第25話 転徙




 薄明に目を眇めながらテオフィルは久しぶりの外の空気を大きく肺に引き入れる。こんなにも空気は爽やかなものだっただろうかと思うが、埃にまみれた窮屈な部屋の片隅に転がされていたのだからそう思うのも当然だったと思い直す。荷馬車の後ろに乗るように急かされるように背中を突かれれば、既に荷馬車で座り込んでいるユーディットに目を遣る。体調が芳しくないのはテオフィルから見ても明らかだった。素早い回転を見せる思考回路は鈍く状況把握に務める筈の双眸は焦点が覚束ない。何も出来ない自分をテオフィルは苛んでしまう。

「ほら、早く乗れよ」

 後ろ手に拘束されたままのテオフィルは背中からの力に呆気なく幌の付いた荷台に崩れ落ちるように倒れ込んだ。

「テオフィル、大丈夫?」

 思いの外あえかな声にテオフィルの背はぎくりと凍り付く。こんなにも衰弱しているのか、と無力さに申し訳なさが募っていく。

「ユーディット、平気だよ、俺は」

 ニカッと笑ってテオフィルがアピールすればユーディットがふうわり、と儚い笑みを浮かべる。ほんの少しの安堵と多くの憂慮が綯い交ぜになり、何か言葉を続けなければと思うのに上手く言葉を紡げない。

「ユーディット、俺――」

「大丈夫よ」

 気遣われた、と羞恥でテオフィルは顔を赤らめて俯く。思えば、弟が居るユーディットは年上のテオフィルを弟のように扱う節がある。女の子の方が精神の成熟が早いと言われていることを思えば、それも当然だったのかもしれない。

「大丈夫」

 この声にどれだけ鼓舞されて来たのだろうかとテオフィルは思いながら身体を起こしてせめて、とユーディットの隣に座り込む。これで、何かあった時、身を盾にすることが出来る。

「ユーディットは俺が守るから」

 フォルトゥナートのような技量が無くともその思いだけは紛うことない真実なのだから胸を張ってテオフィルは告げる。驚いたような顔をしたユーディットはやおら、それを収束させて、片笑んだ。

「ええ、知っているわ」

「仲良しだね、聖女様達」

 揶揄するような声が二人の間に割って入る。麻袋を担いだヴェンデルは楽々と荷台に乗り込むと二人の対面に座り込む。フイッと顔を背けたユーディットの姿を視界に捉えたヴェンデルは下卑た笑みを浮かべる。粘度はないが、他人を容易く苛立たせる笑みだ。

「冷たいな聖女様。知らない仲じゃないだろ」

「………………」

 思わずテオフィルはどういうことかとユーディットに顔を向けるが、話す価値などないとでも言いたげな様子でユーディットは顔を背けたままだ。

「その大事な子に話してあげたらどうだ? 黙ってるなんて酷いじゃないか」

 その声に肩を跳ねさせたユーディットはヴェンデルを見据える。その真っ直ぐな眼差しにヴェンデルは一瞬、気圧されてしまう。自分が手負いになることを厭わない強い意思を孕んだ双眸だ。

「おお、怖い」

 軽口を叩くとヴェンデルは肩を竦めてみせる。

「何やっているんだい、ヴェンデル。奥に詰めてくれ」

 ルーヘンの声に軽く手を上げたヴェンデルは尻を浮かせてズリズリと先頭部分に詰める。息を一つ吐いて、テオフィルとユーディットを興味深げに見詰めたルーヘンは座布団を敷くと腰を下ろした。

「ああっ、おいっ!! マティアス、そっちじゃなくて、お前もこっちなっ」

 ヴェンデルは膝立ちになると他の荷馬車に乗り込もうとしたマティアスに声を掛けた。

「ぐずぐずすんなよっ!!」

 立ち止まり逡巡していたマティアスはヴェンデルの一喝にフラフラと荷馬車に近付いていく。

「折角だし、お前もこっちな」

 そう言うと、ヴェンデルはマティアスを荷台の上に上がらせて座らせる。

「出してくれ」

 御者にヴェンデルが声を掛けると同時に荷馬車はガタンと音を立てて前へ出発した。

「ほら、持っとけよ」

 荷台の隅に転がされていたスモールソードを手に取るとヴェンデルはマティアスにそれを投げ渡す。眼前の遣り取りを沈黙を持ってルーヘンは見守ると茫然としているマティアスに目を遣る。

「それなりに強いんだから、何かあった時は頼みますよ」

 ルーヘンの言葉に顔を強ばらせたマティアスを窃視してテオフィルは内心首を傾げる。フォルトゥナートや警備隊を見て目が肥えているからか言われるように強いようにはテオフィルには思えなかった。一般人に毛が生えた程度、とフォルトゥナートに言われる識別眼だから確信はないが奇妙な違和感をテオフィルは抱く。

「………………」

 まただ、とテオフィルはマティアスを見詰めて思う。ユーディットを捉える度に哀切を帯びる双眸は何を意味しているのか。二人は知り合いなのではないか、とテオフィルは思う。ユーディットに結局尋ねることは出来なかったが、なんとはなしに漠然と思うのだ。「聖女様、ごめんね。あいつもさ、昔の女よりも今の仲間の方が大事だって」

 ヴェンデルのその言葉に叫びそうになったが、それを押し止めるとテオフィルは思わずユーディットとマティアスの顔を交互に見てしまう。恬としているユーディットに反して動揺するマティアスの様子にテオフィルは内心混乱してしまう。昔の女なんて言い方はそれこそ親しかったのだろうが、ユーディットと初めて会った時には色恋の影形も無かった。それよりも前、少女と呼ぶよりは女の子といったユーディットが親しかった人、と考えるがそれはどの程度の質量を持っていたのか疑問が残る。テオフィルの初恋とてそのぐらいだが、その女の子に好きな人が居ると聞いた日には三日三晩落ち込んで泣き暮らした程度だ。ユーディットのボーイフレンド、なんて知ったら警備隊の隊長格三人がどういう顔をするかと想像してしまいテオフィルは複雑な表情をしてしまう。ユーディットを信奉しているエルラフリートの反応はテオフィルにも想像出来ないが、ノルドはボーイフレンドがいたユーディットに安心しそうだしこれからを嗾けそうだ。クヴェンは、と考えるが出し抜いたユーディットに対して高評価だったから今市、焦点が絞れない。ユーディットの初恋の人、というのはあながち間違っていなかったのだろうかとテオフィルはマティアスを窃視する。派手な美形ではないが、確かに顔立ちは整い目立つ部類に入るだろう。白銀の髪はキラキラと輝くし深緑の目はエメラルドのように瞬いている。上背もあり、テオフィルからすれば十分羨ましい体躯だ。ユーディットの初恋の人かも知れない人間が眼前に居て、漸く現実味を帯びていく。どこかでユーディットが誰かを特別扱いする筈がないという意識が働いていたのだ。それは五年の付き合いで誰かに心を傾けたりする様子がなかった上、汎愛の持ち主だったのが大半の理由だ。もし、ユーディットにそういう良い人が居るとしたら、という問いがあったら誰もが口を揃えてフォルトゥナートの名を言うだろう。テオフィルとて、誰か一人を挙げろと言われればフォルトゥナートを躊躇いなく告げるだろう。それぐらい男の影なんてなかったのだ。途端、胸宇を過ぎる小さな痛みの正体をテオフィルはぼんやりと把握しながら荷馬車に揺られた。

 ガタン、と石ころを踏んだ車輪の所為で少しだけ荷台が傾いた。

「きゃっ」

 小さな悲鳴をあげたユーディットは臀部を打ち付けたのか眉根を寄せている。

「ユーディット」

「大丈夫よ、これくらい」

 それが強がりだと言うことをテオフィルは理解している。暴いたところで救えるわけでもなく、テオフィルはただ頷くことしか出来なかった。

「本当、似ていますよね」

 しみじみと告げたルーヘンは乗り込んできた時と同様にテオフィルとユーディットを交互に見る。

「聖女様って弟いるって話だったよな」

 そういえば、と、言葉を重ねたヴェンデルの視線がテオフィルに向けられる。テオフィルの答えを期待をしている眼差しに答える義理はないとテオフィルは口を噤むがヴェンデルの手が荷台に転がっているスモールソードに手を伸ばしているものだから脅されている気分に陥る。

「――まさか、私の弟はもっと可愛いわ」

 テオフィルを助ける為だったのか気力を振り絞ったのかユーディットは何でも無いことのように告げる。

「へぇ、自慢の弟様か」

「そうよ」

 やけにはっきりした言葉がテオフィルの耳朶に触れた。里心が付くからと聖女を監督している文官から家族のことには触れるなと言われており、考えを異にしていたがテオフィルも思い出が悲しくなるのは可哀想だとあまり触れないようにしてきていた。それでも、時折話せば幸せそうに微笑むものだから幸せの象徴だったのだと羨ましくも思ったのだ。


「そうか。いいな。俺の弟は流行病で呆気なく死んださ」


 今日の食事の内容を告げるように軽やかに告げたヴェンデルにユーディットの顔が強ばったのをテオフィルは目視した。それは一瞬のことで、直ぐに真顔になったがユーディットが罪悪感めいた感情を抱いていないか気がかりだった。

「同じ命なのに、なんでなんだろうな。あんたの弟は生きていていいな」

 それは皮肉とも羨殺ともとれる口調でテオフィルはユーディットに危害が及ぶこと懸念して、もしもの時は身体を盾にしようと覚悟を決める。

「この世界は平等じゃないさ。富める者は一層栄え、持たざる者は搾り取られていく」

 思いの外穏やかな口調でヴェンデルが言うものだからテオフィルは面食らってしまう。感情の起伏が激しいとばかり思っていたが殊更静かなのは奇異だ。

「民を救済する筈の聖女も役に立たない」

 ユーディットの肩が揺れたのをテオフィルは隣で感じ取る。自分の無力さを誰よりも苛んでいるのはユーディットだということをテオフィルは知っている。だからこそ、ユーディットは他人の期待に、望む姿に応えようと固執している。

「……そうよ。聖女は万能じゃないわ」

「開き直りですか」

 口を差し挟んだのはヴェンデルの隣に座っていたルーヘンだ、呆れたような失意の眼差しをユーディットに向ける。気勢に一瞬怯んだようにユーディットは背を逸らすがグッと踏みとどまる。

「私は人間だもの。私の小さな両の掌で救える者なんてたかが知れてるわ。でもね、私は出来る限り零さないわ」

 真っ直ぐな目を向けるユーディットに、それに何の価値があるとでも言いたげな様子でヴェンデルは鼻で笑った。

「聖女の慈悲の手から零れた奴はどうすれば良い」

「っ……――!!」

 返答に窮したユーディットの姿にテオフィルは思わず口を挟んでいた。

「さっきから、聞いてりゃ、ユーディットに助けて欲しい、誰かに助けて欲しい、ってそればっかじゃないか。人間はな、自分の足で自分を支えることしか出来ないんだ。支えることは出来ても、結局本人しかどうにか出来ないんだ。自分の背負ったものを誰かに預け渡すなんて、そんなのただの甘えで怠惰だ」

 淀みなく言ってしまった、とテオフィルは微かな悔いを抱く。相手を煽るような発言は控えるべきだったが、ユーディットが責められていて、ユーディットが今迄積み重ねてきた時間を知っていて、どうしても我慢ならなかった。

「そう言えるお前は恵まれているんだろうよ」

 激昂すると思われたヴェンデルは意外にもテオフィルの言葉を受け流す。

「聖女の恩恵を受けているんだろう」

 言葉を重ねるとヴェンデルは酷薄な笑みを浮かべた。

「そんなことないわ。私に似ている遠縁と言う理由で未来を制限されて利用されている。これの何処が恩恵なの」

 テオフィルへの不当な評価に苛立ったようにユーディットは抗議をするがヴェンデルは哀れむような視線を投げかけて舌を鳴らした。その行儀悪さにユーディットが顔を顰めて、ヴェンデルは熙笑した。

「気付いていないなら、何れ失って分かるさ」

 それを知らない者に対して知っている者として振る舞うヴェンデルの発言が癪に障るが、自分の思慮が万能では無いことをユーディットは理解している。世界は自分が考えるよりも厳しくて残酷だ。運命という言葉で括らねばならないほど、翻弄される人生の儚さというものがある。

 ヴェンデルが大事そうに片脇に置いている麻袋に目を向けてユーディットはそれが力の源泉なのかと思考をなぞろうとするが、持っている常識も違えば、信条も違い、咎を背負う男の思案には及ばない。

「そんなものの為に、って顔をしている」

 鼻で笑ったヴェンデルに見当違いだと否定の言葉を投げかけること無くユーディットは言葉の先を待った。

「金は邪魔にならないだろう」

 眉根が寄っただろうなとユーディットは自分の眉間の動きを自覚しながら細い息を吐き出した。傍らで動いた空気にテオフィルへと視線を向ける。

「人から金をせしめて、良心の呵責とかないのかよ」

 深く考えず思ったままを口に出す、とユーディットはテオフィルを咎めるように睨むがそれをテオフィルは気付かない。自分達が人質だと言うことを忘れているのではないかと不安になる。

「金に色はついていないだろう。なくても困らないとこから貰っただけだ」

 悪人の理論としては筋が通っているのだろうとユーディットは形ばかりの納得をする。


 不意に荷馬車が止まる。


「どうした?」

 目的地ではない場所で止まったことに気付いたヴェンデルは慌てて馬の手綱を握っている男へ顔を向けた。

「いや、道が塞がれていて――」

 言い淀んだ男にヴェンデルは馬の先に目を走らせる。そこには大破した馬車が二台崩れるような形で道を塞いでいた。壊れた馬車の傍らには乗っていたと思われる男達が困却した様子で立ち尽くしている。大破した馬車を避けて道を通るにはとヴェンデルは視線を投げるが、道の片側は緩やかな斜面、もう一方は大木が塞がっている。

「どうしますか?」

 男の尋ねにヴェンデルは行儀悪く舌打ちすると思案顔をして口を開いた。

「……行き先を変更する。分かれ道に戻ってメーヴェへ向かう」

 ヴェンデルの言葉に頷いた男は後続の荷馬車に合図を送って方向転換を促す。

 再びの車輪の回る音と震動にテオフィルは身体を揺らしながら、ヴェンデルの告げた行き先に思考を割く。

 メーヴェ――ヘルツベルク侯爵領内の大きな市の一つである。

 王領から侯爵領に移動するということは、フォルトゥナートや警備隊の権限が及ばなくなるということであり、それに気付いたテオフィルは思わずユーディットを横目で確認する。表情の変化に乏しいがユーディットも不利な状況に追い込まれていることを口惜しく思っているのを付き合いの長いテオフィルは察する。声を掛けようにも目の前にヴェンデル達が居る為テオフィルは控えざるを得なかった。

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