第5話 天敵



 聖女教育という名の養成時代にも時折こうやって単独行動をしたものだとユーディットは思い起こして身を屈めた。階段を下りて見付けた警備の人間の姿を影に隠れながら見送り気配が遠ざかるのを確認して、建物の外へと出たユーディットは伸びを一つした。

「私にかかれば、然もないわ」

 鼻高々、と得意満面のユーディットは足取りも軽やかに大通りへと向かおうとする。馬車の窓から見えた人集りには何があるのかと期待を膨らませた刹那、低い声が耳朶に触れる。

「――そうか」

 途端、間近に感じた気配にユーディットは振り返ると、パーソナルスペースを無視した大柄の男を視界に留める。逆光で表情は読めないが、警備の軍人の隊服に思い当たる人物を素早く脳内で弾き出しユーディットは己の失敗を悟る。

「………………」

「何をしている」

 こちらに阿るような声色ではなく、寧ろ高圧的な声色にユーディットは内心舌打ちをする。口元に宿した笑みは堂に入ったものだ。よりにもよって、今日はこいつだったのか、とユーディットは自分の不運を嘆く。ノルドならば恐らく自分を倦厭しているのだから抜け出す姿を見ても関わろうとはしないだろう。逆にエルラフリートならば泣き落とせば譲歩を引き出すことは可能だった筈だ。だが、この男は駄目だ。三つの選択のうち最悪を引き当ててしまった。

「まぁ、クヴェン様」

「何処に行こうとしている」

 こちらの弁解など受け入れる余地のない断定的な口調に、虚言を許さない鋭い眼差しにユーディットの頬から力が抜けそうになる。気力を振り絞り頬の筋肉だけで笑みを象るとユーディットはクヴェンに目を遣る。相変わらず、宮仕えとは思えない人相をしている。外容は反徒と言っても差し支えがない程で屈強な躯殻を持つ精悍な男だ。額から左目にかけての創痕は人に懸隔を抱かせ、威圧感を与える。ノルドとエルラフリートを束ねる警備隊長である。

「人聞きの悪い事を仰らないで、迷子になっただけよ」

 苦しい言い訳はユーディットも自認している。クヴェンの視線がユーディットの顔から、髪に向けられる。言わんとすることを察したが敢えて、それを黙殺してユーディットは笑みを深くする。

「部屋に戻れ」

 指示は端的。それどころか、高圧的な命令口調にユーディットは苛立ちを募らせる。この場で本性を晒して口汚く罵ってぶちまけたところで取り繕う自信はある。だが、聖女たらんとする矜持がそれを邪魔する。尤も、クヴェンとて目の前の聖女然としたユーディットが本質ではないことを推知している節があるのでユーディットの辛抱は無駄骨に過ぎない。

「――民衆の暮らしを知ることは、無駄なことでしょうか」

 嘘の濁りのない言葉をユーディットはクヴェンにぶつける。真っ直ぐにこちらを見詰めるクヴェンの目にユーディットは捕らわれる。

「必要ない」

 取り合おうとしないクヴェンに対する感情は落胆か立腹か綯い交ぜになったそれを持て余してユーディットは吐き出すことの出来ない言葉を飲み下した。

「わたしは――」

「余計なことをするな。大人しくしていろ」

 釈明も弁解も無用だとばかりの振る舞いはこちらへの興味すら皆無のようにみえてユーディットは心の裡を引っかかれたような気分に陥る。

 力では到底敵わないことを認めユーディットは足先を建物の方へ反転させてすごすごと立ち去った。




 ■■■




「クヴェンに見つかったわ」

 不服そうに反脣したユーディットは吐き捨てるように告げた。想定外の出来事に対する苛立ちよりも引き返さざるを得なかった自分の不自由な身への憤りのようなものが透けて見えた。ウィッグを外して机に放り投げたユーディットはカウチに腰を下ろした。

「流石のユーディットもクヴェンには逆らえないか」

 知慮に不可能はないと言ったフォルトゥナートの言葉を体現するには至らないユーディットを見遣り、テオフィルはあの厳つい顔を思い出して納得する。

「逆らうとか逆らわないとかじゃないわ。あいつは、私には興味ないもの。職務に忠実なだけ」

 ユーディットの言葉にテオフィルは首肯するが、フォルトゥナートはほんの少し考え込むような仕草を見せる。

「……それだけではないと思うがな」

「あら、あいつの肩を持つの?」

 不機嫌そうに眉を跳ねさせたユーディットの視線に怖じ気づくことなくフォルトゥナートは淡々と言葉を紡ぐ。

「人を率いる人間だ。単純な男ではないさ」

 フォルトゥナートの言葉に思うところがあるのかユーディットは溜息を一つ漏らす。

「まぁ、タイプの違うノルドとエルラフリートを大人しく従えているから手腕はあるんでしょうけど、にべもないもの」

 可愛げがないわ、と深い息を漏らしたユーディットがどれ程クヴェンに手を焼いているかテオフィルは察すると苦笑いしてしまう。その様子を目視したユーディットは不満そうに頬を膨らます。

「テオフィルだって、クヴェン苦手じゃない」

「俺は直接関係ないからそんな話したことないし、偶に睨まれるだけだし」

 自分で言いながら、歯牙にも掛けられていないのではと自覚したテオフィルは扱いが鴻毛のように軽いと肩を落とす。

「あいつは警備するのが役割だ。ユーディットが聖女としての領分を確実に逸脱しない限りこちらに介入しないだろう。それが奴の立ち位置だ」

 フォルトゥナートが表層に浮かび上がらせたそれはユーディットの擬態が完璧ではないと言っているも同義だった。

「癪だけど、そうでしょうね」

 ユーディットは自分の聖女然とした振る舞いを過信してはいない。殊勝な台詞にテオフィルは目を丸くする。

「驚いた。自分は完璧だって怒るかと思った」

「私はそんな狭量じゃなくてよ。それに人はあるが上に欲しがる生き物でしょ。私は私の出来る最良を選んでいるけれど、それは万能ではないもの」

 心の裡を披瀝するユーディットの横顔を見遣りテオフィルは、ユーディットの知らない部分を見せつけられた気分に陥る。傍に居るはずなのに、把握出来ていないのは奇妙な気分だ。

「ユーディットらしいな」

 眥を下げてフォルトゥナートはそう告げる。それが賛誉の言葉だということをテオフィルは声色で推断する。見えない壁、というのをこういう時テオフィルは感じる。一緒に居るのに疎外感を持つのは理解が足りないからだろうか。隔絶されたような気がして、心が遠ざかっていく。飢えに似た怯えが心に充満しそれを相殺する為の強い承認を求めてしまう。

「高潔な魂なんて持ち合わせてないもの。私に出来るのは継ぎ接ぎの扮装だけよ」

「その傲慢で貪欲な向上心は見ていて胸がすく」

 鼻で笑いフォルトゥナートは言葉を紡ぐ。貶している言葉なのに、裏にある血の通った深い情はユーディットの理解者然としている。

「言葉の取捨選択を考えた方が良いわよ、本当」

 呆れたようなユーディットの言葉にフォルトゥナートは素知らぬ顔をするばかりだ。




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