第3話 三人の距離
孤児院の慰問は国からの要請であったがユーディットの望むものだったからか、予定よりも時間が経過してしまった。馬車へと乗り込んできたユーディットの顔が充実感に溢れていたものだから、注意するのも気が差してしまい、テオフィルは溜息を漏らした。
「あら、溜息。なによ、遅かったと言いたいの。悪いとは思っているわよ」
ムッと慍色浮かべたユーディットに弁明するようにテオフィルは頭を振った。
「次の予定まで猶予はある。急くこともないだろう」
「次って、ああ、市長との面会と新聞の取材ね。テオフィルで良いんじゃない」
指のささくれを気にした様子でユーディットは爪の際を見詰めながらなんでもないことのように告げる。
「嫌だよ。てか、そういうの出来ないって言ってるだろ」
聖女が為すべきこと、振る舞いについてユーディットとテオフィルの認識に齟齬はないだろうが、装うという点においてはユーディットが秀でている為、テオフィルの代役は幾段か劣るのが実情だ。
「頑張れば出来るわ。頑張れ」
聖女スマイルをして両手で拳を握って可愛らしいポーズをするユーディットにテオフィルは心の波が引いていくのを感じながら、孤児院でのことを思い出して苦い顔をしてしまう。
『――だからね、聖女ちゃんの笑顔嫌いだな』
脳内にクリアに再生出来た声に心がざわめく。お互い嫌忌しているならば、それで話が終了しそうなものだ。いっそのこと、秘匿することに折れてぶちまけてしまおうかとテオフィルは思案するが、更なる面倒を呼び起こしそうで開きかけた口を真一文字に結ぶ。
「もう、冗談よ。そんな嫌そうな顔しないでよ」
「……分かってるよ」
表情を曇らせたテオフィルに気が差したのかユーディットは釈明の言葉を投げかける。ついでとばかりに口元に宿した笑みはテオフィルを気に掛けているそれであったから黙っていることにテオフィルは申し訳なさをほんの少し抱いた。
「眉根を寄せてばかりだったら、皺が寄っちゃうじゃない。折角、可愛い顔しているのに勿体ないわ」
機嫌が良いのかユーディットはテオフィルの眉間を指先で突っつくと、ふふ、と小さく笑みを漏らす。屈託のない無垢な笑みに罪悪感が少しばかり和らいでいく。
「可愛いは、余計だ。俺だっていつかはフォルトゥナートみたいにムキムキになってやるんだから」
「へー」
幼子が身の丈に合わない願いを口にしているのを見詰める養護者のような眼差しを向けてくるユーディットにテオフィルは言葉を尽くそうとするが、何故か届かない気がしてしまい言葉を控えてしまう。出来ない、と断言されるよりも一層酷くないだろうかとテオフィルは溜息を漏らす。
「拗ねないの、テオフィル」
第三者がいない時のユーディットがテオフィルの知る真のユーディットである。聖女であるユーディットは一側面にしか過ぎない。思えば、ユーディットの影として国に招聘された時からテオフィルはユーディットに宥められることが多い。親元から引き離された時、泣いていたテオフィルを慰めたのはユーディットで二人で身を寄せて生きてきたのだ。そんな情けないことを思い出しながらテオフィルは、ユーディットの泣いた姿を久しく見ていない、とぼんやりと考える。
「なぁに?」
凝視したテオフィルの視線を鬱陶しそうに手で払うユーディットは年相応の少女にも見えるが、公の場に出れば聖女として祭り上げられている。そのギャップに苦慮しているのはテオフィルだけで、フォルトゥナートも当の本人であるユーディットも平然としている。こちらに見せる顔が瞬時に切り替わるのは予め知っているから、なんとかなっているに過ぎない。
「……疲れたり、しないわけ?」
こんなことを口に出したのは初めてだったかもしれない、とテオフィルは軽い後悔をする。今迄そんなことすら確認をしていなかったことを、当然のことを不躾にも尋ねたことを、テオフィルは我ながら呆れてしまう。
「何を突然、愚問ね」
「だよな。そりゃ、大変だもんな」
ユーディットの呆れた声にテオフィルは頷く。厳格な式典から病院の慰問まで多岐に渡る活動を強いられているのだから、疲弊するだろう。更に、そこにユーディットの意思は介在していない。
「私は聖女よ、これぐらいのことでへこたれたりしないわ。民衆の期待に応えて完璧な聖女を扮装してあげる」
弱音を吐かず、堂々とした態度で胸に手を当てて自負するように格調高く告げるものだから、その真っ直ぐさにテオフィルは気圧されてしまう。幼い頃、泣くばかりの自分に対して唇を噛みしめて耐えていたユーディットをテオフィルは思い起こす。手を握ってくれて、泣き止むまで傍に居てくれた。こんな情けない話、誰に言うことも出来ない。
「流石だな」
「ふっ、私ぐらいになれば、この程度造作も無いことよ」
フォルトゥナートからの賛誉を当然のことと受け止めてユーディットは得意げな顔をする。胸を反らせて、鼻高々な様子は無防備で可愛らしい。こういうユーディットを見ると、テオフィルの中の庇護欲が膨張していくのだ。擬似的な兄妹関係によるものなのかもしれない。
「出してくれ」
フォルトゥナートが御者に合図と言葉を送りガタンと音を立てて馬車は走り出す。悪路に揺られながら、テオフィルは頭の片隅にあるノルドに思いを馳せた。
市の施政の節目を祝う式典に出席しているユーディットは白を基調としたドレスに身を包んでいる。聖女の儚さをふんだんに主張し、上座の席に座っている。聖女だからか、国から支給される衣服は光沢のある白のものが多く、影として支えているテオフィルも時として身に纏うことがある。貼り付けた笑顔というのはああいうのを言うのだろうかとテオフィルはユーディットを見守りながらそう思う。出席するかどうかで一悶着あったことを思い出しテオフィルは音を立てずに細い息を吐き出す。こういった行事に対してユーディットが拒否反応を示すのは珍しくもないが、恨み言ひとつ残して渋々と会場に向かったのは珍しいことだった。ユーディットの席の後ろには当然のようにフォルトゥナートが控えている。
「――体調が優れませんか?」
不意に声を掛けられて視界に陰が差しテオフィルは顔を上げた。
「エルラフリートさん」
「呼び捨ててで構いませんのに、テオフィル様」
今日はこの男が担当だったか、とテオフィルは今更ながら警備隊のメンバーが交代していることに気付く。正直ユーディットの機嫌を良くすることに意識を持っていかれていた。
堅い、ともすれば野暮ったい軍服を悠然と着こなし金色の髪は三つ編みに緩く編まれ爽やかな笑みを口元に宿した男は、ノルドとは違うタイプの良い男だ。これで、出自も誉れ高い貴族だというのだから天は二物を与えている。
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、ですので」
曖昧な笑みを浮かべてテオフィルは誤魔化そうとするがエルラフリートの真摯な眼差しがテオフィルの身体を撫でる。
「テオフィル様は聖女様にとって大切な御方。無理は禁物です。何かあったら、聖女様は傷つかれるでしょう」
痛ましげに目を伏せる仕草が品がある、とテオフィルは見当違いなことを思いながらエルラフリートの言葉を話半分で受け取る。躓いて怪我をした際、鈍重だと呆れた眼差しを向けてきたユーディットを思い出しなんとも言えない気分に陥る。
「――聖女様、お綺麗ですね」
ほぅ、と感嘆したエルラフリートにテオフィルは居心地の悪さを感じてしまう。ユーディットが容色優れていることはテオフィルも認めるところだが、素直に褒めるのは癪で、かといって、ドレスが綺麗ですねと迎合を打つのもエルラフリートには悪手な気がして口を噤んだ。エルラフリートはノルドとは違って分かり易い。貴族だというのに居丈高でも傲慢でもない。素直な性根は、それこそ育ちの良さが滲み出ている。
「あっ、勿論、あの美しさは聖女様の深い仁慈から滲み出るものですし、聖女様の素晴らしさは端的に表現出来るわけもなく、兎に角、俺は、聖女様をお守りできる自分の仕事に誇りを持っています」
過剰な賛美に背筋がむず痒くなるのを我慢してテオフィルはユーディット仕込みの笑みを浮かべる。エルラフリートはこちらに対して友好的だが、友好的の種類がテオフィルの考えているそれとは少しばかりズレている。
「……引き継ぎで、ノルドさんなにか言ってました?」
「彼がなにかしましたか?」
ユーディットを見詰めてふわふわとしていたエルラフリートの雰囲気が一瞬でぴりりとしたものに変化する。やらかした、とテオフィルは自分の悪手を後悔するが吐き出した言葉は取り戻すことができない。
「いえ、そんなことないです」
「庇いたては不要です。常々崇敬が足りないと思っていましたが、何か無礼を働きましたか?聖女様が不快に思われたりしていませんか。あの方を哀しませるなんて、警備の人間としてあるまじき行為。聖女様の森厳な志を推量することが出来ない痴れ者が同僚だなんてこんな悲劇はありません。厳正に処罰しますので是非詳細を教えて下さい」
のべつ幕無しに告げたエルラフリートの気勢に心は呆気なく屈したが火種を大きくするわけにはいかないとテオフィルは必死に頭を振った。
「聖女様がこういったことを憂慮されるのは分かっています。ですが、俺としてはあの掴み所が無い男を躾ける必要があるかと思います」
『あの男、なにか失態を犯さないかしら』
ユーディットの剣呑な言葉を思い出して、テオフィルは頬を引き攣らせる。エルラフリートの描く聖女は警備隊の小紛にも胸を痛めるのだろうが実際のユーディットならばいっそ嗾けかねない。
「いえ、本当に誤解なんで。ノルドさんにはよくしてもらってます。ユーディットも話しかけられたって言ってましたし」
「そうですか?」
胡乱な眼差しをテオフィルに向けるが、視線を切ったエルラフリートは貴賓席にいるユーディットを捕らえる。
「彼は聖女様に対して気安すぎます。我々のような取るに足らないことで心を煩わせるなんて申し訳ないです」
しゅん、と気落ちするそこに嫉妬の片鱗でもあれば健全だったのだろうが、エルラフリートが真に思っているものだからテオフィルは良心が刺衝される。
「そんな丁寧に扱わなくて良いですから、本当」
粗雑に扱って言い訳ではないが、過度の期待と懇到に据わりが悪くなるのは仕方がないだろう。誰にだって善心というものは備わっているのだ。
「何を仰います。聖女様は国の宝ですから」
小疵ですら存在しないと言いたげな聖女の全能感にテオフィルは親近感が削がれていくのを感じる。心の距離が生じたのは相互共有の理解がないからだ。信奉すると言っても過言ではないエルラフリートはテオフィルの大事にしているユーディットを非在にするだろう。
「そうですか……」
国の宝、という言葉が心に引っ掛かり即座に何か反論したくなるが弁が立つわけではないテオフィルには上手く伝える術はない。
「聖女様は皆の心の支えになっています。大切な御方です」
綺麗な言葉の刃に抉られたかのように痛む胸をテオフィルは軽く抑えた。
「疲れたわ。あんなの出席するだけ労力の無駄というものよ」
馬車に乗り込んできたユーディットは外界から隔絶されたのを確認すると不服そうな声をあげる。
「全部無駄ってわけじゃないだろ」
テオフィルの返事にユーディットはぎゅっと眉根を寄せる。跡が付く、なんて軽口叩ける雰囲気ではなくテオフィルはユーディットの言葉を待つ。
「だって、そうでしょう? 私が必要なんじゃない。ただ、箔を付けたいだけ」
ユーディットの言わんとしていることは推量できるから慰めの言葉などかけられない。
「汚職はなくならない。弱者は踏み躙られ搾取されるだけ。己の命が他人に消耗させられていることすら気付かない」
ユーディットの心痛をテオフィルは深く共有出来てはいない。この国に対しての興味がユーディットよりも薄いからかもしれない。心を痛めるユーディットにテオフィルは何も出来ない。迫力の無い言葉はユーディットを落胆させるだけだ。
「市長の腕輪見た?ゴテゴテの装飾。高価な作り。あれ一つで、孤児がどれだけ救う事ができるかしら」
吐き捨てるように告げたユーディットの姿を見てテオフィルは思わず助けを求めるようにフォルトゥナートを見詰めてしまう。
「ユーディット、清雅ではないぞ」
「……だってぇ――」
我に返ったのかユーディットの気勢が和らぎテオフィルは安堵する。こういう時はフォルトゥナートの手腕が光る。自分よりもユーディットを理解しているように思えて悒々としてしまう。重ねてきた月日は確かにあるのに、こういう時、二人には目に見えない絆のようなものを感じてしまう。これは疎外感だろうかとテオフィルは首を傾げる。
「テオフィル、どうしたの?」
「いや、別に……」
言葉を濁したテオフィルはユーディットに目を向ける。こちらを見詰める軫憂の滲んだ眼差しに嘘はなく、気が差してしまう。
「何でもないって表情じゃないわ。気になるじゃない」
「なんでもない、って」
覆蔵しているものを晒すわけにいかずテオフィルは強い言葉でユーディットを振り解こうとする。ユーディットが慍色を浮かべたのは一瞬で、即座に得意の笑みを顔に貼り付ける。
不意に馬車が止まる。
「あー、あれ食べたいわ。買ってきて」
小窓の外の店に目を輝かせてユーディットは指差す。
「は? 俺が?」
「聖女が特定のものに肩入れなんて出来ないじゃない」
顎で外を指し示すユーディットにテオフィルは舌打ちをして馬車から下りて車道の向こう側の店に駆けていく。
「走って行くなんて良い心がけね。重畳、重畳」
ユーディットは店に足を踏み入れたテオフィルを見守りながら言葉を途切り、一息吐いて、言葉を重ねた。
「――二人共なにか言いたいことがあるみたいだけど、口に出さないって矛盾してるわね」
「今はその時ではないからな」
フォルトゥナートの端的な言葉にユーディットは笑みで返す。
「嘘吐きね」
ユーディットに向かい合って座っているフォルトゥナートは扼腕して溜息をひとつ漏らす。
「隠そうとしていることを暴くのは聖女のすることか」
「良いじゃない。何が気がかりなの?」
繊細さの欠片もないユーディットの尋ね方にフォルトゥナートは再度太息を漏らす。
「……ノルドが」
「あの男が?」
頬に掛かった髪を払ってユーディットはフォルトゥナートに目を遣る。
「フィルに何かを言ったみたいだ」
「そう」
小さく頷いたユーディットはそれ以上踏み込もうとはしない。フォルトゥナートの双眸に宿る感情の色を察して黙して語らない。
「――これで、満足かっ」
馬車の扉を勢いよく開けたテオフィルの手にはワッフルコーンにアイスクリームとホイップクリームが大量に乗せられているものが握りしめられている。
「あら、意外に早かったわね。ありがとう」
「横暴な女だな、本当」
逆円錐型の薄いワッフルをユーディットに差し出したテオフィルは座席に腰を下ろした。
「んっ、甘くて美味しいわ」
甘味を食べるとどうして幸せそうな顔をするのだろうか、と思いながらテオフィルは仄かな満足感を抱く。
「――じゃあ、残りはあげるわ」
「はっ? 一口しか食べてないだろ」
菓子を突き出したユーディットにテオフィルは声を荒げる。
「甘くて幸せなものは贅肉になるのよ」
「はぁ?」
「聖女たるもの、自分の体型の維持にも努めなくては駄目でしょう」
テオフィルの手に自分の持っていたワッフルを握らせるとユーディットは満足そうに微笑む。
「なんで、俺が――」
「甘いの好きでしょ?」
ユーディットの言葉は正しいが買いに走らされて食べ残しの処理まで押しつけられて、そのまま受け入れては立つ瀬が無い。
「あのな――」
「溶けるぞ」
抗議しようとしたテオフィルの耳朶にフォルトゥナートの声が触れる。咄嗟に固体から液体になりかけたアイスに口を付ける。口腔に広がる甘い味に肩の強ばりが和らぐ。
「甘い物食べると、落ち着くでしょう」
嬉笑したユーディットの言葉に頷くのは癪でテオフィルは顔を背けた。
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