第9話 交錯する感情




 観覧席から抜け出した聖女を追い掛けてノルドは控え室のある建物へと戻ってきた。何かが動く気配を察知して振り返れば離れた場所から階段を下りる女性の物影を捉える。日の光を遮るようなベールがそよぎドレスの裾がひらりと靡く。見覚えのあるドレスとヘッドドレスの形に見失っていた聖女の姿を感じ取る。派手さを控えた瀟洒な色やデザインはその立場に依るもので他者に威圧感ではなく親近感を与える。警護対象を見付けた安堵で息を漏らしてノルドは腰に据えた剣の鞘を無意識に掴む。階段を下りて警護対象を視界に収めなければ、と控え室に背を向けたノルドが一歩足を進めて立ち止まり振り返ったのはほんの気まぐれだ。虫の知らせがあったわけでもない。控え室へと距離を詰めたのに何か確信があったわけでもない。ドアノブを回したのは憂慮を拭う為でもない。偏に、ただの移り気だ。

「――なにやってるの」

 簡素なドレスを着ている最中のユーディットは肌を晒しているが第三者の介入に悲鳴を上げることもない。そうして、視認してあれは、テオフィルだったのだとノルドは漸く気付く。

「……まぁ、ノルド様。女性の控え室をノックも無しに開けるなんて行儀が悪いのではないでしょうか」

 狼狽するなんて無様な姿を見せることをユーディットが許すわけもなく、動揺を笑みで覆い隠した。テオフィルに自分の衣装を着せて送り出したのも束の間、想定外の人間の出現にユーディットは内心焦っていた。悲鳴を上げず、即座に笑みを作った自分を褒めたいと思うほどである。

「うん。それは、ごめん。でも、誰も居ないと思っていたからね」

 そのまましおらしくすれば可愛げがあるのに、言い訳じみた言葉は言外にこちらを咎めるものでユーディットの苛立ちが薄く積もっていく。

「実際、私が居るのでドアは閉じていただけます?」

 ユーディットの指摘にノルドは、ああ、と頷く。

 バタンと音を立てて扉は閉まる。


 ――なんで、中に入る。


 心の中でユーディットは突っ込みながらノルドがドアを閉じる様子を見守った。悲鳴を上げようにも今更過ぎて恥じらうにもタイミングを逸している。

「影ちゃん、と入れ替わったの?」

「ええ。少し気分が悪くて、後は顕彰だけですもの」

 こちとら病体じゃ分かってるよな、と言葉にして口には出さず、察しを前提とした薄い遣り取りを微笑みでユーディットは誤魔化す。

「そっか……」

 吐き出した溜息は何を訴えているのだろうか、とユーディットは思案しかけるが思考を割くことが勿体ないことのように思えて止めてしまう。職務を放棄したことに対する呆れであったとしても、不調に対する軫憂であったとしても、ユーディットの感情に影響は及ばさない。

「聖女ちゃんは、それで良いの?」

 妙なことを尋ねてくるノルドにユーディットは返答に窮してしまう。それを指し示す意味が交代したことをなのかすらあやふやで、問い返すのも野暮な気がしてしまい微苦笑を浮かべて頷いた。

「……ごめん。変なこと聞いたね」

 間に合わせの対応をどう受け取ったのか分からないがノルドが謝罪の言葉を口にするものだから謝るようなことを聞いてきたのか、とユーディットは小首を傾げてしまう。視界の端を掠めたドレスの裾に着ている最中だったことをユーディットは思い出す。なんて不格好なんだ、と己を苛みながら目の前のノルドに目を遣る。

「それより、会場にノルド様がいなければ疑念を抱く人も居るのではないでしょうか」

 言外に出てけ、と伝えたユーディットの言葉はノルドに正しく届いたらしくノルドは気まずそうに首の後ろに掌をかける。

「それは、騎士様の方がそうだと思うけど」

「屁理屈です。会場にいる“聖女”を護って下さいな」

 事実を淡々と伝えたユーディットにノルドは顔色を変えることなく、小さく頷く。

「うん。分かっているんだけどね」

 言い淀むノルドの機先を制すようにユーディットはジッと見詰める。

「テオフィルをお願いします」

 気に掛けるべき相手は違うだろう、とユーディットは頭を下げる。その様子にノルドは何かを告げようと口を開きかけるが諦めたのか言葉を飲み込んだ。

「後で、何か持ってこようか? お祭り騒ぎだし珍しいものとかあると思うよ」

「まぁ、ノルド様、お気持ちだけで十分ですわ」

 これから抜け出すというのに妨害されては困るとユーディットは淑淑とした微笑みで全てを押し通そうとする。

「そっか」

「ええ、そうですわ」

 嘘を吐きながら、ユーディットは笑みを深くした。




 競技会の勝者へ渡されるのは賞金ではなく勝ち抜いたという栄誉である。無垢な乙女の手ずからに捧げられる月桂樹の冠と祝福の口付けが最終的な勝者に与えられる僅かなものだ。

「マジでか」

 ユーディットの説明を思い出し誰にいうでもなく思わず零したテオフィルは俯く。咄嗟に天を仰がなかったことを褒めて欲しい。

「何か仰いましたか、聖女様?」

 前を歩く関係者の男性が振り返りテオフィルは頭を振る。ベールによって覆い尽くされた視界がぐにゃりと歪むが物の形を認識することは可能な為、テオフィルの歩みに迷いはない。会場に設営された壇上に誘導されて、一歩、一歩、と階段を上がる。壇上から漸くフォルトゥナートの表情を読み取れテオフィルは安堵の息を漏らした。

「此度の授与者はこの方が最も相応しいでしょう。聖女様です!!」

 司会の言葉に一斉に視線が自分の身体に突き刺さる感覚を持ちながらテオフィルは軽く手を振る。表情は見え難いだろうが、見えていないわけではないのでユーディット仕込みの笑みを湛えている。

「聖女様、こちらを」

 台の上に置かれた冠を差し出されテオフィルは恭虔な仕草でそれを手に取る。一挙手一投足に注意を払いテオフィルは壇の下で待つフォルトゥナートに身体を向ける。ほんの少しいつもより顔が近くなったフォルトゥナートに緊張しながらテオフィルはフォルトゥナートの頭に勝者の冠を置いた。途端、地鳴りのような歓声が会場を包む。期待を込めた夥しい数の眼差しに貫かれてテオフィルはほんの少しの躊躇いが薄まる。聖女の代役としてやらなければならないことは分かっているのに、普段通り振る舞えないのは行為に拘泥しているからだろう。祝福の口付けをする、自分に行動を促すが頭がクラクラとしてくる。意識をしている、その事実をテオフィルはゆっくりと受け入れながらベールを邪魔にならないよう掻き上げる。

「っ……!」

 フォルトゥナートが息を呑む音をテオフィルは否応なしに拾い上げる。驚くのは当然のことである。目の前に居る人間が想像と違っていれば誰だって驚愕するだろう。フォルトゥナートの容に遽色が浮かんだことを想像しながらテオフィルは視線を外す。

「――おめでとうございます」

 テオフィルはそう告げるとフォルトゥナートの頬へと唇を寄せる。

「っ」

 しまった、という言葉が喉の奥まででかかったがそれを無理矢理押し流した。目測が狂った、とテオフィルの脳が判断したのはフォルトゥナートの顔がほんの少し動いたからだ。視線が絡みあう。こちらを射貫くような炯眼にテオフィルは圧倒された。

「――光栄の至りです」

 恭しく頭を下げたフォルトゥナートを万雷の拍手が祝福した。平然としているフォルトゥナートに食ってかかりたくなる衝動を押し込めテオフィルは顔を背けてしまう。平然としているのが癪で、心臓が早鐘のように打ち鳴らしているのが自分だけなんて負けた気がしてしまう。

 互いの口の端が確かに掠めただろう。

「っ――」

 表情がうまく作れずベールを戻して視線から逃れてしまう。聖女の仮面が剥落しそうで一刻も早くこの場から立ち去りたかった。今、感じている全てはユーディットが本来受け取るべきもので、自分にとっては借り物に過ぎない。

 もし、本当にユーディットが全うしていたらと考えて、痛む胸をテオフィルは黙過した。




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