第16話 月影





 明かり取りから差し込む細い淡い光にユーディットは床に沈んでいた身体をほんの少し起こした。月の光は人の邪念を浄化する力があるというが、それが本当ならば力添えをして欲しかった。昼間酒に濡らされた髪は乾いたが、鼻腔にアルコールの匂いを掠めるものだから、今のみっともない姿を想起してユーディットは項垂れる。少し、気を緩めたくなる。誰の目に晒されることのない無防備な自分にユーディットは情けなく思いながら、気持ちを切り替えようとする。ともすれば、深く沈みそうな気持ちを浮上させようとするが、いつものように上手くはいかない。傍に、在る筈のものがないからだ、と分かりながらユーディットは気持ちを立て直そうとする。無様な自分に途方もなく情けなく思うのは仕方が無いだろう。普段力を込めない腹筋に力を入れる態勢は何れ痛みを訴えるだろう、と思いながらユーディットは周囲を窺う。先程まで騒がしかったごろつき達は、剣呑な単語を漏らしながら引き払っていった。拾い上げた言葉を組み合わせたユーディットは明日、金銭と引き換えで自分の身柄が警備隊に引き渡されることを推測する。迷惑を掛けている、その一点にユーディットの羞恥は尽きる。のたうち回って転げ回りたいほどだが物音を立てるわけにもいかず発散出来ない衝動が身体の中を駆け回る。不安は不思議と無かった。ただ只管申し訳ないだけだ。自分に不慮のことがあろうともテオフィルが居る、フォルトゥナートが上手く立ち回る。十全の信頼があるのだから、もしもの話にもユーディットには危惧はない。聖女の輪郭があれば中身はなんだって良いのだ。自分を苛む言葉を理解していたつもりだった。形だけの聖女、何も救済しない、在るだけの存在。思ったよりも鋭いそれはユーディットの胸を適確に抉った。

「痛いなぁ……」

「痛いのか?」

 不意に聞こえてきた声にユーディットは顔を向ける。人にこんなに近付かれているのに察知出来なかった迂闊な自分を心の中で叱責する。

「マティアス」

「ユーディット、水は飲んでいるけど食べ物食べてないだろ。パン持ってきた」

 食べる気分ではない、と告げようとするが実物を見ると途端に腹が空いてくるものだから、不思議なことだとユーディットは居住まいを正した。

「食事より聞きたいことがあるんだけど」

「なんだ?」

 パンを千切ろうとしたマティアスの手が止まる。

「悪人に荷担しているって分かってる?」

 沈黙が落ちる。真顔で告げたユーディットにマティアスは困ったように眉を下げて、力なく笑みを漏らす。その姿が思い出の中のどの彼とも重ならずユーディットは溜息を漏らした。

「私をいじめていた豪胆な男はどこへ消えたの」

 邂逅した際に、あ、その、とらしくない物言いをするものだから他人の空似かと思いかけていたユーディットを引き止めたのはマティアスだった。

「いじめては、ない」

「認識の齟齬というやつね」

 やれやれと首を振るユーディットは悪ガキだったマティアスに何があったのか気になってしまう。周囲を巻き込み恣意の限りを尽くした男が他人に対して常に萎縮するなんて、何かしらの転換点がなければ納得出来ない。

「ユーディットは凄いな、その点俺なんか――」

 しおらしげな様子を見せるマティアスにユーディットは気味の悪さを感じてしまう。謙虚と言うよりは卑屈なその振る舞いは思い出の中の暴君には似つかわしくはなかった。何があったのかと問い掛けるより先にマティアスは乾いた笑いを漏らして言葉を続けた。

「世間は広いんだよ、ユーディット。俺、程度の奴なんてその辺ゴロゴロしてるんだ」

 鼻っ柱を盛大に折られたのか、とユーディットはマティアスをほんの少し哀れんでしまう。片田舎の自尊心のある男が己の器量を顧みず都会に出て本物と出会った時の衝撃は察するに余り有る。

「それで、どうしてそうなるのかしら」

「聖女様には分からないさ」

 ユーディットの言葉にマティアスは冷たい言葉で撥ね除ける。こちらを窺う眼差しは何かを期待しており、ユーディットは見覚えのあるそれに辟易とする。慰めの言葉なんて、なんの益にもならない。

「ええ。分からないわ。他人に平伏して、自分らしさを損なうなんて負けているじゃない。他人に勝つ前に、自分に負けているなんて惨めだわ」

 勝負にもならない、とユーディットは鼻息も荒く告げる。怫然と色を作したマティアスにユーディットは柔らかな笑みを漏らす。

「傷ついた? 傷付けるのよ、貴方。ちゃんと矜持を持ってる。どんなに汚泥に塗れようとも培ってきたものはそう簡単に腐らないわよ。貴方、このままだと誘拐犯の一味よ。それとも、貴方、私をおびき寄せたの?」

「違っ、俺は、ユーディットに会えて嬉しくて、それで皆に自慢したくて、それで――」

 引き合わせて、聖女だとバレて金になると捕まったのだ。なんとも馬鹿らしい、話である。思い起こしてユーディットは羞恥で身悶えするが、マティアスは気付いていないのか不思議そうに見詰め返すだけだ。

「助けられなくて、ごめん。傷付けてごめん」

 労るように伸ばされたマティアスの掌を躱すことも出来たがユーディットはそれを受け止める。

「貴方が、やったわけじゃないもの」

 ニカッと聖女スマイルとは違う笑みを浮かべる。それは子供の時の無邪気な笑い方に重なってマティアスは肩を落とす。

「止められたのに、止めなかった。標的が俺になるのが怖くて、なにも出来なかった」

 自分より弱者を強者に差し出した卑怯なやり口を悔いるようにマティアスは唇を噛みしめる。

「パン、くれるんじゃなかったの?」

 気まずくて思わずそう口早に告げたユーディットはマティアスの手の中にあるそれを目で指し示す。

「あっ、悪い。ほら、口開けて」

 一口大に千切ったパンをマティアスはユーディットの口に運ぶ。普段食べているのとは違う、古いパンの味をユーディットは噛み締めながら味わう。

「ほら、口開けて」

 食べさせようとするマティアスの姿に鳥の給餌を想起してユーディットは笑みを零してしまう。

「どうした?」

「なんでもないわ」

「何も出来ない、聖女様に役に立って貰おうと思って来たら、密会かよ」

 ドアが小さな音を立てて開いたと同時にアルコールの臭いが辺りを包む。第三者の登場にユーディットとマティアスは遽色を浮かべる。

「なんだよ、仲良しなんだな」

 どちらを標的にしていたのか定かではないが、ユーディットは自分の目がヴェンデルの足が振り抜いたのを捉えた刹那、目蓋をきつく瞑った。

「ぐっ、っ!!」

 床を跳ねたマティアスの手からパンが床にトントンと零れ落ちた。

「マティアス!!」

 衝撃音にユーディットは名前を呼ぶがマティアスの反応は希薄だ。指先が声に応えるように僅かに動くが力なく床に下ろされる。

「聖女様、そんな奴よりも俺の相手をしてくれよ」

「はっ?」

 距離を詰められた、とユーディットが思った時にはヴェンデルが覆い被さってきていた。後ろ手に縛られた手が自分の身体の下敷きになり、ユーディットは身を捩る。それをどう受け取ったのかヴェンデルは下卑た笑みを浮かべた。

「お綺麗な聖女様、いつまでその強気が続くかな」

 スカートを捲り上げられて、膝頭にヴェンデルの掌が触れる。熱い男の体温を直で感じてしまいユーディットは蹴り上げようとするが、それを制するように膝を押し上げられてしまう。

「何をする気、かしら」

 弱気にならないよう己を叱咤してユーディットはヴェンデルを睨み付ける。

「良い子にしてたら、気持ちいいことしかしないって」

「ふっ、不敬よ。やめなさい」

 毅然とした態度で拒んだつもりの声は微かに震えていてユーディットはこの状況を打破する策を頭の中で考えるが思い浮かばない。

「聖女様だっていいもん持ってるんだから、活用しない手はないだろ」

 無遠慮に左胸を鷲掴みしたヴェンデルにユーディットは羞恥で顔を赤らめてしまう。それが望んだ反応だったのかヴェンデルは舌舐めずりしてユーディットの首筋に手を這わせる。ゾワリ、と肌が粟立ちユーディットは恐怖が心に追い着いてきたことを自覚する。

「痛っ――」

 露わになった肩口に噛み付いた粗野な男にユーディットは涙目でキッと睨み付ける。怒気を撒き散らかしても平然とした顔を崩さないヴェンデルにユーディットは警戒を込めて見詰める。凝視されたことをどう思ったのかヴェンデルは口の端を歪めた。

「こういうの初めて? 騎士様とヤってるんじゃないの」

「見当違いも甚だしいわね」

 弱気を見破られないようにユーディットは虚勢を張るが、それを見抜いているのか、それとも自分の優位は変わらないと認識しているのかヴェンデルは酷薄な笑みを浮かべるだけだ。

「折角なんだから、聖女様も楽しもうよ」

「結構よ。さっさと離れなさい」

 両手が封じられている状態での抵抗なんてささやかなものだがユーディットは諦観することなく身体を遠ざけようと身を捩る。

「いい加減諦めなよ」

「お生憎様。諦めが悪いのよ、私」

 両足の間に身体を滑り込ませてきたヴェンデルに態勢を変えてユーディットは膝蹴りをしようとする。肩を押さえていたヴェンデルの左手が滑り柔い脇腹を掴む。痛みで起こしていた身体を再び床に伏せるとユーディットは腹部に置かれた掌に徐々に力を込められたことに気付く。無防備な臓腑を人質に取られているも同義だ。

「ぐっ、ぁぁぁっ」

「可愛いね、その苦しむ顔」

 痛みで顔を歪めたユーディットの姿を見て嬉笑するヴェンデルは大凡ユーディットの知る人間の感覚とは乖離している。おぞましいものを見る眼差しを投げかければ、ヴェンデルはうっそりと笑うものだから一層の恐怖が煽り立てられる。

「役に立たない聖女様を役に立たせてあげる」

 肩口をベロリと舐められてしまいユーディットは細い悲鳴をあげる。気持ち悪い、その言葉だけが脳内を駆け巡り毅然とした態度で拒むことが出来ない。

「柔らかいな」

 今度は二の腕を噛まれてしまい、ユーディットの身体は簡単に跳ねた。その瞬間、太股に硬い何かが当たる。熱を持ったそれが更に強い力で押しつけられるものだから、何なのかと視線をそちらに向けてユーディットは瞠若した。

「っ――――」

 下半身を押しつけてきたヴェンデルの隆起した男性の象徴は服越しにも分かるほどで咄嗟に目を逸らしてしまう。知識としては知っているが、そういったことからは自然と遠ざかっていたユーディットには免疫がない。こういう場合どう対応するのが最善なのか困却してユーディットは視線が彷徨う。

「可愛い、聖女様、初心なんだね。生で見て触る?」

「ちょっ、やっ、やだ」

 恐怖を露わにして逃げるように距離を取ろうとするユーディットの姿を満足そうに見詰めるとヴェンデルは自身のズボンの前を寛いでそれを右手で掴もうとする。

「やっ――」

「怖がらなくても大丈夫だって、聖女様」

 殊更優しい声を出すヴェンデルに薄気味の悪さを感じてユーディットは肌が粟立つ。唇がわなわなと戦慄き、掠れた音が紅の影から零れ落ちる。

「やっ、来ないでっ」

 抗議の声は酷くあえかでユーディットの心情を投影していた。ズリズリとユーディットは距離を取ろうと後ろに下がるが、トンと背中にぶつかった壁の感触に絶望を感じる。

「大人しくしてたら、痛くしないから安心しなよ」

 獲物に対する優越感で舌なめずりしたヴェンデルの言葉にユーディットは拒むように頭を振る。

 明かり取りの窓から差し込む月の光に照らされて二人の影が重なった。

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