かに切ったんだよな? 切り落とした骨がどうして接合しているんだ。一体何をしたんだ」

 興奮して詰め寄ってきたニールマンにユーディットは現実感の薄いことを思い起こす。倒れていたマティアスの腕を掴んで、目映い光に導かれるように傷口に接着したのだ。冷静になって思えば何をしたんだ、と思うが、あの時は、そうした方が良いと思ったのだ。

「……わからないです」

 何か特別なことをしたわけでもない。

 自分の制御下の話ではないとユーディットは頭を振った。

「まぁ、即座に解明されるとは思っていないさ。意識して出来るようになったら、それこそ君は人の枠では収まらないだろう」

 配慮に欠けたニールマンの言葉にユーディットは咨嘆するがそれは誰の目にも触れることは無かった。

「それからもう一つ伝えておくことがある」

 不意に声色が変わったニールマンにユーディットは顔を上げて言葉を待った。

「それは――」




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