第20話 その感情の名前




 目隠しをされて違う場所に連れられた、ということだけユーディットは認識した。眠りに落ちる精神状況では無く、薄明かりが差し込んだ朝方、爛々と輝く目には件の男の姿が映り、ユーディットは込み上げてくる嫌悪を飲み下した。無遠慮な手で僅かだが髪を切られて、はらりと落ちた髪に心がこそげられたような気がしてしまう。暴力で人は支配出来るのだとユーディットは視線が絡まないマティアスを見て思う。明確なヴェンデルに対する怯えに優しさは容易く恐怖に塗り替えられることを教えられてしまう。

「聖女様、元気?」

 ニタニタと下卑た笑みを浮かべたヴェンデルに、昨日されたことを思い出されてユーディットの身体が目に見えて強ばる。男の生臭い白濁した粘液が肌に付着したこと、服に浴びせられたこと、その屈辱に身を震わせる。嫌悪を滲ませたユーディットをさも楽しげな様子で見詰めるヴェンデルは、自身の優位を疑っていない。

「弱者の役に立って、さぞ気分は良いだろう。聖女様」

 昨日のことを想起させるようなことを告げるヴェンデルにユーディットは警戒する。その仕草を怯えとみたのかヴェンデルの笑みは一層深くなる。

「あはは、可愛い。聖女様、今日はもっと楽しいことするか」

「ふっ、ふざけないで」

 目一杯の強がりを見せるユーディットの心の裡を分かっているのかヴェンデルは獲物をいたぶるように床に座っているユーディットに一歩近付く。

「ほら、昨日みたいに俺を誘ったら?」

 スカートを靴先で捲り上げて露わになった太股をヴェンデルは屈んで手で触れた。

「触らないで」

「酷いな、聖女様。あんなことした仲なのに。俺は聖女様に救って欲しいだけだって」

 よく口が回る、とユーディットはヴェンデルを睨み付ける。この男の言う救済とユーディットの救済は同質のものではない。馴れ馴れしくなった気安さは昨日のことが因由かとユーディットは容に倦色を浮かべてしまう。

「金ももうすぐ手に入る」

 気分が高揚しているのか口を滑らしたヴェンデルにユーディットは取引が行われたことを知る。

「ならば、お役御免でしょ。私を解放しなさい」

 金銭と引き換えたのならば捕らえている必要は無いだろう、とユーディットは合理的に訴える。

「どうしようかな」

 惑うヴェンデルの様子はユーディットも予想していたものだった。悪人が、一度の要求で満足する筈がない。

「聖女様、可愛いし、いざとなったら楯に出来るし、便利だと思わない?」

 自分を連れて逃げるのか、とユーディットは色を失う。身代金の要求なんて途方も無いことをしでかした連中に道理を説いても難しいことは理解していた。

「身代金の誘拐なんて難度が高いのよ。捕らえられるわ」

「そこはさ、俺達もちゃんと考えている」

 自信ありげな顔で笑ったヴェンデルに、まだ何かあるのか、とユーディットの胸宇に微かな不安が過ぎった。




「――テオフィルは、宿舎に戻した」

 情報共有の為にノルドを呼び寄せたクヴェンは端的に告げた。フォルトゥナートはエルラフリートと情報共有の為に移動をしている。この場に居るのはクヴェンとノルドの二人である。

「影ちゃん、戦えないからね。まぁ妥当だよね」

 クヴェンの判断に同意したノルドは話はそれだけか、と立ち去ろうとする。

「テオフィルが、渡されたのは聖女からの手紙だった」

 クヴェンの言葉に足を止めたノルドは振り返って、そう、と言葉を漏らした。興味が無いふりをしているが足を止めたのがそれを否定している。

「それだけなら、持ち場戻るよ」

「待て。手紙に髪が添えられていた」

 事実を伝えるのにこんなに労力を使うとはクヴェンは思っていなかった。反応が怖いわけではないが、躊躇したのはこの先を憂慮したからだ。

「………………」

 ノルドの容に変化が無かった。ああ、とクヴェンは嗟悼するように頭を振る。目に見えない怒りというのは質が悪い。憂慮していない、憐憫など抱いていないと言いながら、その実傍目には肩入れしているようにしか見えない。ただの少女である事に拘泥しているノルドの気持ちは察するに余り有る。身体の中の衝動を抑えこむかのように腰の据えた剣の鞘をきつく握りしめるノルドの姿をクヴェンは目撃してしまう。

「念の為、共有しておく」

「聖女なんてクソみたいな仕組みに取り込まれるから、こんなことになるんだ」

 吐き捨てるように告げたノルドにクヴェンは同意は出来ない。ユーディットは聖女だ。それ以外の何者でも無い。聖女となった日から、命が果つるその日迄、ユーディットは聖女にしかなれない。ノルドが言う通り普通の少女になんてなる選択肢はない。それとも、悪行を為せと言うのか、と思いながらクヴェンはノルドに目を遣る。

「聖女なんてやめれば良いのに」

 夢みたいなことを告げるノルドにクヴェンは呆れた眼差しを向けてしまう。聖女であることに関してユーディットの意志は欠片も介在していない。どう、思おうが動かしようのない事実というものがそこに横たわっている。

「随分と無茶を言う」

 分かっている筈だろう、とクヴェンは眼居で告げればノルドは苦い顔をする。それは自分の言っていることがどれ程無理筋か理解している顔だ。

「まさか、聖女に拘泥しているとはな」

 意外だとばかりに首を竦めたクヴェンにノルドは容に慍色を浮かべる。

「それは隊長の方でしょ」

 執着していることを否定はしないのか、という考えがクヴェンの胸宇に過ぎるが、然もないことだと打ち消した。

「お前と一緒にするな。俺は聖女が聖女であれば良い。あれは女としては肉付きが悪い」

 恋愛対象のそれではないと示唆したところでノルドが疑義の眼差しを向けてくるものだからクヴェンは微かに苛立ってしまう。

「聖女ちゃんのことそういう風に見てるんだ。へぇ、そうなんだ。知られたら、きっと、怒ると思いますよ」

 それを受けたことはないが、想像するのは自由だとノルドはユーディットを思い描く。

「見当違いだ。自分がそうだからって人にそんなレッテルを貼るな」

 呆れた声をだしたクヴェンにノルドはきょとんとして見返した。その振る舞いに虚飾は見当たらない。心底意外だというノルドに、こいつ大丈夫か、とクヴェンは思案顔を向けてしまう。

「はは、まさか。それこそ隊長の勘ぐりですよ。俺は、そういうんじゃないです」

 虚を衝かれたように、剥落したノルドの一人称にクヴェンは気付く。それが何を意味しているのか推量の域を出ない。確かに、無条件に誰かを守りたいと思うそれは一概に愛情だとは言えないだろう。だが、そこにあるのは紛れもない純度の高い情でノルドが特別視していることはクヴェンにも容易く察せられる。

「っ……――」

 言い募ったところで平行線だろう、とクヴェンは推断すると吐き出そうとした言葉を飲み込んだ。他者からの指摘によって理解したそれと自覚したそれとでは、その後が変わるだろう。それに態々ほのめかす程野暮でもない。

「っ――!!」

 静寂に響く高い音にクヴェンは視線を建物へと向けた。

「何か、騒がしいですね」

 建物の中から何か声が途切れ途切れ聞こえるがその全てを拾い上げることは出来ずノルドは首を傾げる。窓に映し出される影が不自然に揺れる。動揺が手に取るように伝わってくる。

「何かあったみたいですね」

 突入するのか、とノルドは眼居でクヴェンに訴える。様子を窺っていたクヴェンは強い意志を双眸に宿らせて合図を送った。




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