第11話 抵梧
「昨日の競技会、フォルトゥナート殿は見事でしたね」
部屋に入ってそう告げたエルラフリートに対する返事は沈黙であった。普段ならばユーディットかテオフィルが反応しそうものだが、心の中の思案に没頭しているのか反応は薄い。
「気にするな。朝からこの調子だ」
平素とは違い、フォルトゥナートが迎合を打つものだからエルラフリートは驚いてしまう。聖女への配慮に瑕瑾はないが、こちらに対しては譲歩がないのがフォルトゥナートだから気を遣われてしまい据わりが悪い。
「昨日のことで、取材の申込があるのですが如何されますか?」
「……フォルトゥナート、構わないわ。今日は予定がないもの」
フォルトゥナートに視線を向けられたユーディットは取材を受けることを認める。ユーディットの許可を得てフォルトゥナートは椅子から立ち上がった。
「では、フォルトゥナート殿はこちらへ」
フォルトゥナートとエルラフリートを見送り部屋にはユーディットとテオフィルの二人が取り残される。明日は市の為政者との会談がある為、本日は休養日となっている。普段ならばユーディットの外出にテオフィルとフォルトゥナートが巻き込まれるがユーディットは何かを思案しているのか沈黙を貫いている。一方、テオフィルと言えば昨日のフォルトゥナートとの口付けに平静を保つのに必死であった。
「ねぇ、テオフィル。何かあったの?」
気遣うようなユーディットの声かけにハッと我に返ったテオフィルは頬を紅潮させると頭を振った。
「相変わらず、嘘が下手ね」
クスクスと笑ったユーディットが癪に障りテオフィルは抗言しようと視線を向けて、普段とは違うユーディットに気付く。指先の爪は手入れもされていないし、切迫が容に滲んでいる。いつものことを後回しにしてもしなければならない何かがあるのだと推察できた。
「ユーディット」
「テオフィル、お願いがあるの」
焦慮に駆られた声に、テオフィルは嫌な予感がしてしまう。諾ってしまってはいけない、と頭の中で警戒音が鳴り響く。
「なんだよ。急に改まって」
いつものように傲岸に望みを叶えろと言えば良いのに、殊勝な様子を見せるものだから調子が狂ってしまう。出来るだけ望みを叶えてあげたいと思ってしまう。
「私の身代わりになって」
「いつもやってるだろ」
なんだそんなことか、と呆れた様子で答えたテオフィルにユーディットは頭を振った。
「違うわ。そうじゃないの。そういうことじゃないのよ。私、外に出たいの」
要領を得ないユーディットは言葉を選んでいるのか直截的ではない。
「外に行くのか。じゃあ、俺も付いていくよ。フォルトゥナートが戻ってきたら三人で――」
「一人で行きたいの」
遮られた言葉にテオフィルは目を瞬かせ顔を向ける。向けられた双眸に浮かぶ色は真率で、テオフィルはそれを目視して漸く、ユーディットの言いたいことを認識する。今迄、テオフィルは外側の人間に対して聖女を見せかけていた。だが、ユーディットが言いたいのはそうではない。幕の内側に対して聖女の皮を被れと言っているのだ。
「……なんで」
肯定も否定も出来ずテオフィルの口から零れたのは疑問の言葉だった。
「彼を見かけたから」
「彼?」
テオフィルの反芻の言葉にユーディットは顔を背ける。誰か一人に執心するユーディットを見るのは初めてでテオフィルは困惑してしまう。ユーディットは誰でも平等に大切にするが、一等大事にしているのは口に出さないが故郷に置いてきた家族だろう。それ以外の誰かの話なんて強く印象には残っていない。もし、そんな存在がユーディットに居るとしたらテオフィルが知る以前のことでしかない。聖女の養育の過程で呼び寄せられたテオフィルにはそれ以前を知る術はない。その時期の自分はどうだったかと思い起こすと特筆すべきは今は顔も思い出せない少女に思いを寄せていたことぐらいだ。ユーディットにもそんな相手が居たのだろうか。ふと、そんなことを思ってしまう。
「テオフィル、お願い」
懇願するように身内を欺して欲しい、というユーディットにテオフィルの心が揺らぐ。単独行動が危険なことはテオフィルも承知している。本来ならば、フォルトゥナートの協力を仰ぐべきだ。ただ、今、告げたのはフォルトゥナートにも伏せて欲しいというユーディットの願いの証左だ。
「でも……――」
反駁しようとしたテオフィルはこれまでを思い起こして言葉を飲み込む。小さな我儘ばかりで、ユーディットが周囲に気を遣ってきていたのはテオフィルも理解していたから否定の言葉が紡げなかった。
「危ないだろ、一人なんて。俺も一緒に行くよ」
妥協案をどうにか絞り出してテオフィルはユーディットに提示するが、表情は渋い。
「嫌よ。男連れなんて格好悪い」
反脣させてユーディットは不満を訴えてくる。能弁であればユーディットを説得することも出来ただろうに、テオフィルには欠け落ちている。こちらを探るような眼差しには期待と不安が入り交じっていて、望んだ通りにしてあげたくなる気分が頭を擡げる。相手の望みを退けた時の気まずさよりも、快諾してお互いにすっきりした方が楽に決まっている。
「んー、だけど、なぁ」
「テオフィル、私はそんなに頼りないかしら」
信じるに値しないだろうか、とユーディットが眼居で訴えかけてくる。否、とテオフィルは頭を振る。ユーディットの精神力や知慮に不安はない。いつだって、自分の窮地を救ってくれている。
「心配、なんだよ」
聖女然として気丈に振る舞っても、テオフィルにとってはユーディットは護るべき身近な女の子だ。
「知ってるわ。心配性でいつも皆のことを思ってくれているもの。でも、今回は譲歩して。大丈夫よ。私よ? 失敗なんてしないわ。会って、話をしてお終い。それだけよ」
ユーディットの紅唇から漏れる言葉は軽やかで、簡単なものに思えてくるから不思議である。ユーディットの指がテオフィルの服の袖を頼りなく掴む。
「テオフィル、大丈夫よ」
声に魔力なんてものはないのは理解しているが、ユーディットに言われるだけでそれが事実なのだと錯誤しそうになる。希望的観測に過ぎない言葉が真実の顔をしているなんて質が悪い。頭がクラクラしてくる。まともな判断能力が低下していく。
「わ、分かったよ」
押し切られた感が強いが頷いたのはテオフィルの意思だった。
何時間が経っただろうか。
ユーディットの代役は承諾したが、ユーディットの脱出はテオフィルの範疇外だった。何かあれば誰かによって連れ戻される筈だが、この時間になっても戻ってこないということはユーディットの企みが成功している証左だった。外の人間を欺す演技ではなく身内を欺す為の演技はテオフィルが思っているよりも精神を磨り減らしていく。ユーディットのドレスを身に纏い、夜の始まる間際の色のウィッグを付けるなんて何度も繰り返した筈なのに妙な緊張感が身体に充満していた。願わくは、フォルトゥナートが戻ってくるより先にユーディットが望みを叶えて戻ってくることだ。先程、お茶を持ってきた人物には“テオフィル”の不在を尋ねられたが、使いに出したとなんとか誤魔化したが、いつまで時間を稼げるかテオフィルにも確かではない。
窓の傍の椅子に腰を下ろしてテオフィルは入口のドアに背を向ける。待つとなると時間の進みが途端遅くなる。カチコチと鳴る時計の針の音が脈動と重なり合い、心が少し鎮まっていく。
――コンコン
ドアをノックする音にテオフィルは思わず背を正しながら返事をした。
「はい。どうぞ」
上擦らなかった声にテオフィルは安慮しながら肩越しにドアに目を向ける。フォルトゥナートだろうかと不安に思っていたテオフィルの視界に映ったのは予想外の相手だった。平素とは違い肩で息をし、ギラギラと射るが如き炯眼がテオフィルと視界に捉えている。それが、まるで戦闘中のフォルトゥナートを想起させるほど真率でテオフィルは咄嗟に身構えてしまう。
「っ、ノルド様」
ユーディットがそう呼ぶように名前を呼んだが、ノルドは反応を返さず、ツカツカと大歩きで距離を詰める。近付かれたと椅子から立ち上がりかけたテオフィルは伸ばされた手に防御するが、するりと躱した大きな掌はテオフィルの肩を勢いよく掴む。それが顔を覗き込む為の動作だとテオフィルが気付いたのはノルドと視線がかち合った時だ。掴まれた左肩が軋むように痛い。
「――ユーディットを何処にやったっ」
怒気を孕んだ低い声にテオフィルの肝は竦み上がる。獰猛な獣が持つ剣呑な眼差しに射貫かれて身体が硬直する。それと同時に、これが本物のノルドだ、と腑に落ちた気がした。声を発する事すら出来ないテオフィルをどう思ったのかノルドの空いている手はテオフィルの喉に掛けられる。緩やかに力を込められ、これは屈服させる為のものだとテオフィルは察する。
「ユーディット、テオフィルを何処に使いに――何をしているっ」
声と共にドアが開かれ、ノルドの力が僅かに弛められた隙を突いてテオフィルはノルドを押し退けて距離を取った。漸く、呼吸が出来る。
「どういうつもりだ」
ノルドとテオフィルの間に身体を滑り込ませたフォルトゥナートが眼光鋭くノルドを睨み付ける。腰に据えた剣に手を掛けているのがフォルトゥナートのノルドに対する警戒感を証明しているだろう。
「それは、こっちの台詞。聖女ちゃん、何処にやったわけ」
先程までの剣呑さを潜めたノルドはヘラリと掴み所の無い笑みを浮かべながら告げるが口吻は平素のそれとは違う。何かを察知したのか己が背で隠した人物をフォルトゥナートは肩越しに見遣る。
「……フィル、か」
小さく溜息を漏らしたフォルトゥナートに見詰められてテオフィルは気まずさで微苦笑する他なかった。
「フィル、どういうことだ」
事情を知っているだろう、とフォルトゥナートは眼居で説明を求める。馬鹿正直に言って良いことではないだろうことは流石のテオフィルも理解している。思わず視線を逸らすテオフィルにフォルトゥナートは不都合な事実を捕捉せざるを得なかった。
「フィル」
先を促すフォルトゥナートにテオフィルは根負けして、ゆっくりと口を開いた。
「外に出たいって……」
「本当に?」
疑義の眼差しを向けるノルドにはいつものような気安さはない。テオフィルの心奥を暴くような剣呑さがある。
「どういう意味だ」
反論の言葉を絞り出す事が出来なかったテオフィルを救ったのはフォルトゥナートだった。
「反聖女派に引き渡した、とか」
聖女を快く思っていない団体を指し示したノルドにテオフィルは身体中がカァッと熱くなったのを感じる。ユーディットの存在価値を毀損する相手へ通じているなんて最大の屈辱だ。
「テオフィルは、そんなことしない」
テオフィルの反駁の言葉はフォルトゥナートによって遮られた。激昂することなく、淡々と事実を告げたフォルトゥナートの横顔をテオフィルは見詰める。
「へぇ、そう」
ノルドは首肯したものの納得した声色ではないのはテオフィルにだって容易く分かることだ。今のノルドにとってテオフィルの言葉の真偽はどちらでも構わないのだろう。
「――あのっ、何かありましたか?」
騒ぎを聞きつけたのか開いたドアの隙間から顔を覗かせた隊士にノルドは目を遣ると小さく息を吐く。隊士の目に映るのは聖女を庇い立てる騎士とそれに相対する身内の姿だろう。察しが良い者ならば艶めいた物語を即座に組み立て危機感を募らせる場面だ。
「クヴェン隊長とエルラフリート呼んできてよ。至急」
「はっ、はい」
苛立ちを滲ませたノルドの珍しい声に隊士はシャンと背筋を伸ばして駆けだしていった。その音を耳で聞きながらも視線をテオフィルとフォルトゥナートから離すことなく凝視していることがノルドの深情を表していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます