第10話 在りし日の影




 露店の並ぶ大通りの道を軽やかな足取りでユーディットは歩く。聖女としての感覚をゆっくりと閉ざしていく。ノルドとの遣り取りで感じた不服も静かに掻き消えていく。誰でもない自分に塗り替え、日常に埋没することが出来る環境にユーディットは満足する。競技会場から少し離れた市の中央通りは人も多く擦れ違うのも難儀だ。熱を孕んだ高揚感から解放されている露店は平素は取り扱わないものが多いのだろう、興味深げに足を止める者が多い。あの大きな瓜はどんな味がするのだろうか、ユーディットは棚に行儀良く陳列されている緑の球体に目を遣る。横の店に視線を遣れば魚の切り身に醤醢を付けて小麦粉で焼いた薄い皮で包んでいる商品が並んでいる。次に鼻腔をくすぐるのは馴染みのない匂いだが、食欲をそそるもので胃が収縮した音が身体に響く。炙った肉に何かを粉を振り撒いている商人の姿を捉える。東方から流入したスパイスだろうか、と算段すると商人と目が合ってしまう。

「どうだい?」

「間に合っているわ」

 笑顔で躱してユーディットは歩を進める。商人と交渉する楽しそうな人達の顔を見て、胸がほっこりとする。こういう、長閑でありふれた幸せがユーディットにとって気力を補ってくれる。鼓舞してくれると言った方が正確かもしれない。他者の幸福を背負えるとは思えないが、何か与えることが出来たらと思うことがある。数多の冀求の中、切実で邪気のないものがあることをユーディットは知っている。それに応えることが出来ない自分の歯痒さに打ちのめされるのだ。何も出来ない、形だけの聖女。誰を救済することも出来ない。お飾りに利用されるのも当然な矮小な存在。無力さに平伏するのは屈辱だからと虚勢を張っているだけだ。


 ――ドン


 腰の辺りに衝撃を受けてユーディットは蹌踉めく。視線を向けるが接触した対象を捉えられず首を傾げた。視線を下げて、ああ、とユーディットは得心がいく。

「怪我はないかしら」

「……ごめんなさい」

 ユーディットの腰のあたりまでの身長の男の子がそこに居た。自身の立場を分かっているのか気まずそうな顔をしている。前方不注意だったのは両方だったのだろう、とユーディットは心の中で苦笑した。

「済みません、ほら、走ったら危ないだろ」

「ご迷惑掛けて済みません」

 男の子の両親だろうか、申し訳なさそうな顔をして頭を下げてくるものだから、不注意の自覚があるユーディットには居心地が悪い。引き攣った笑みを浮かべて謝罪を受け流した。すれ違い際、父親の右手が男の子の左手を自然に掴み、母親の左手が少年の右手と絡む。親子のありふれた光景にユーディットは思わず立ち止まり振り返ってしまう。遠ざかる小さな幸せの象徴を見送ってユーディットは前へと身体を向けた。

 羨ましい、という感情が沸くことはもうない。遠い記憶の果ての羨望は諦念に馴致された。ただ、自分にもそういう時があったと思い出すだけだ。無条件の庇護と無私の献身に包まれて、世界中の愛を注がれていたのだと盲信して疑っていなかった。引き裂かれることのない、瑕疵の無い幸福だと思っていた。何処かに居る、今は遠いその存在の幸福を祈るだけだ。ただ、対面するだけでも手順があるというのだから、自分達の繋がった血はそんなに薄弱なものなのかと嘲りたくなる。手放さざるを得なかった幸福を贄として差し出しているのだからそれ相応の結実がなければならない。離れた時には先程の子供と同じぐらいだった弟は今はどうなっているだろうか、なんて郷愁の念は抱くことすら許されない。国の庇護の元幸福を保証されているのだから、時折思い出す程度の薄情な憂慮なんて、無駄な心配に他ならない。聖女となって得たものと失ったものの天秤は果たして等しいのだろうかなんて気弱になる自分を捨て置いてユーディットは平和な日常風景に目を遣る。

 不幸ではない、それで十分報われているだろう。

「お嬢さん、お守りなんてどうだい」

 髪留めと紛う煌びやかな人差し指の長さほどの装飾具にユーディットは目を奪われる。

「綺麗ね」

「悪霊から身を守り、旅人を無事に家に帰してくれるお守りだ」

 ユーディットの反応に商機があると判断したのか商人は麻袋から複数のお守りを取り出すとトレーに置いてユーディットに差し出す。台に置いていたそれよりも細工が精緻なものでグレードが高いことをユーディットは察する。

 緑を基調としたお守りは爽やかな色味をしているからかどんな服装であっても調和するだろう。赤を基調としたお守りは思いの強さを揺らめきで表現した細工に閉じ込められている。青を基調としたお守りは澄み切った空とも大海原とも受け取れる広さを表現して細かな貴石がキラキラと輝いている。一つ一つ、手に取ってユーディットは吟味する。独特な風合いがあり、甲乙付けがたい。

「どれが良い?」

  商人の尋ねにユーディットは苦笑する。聖女ならば、どれか一つを選べないだろう。選んだ事による波及効果を憂慮して判断は他人に委ねるしかない。選べる自由にユーディットは心を高揚させるが、聖女だと知られることを考えてしまう。ユーディットの指がトレーの上にあるお守りに迷う仕草を見せる。

「あっ――」

 あることに気付きユーディットは思わず声を漏らした。

「困ったわ」

「何がだい?」

「あげる人が居ないわ」

 フォルトゥナートとテオフィルに購入するのも良いが、傍に居るのが当たり前すぎて味気ない。唐突な贈り物を訝しがられて勘ぐられるのもうら悲しい。

「なんだい、お嬢さん、良い人居ないのかい」

 ユーディットの言葉に目を丸くして商人は笑い噴き出した。

「そうね。自分用に買うわ。悪霊払いはあるんでしょう」

 三色全てをユーディットは手にすると硬貨を取り出して商人に渡した。

「おや、全種類とは欲張りだな。あげる人がいないというのに」

 聞きようによっては気分を害するようなことを告げられたユーディットだが気にした素振りもなく笑みを浮かべる。

「ええ。私、強欲なの」

 感情を沸騰させることなく凪のようなユーディットの振る舞いに商人はいっそ清々しさを感じる。度量の広さに感心しながら商人はユーディットに手を伸ばした。

「可哀想な、お嬢さんだ。おまけしてやるよ」

「まぁ、ありがとう」

 おつりを多く返されてユーディットは笑みを深めた。公にはきっと付けることは出来ないだろうけれど、と心の中で言葉を続けた。


 ふと、視界の端に、白銀の光が掠める。


 遠い昔の記憶の一つに酷似しているとユーディットは目を凝らして人混みの中のそれを捉えた。

「待って――」

 思わず声を漏らすが、ユーディットの声に反応して振り返る人達は彼ではない。怪訝な眼差しを振り払いながらユーディットは人混みを掻き分ける。目的の人物の背はどんどんと遠ざかっていく。慌てて追い掛けるが、伸ばした手は宙を掠めるだけだ。

「お願い、待って」

 哀切極まるあえかな声は喧騒に掻き消された。



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