第2話 言葉の刃
「鬱陶しいのよ」
ユーディットのその言葉に我に返ったのは一拍遅く、自分に掛けられた言葉なのかとテオフィルは顔面を蒼白させて顔を向ける。
「何誤解しているのよ。違うわ。あの男よ、あの男」
テオフィルの錯誤を否定するとユーディットは温かなミルクが注がれたカップに口を付けながら不服そうな声を漏らした。本日の仕事を終えて逗留先の部屋で寛いでいるユーディットの傍にはいつものようにテオフィルとフォルトゥナートがいる。
「――ノルドのことだろう」
誰を指し示しているか分からなかったテオフィルに告げるように聞き役に徹そうとしていたフォルトゥナートが声を掛ける。
「そう、それよ」
首肯したユーディットは滔々と語りたいのかスクッと椅子から立ち上がる。
「裏口から病院に向かうまでも懲りずにペラペラと不要なことを語るし、到着してからもこちらに水を向けるし、本当面倒くさいのよ」
胸に手を当て自分の思惟をどうだと聞かせるユーディットにテオフィルはやはりノルドとの相性は良くなかったのかと自分の認識の正しさを知る。
「大体、あの男、不敬でしょ。私は聖女よ。尊崇の念が足りないのよ。もっと、伏し拝んで敬うべきではなくって」
ユーディットの言葉にフォルトゥナートは反応することなく、テオフィルはこんな場合、消極的にユーディットに対応しなければならない。
「悪い人には見えないけど」
「分かってないわね、テオフィル。悪人ではないからといって善人とは限らないのよ」
呆れたように溜息を漏らすユーディットはテオフィルが世間に疎いとばかりに頭を振る。
「そんなことぐらい、俺だって分かってるよ。でも、ノルドは適当なところあるけど、職務に忠実だろ」
何を嫌忌するのだとテオフィルはユーディットに目を遣ればユーディットは呆れたような眼差しを返してくる。
「仕事を真っ当に行うのは当然のことではなくって?」
ぐうの音も出ないほどの正論にテオフィルは自分の認識の甘さを改めるが、ノルドには普段からよくしてもらっている為、どうしても肩入れをしてしまう。
「嫌なら、警備から外して欲しいって上に言えば良いだろ」
テーブルに置いていた水の入ったグラスを手にしてテオフィルは口へと運ぶ。
「馬鹿ね。職務怠慢でもない瑕疵の無い男を異動させるなんて聖女としてはありえない振る舞いじゃない。ただの好悪で外すなんて私の失点、になるでしょ」
テオフィルの考えをまたしても否定したユーディットは昼間とは違い、酷く饒舌だ。公の場で、心の中で言葉を押し殺している分、気の置けない人間の傍では思いの外素直だ。
「あの男、なにか失態を犯さないかしら」
他人の不幸を願うような人間を聖女と呼んで良いのだろうか、とテオフィルは思いながら相変わらず沈黙を貫いているフォルトゥナートを窃視する。望まれれば発言をするがそれ以外では言葉を控えているからユーディットの発言を非在にしているのかと思えば、テオフィルが忘れていたことすら指摘することもある。
「――あれは、強いぞ」
フォルトゥナートが口を挟んだものだからテオフィルは驚いてしまう。フォルトゥナートの言葉だから真実味を帯びる。
「強いの?」
思わず声を漏らしたテオフィルにフォルトゥナートの視線がユーディットからテオフィルに移る。
「手合わせした事がないが、かなりの手練れだろうな」
「でも、フォルトゥナートの方が強いんでしょ?」
ユーディットの当然だと言いたげな確信のある言葉にフォルトゥナートは躊躇することなくしっかりと頷いた。
「大体、何が、そんな気に食わないんだよ」
ノルドの為人を全て知っているとは言えないが、他人に対しての配慮も出来れば、職務に対する取り組みも嫌悪するようなものでもなくテオフィルは首を傾げる。
「だって、あの男は、“国の犬”じゃない」
吐き捨てるように告げたユーディットに、突き詰めればそこに至るわけかとテオフィルは嘆息する。警備隊に対しての警戒めいた感情は付き合いの長いテオフィルには容易く分かることだが、密やかに静かにそれでも流れる澱んでいる川底のようだった。
「私の監視役」
端的な言葉に込められた意味をテオフィルは曖昧に笑って誤魔化そうとするがユーディットの真摯な眼差しに口元に宿した笑みを収束させた。国によって庇護という名の名目で行動を制限されているユーディットからすれば、国に奉公しているノルドは敵のような印象を抱いても仕方がないだろう。
「そういうつもりはないよ、きっと」
「そうかしら」
諾ってくれればテオフィルも強く頷くことが出来ただろう。疑念が滲んだ言葉はユーディットの素直な感情を表しているようでテオフィルは微かな煩わしさを感じる。もっと自分に御せるほど単純な性格だったのならば、こんな困難はないだろう。ユーディットの持つ視座はテオフィルのそれとは掛け離れていて、何に焦点を絞っているのかすら定かではない。
「わたしの味方じゃないわ」
ほろり、と口から転び落つ言葉はテオフィルにも理解出来る分かり易いものだった。そういう単純な話ならばテオフィルも納得出来るものだ。立っていることに飽きたのかポスンと座ったユーディットをテオフィルは見詰める。
「まぁ、それが仕事だからさ、ノルド自身が悪いわけじゃないだろ」
弁解したところでこれがユーディットの軫憂を拭う事が出来るわけがないのをテオフィルは自覚しながら口にした。ユーディットが国に対して思うところがあるのはテオフィルとて理解している。だが、国に宛がわれた騎士であるフォルトゥナートの前で口に出すのは、フォルトゥナートを信頼しているのかそれとも国へと報告しないという確信があるのかテオフィルには理解しかねた。
「知りたくないわ。あの男のことなんて」
距絶の言葉を漏らして一息吐いたユーディットの気勢が鎮まったのを目視して、今日の暴言はここで終了だろうか、とテオフィルは思い至る。毎度のことながら、ユーディットの相手をするのも疲弊する。涼しげな顔のフォルトゥナートを恨みがましげにテオフィルは軽く睨み付けるが視線が絡むことはない。
「今日は、影ちゃん、入れ替わってないんだね」
昨日のユーディットの独演の翌日だからか、ノルドの声にほんの少し警戒感を擡げる。
「前から思ってたんですけど、その影ちゃんってなんですか」
毎度毎度のことで無視を貫いていたが良い機会だろうとテオフィルはノルドに顔を向けた。フォルトゥナートほどではないが無骨な軍服の上からでも分かる筋肉はテオフィルにとっては羨ましいものだ。
「聖女ちゃんと影ちゃんで一対って感じだからね。影ちゃんあっての聖女ちゃんでしょ」
そういう意味ではなくちゃん付けの理由を問い掛けたのだが、ノルドから納得出来る答えは返ってこずテオフィルは頬を引き攣らせる。視線をユーディットに向ければ膝を折り屈んで孤児に対して慈悲深い笑みを口元に湛えている。一縷の隙の無い聖女の姿にテオフィルは感服する。口では文句を言いながら所作は優雅で高貴だ。それを保つ為にユーディットがどれだけ研鑽しているかテオフィルは知っている。
「俺は大層なことはしてないですよ。あの賞賛は全てユーディットに向けられたものです」
夥しい賛誉に錯覚しそうになったことがあるなんてこと恥ずかしくて口には出せない。多幸感と高揚感に包まれるのは一瞬で、我に返っては虚しさが心を彩るのだから、いつしか割り切るようになっていった。
「そう?」
「そうですよ」
疑義の目を向けてくるノルドの言葉をテオフィルは切り捨てる。何より、ユーディットが過小評価されるのは有り体に言って癪だった。
「でも、影ちゃんいつも頑張ってるじゃん」
「それは、ありがとうございます」
褒められて悪い気はしない。寧ろ、なけなしの警戒心が和らいでしまい、表情が緩んでしまって脳内のユーディットに咎められてしまう。
「いいよね、影ちゃんはそうやって笑って。僕、そういうの良いと思うよ」
にかっと爽やかに笑うものだからテオフィルはノルドを凝視してしまう。
「――だからね、聖女ちゃんの笑顔嫌いだな」
笑みと供に投げられた言葉を上手く脳内処理出来ずテオフィルは目を瞬かせる。呆気にとられて口から漏れた掠れた音に柄にもなく緊張していることを自覚する。一拍置いて、なんとか言葉を咀嚼し飲み込んだテオフィルは口元をひくつかせる。
「えーと……」
「フィル、なにかあったか?」
いつのまにか距離を詰めていたフォルトゥナートの出現にテオフィルは安堵しながらどう説明すれば良いのかと頭を動かす。馬鹿正直に告げるわけにはいかないだろう
「騎士様登場、ってわけ」
嘲るように告げるノルドをフォルトゥナートは気にした素振りはなく視線をそちらにむける。
「護衛対象から目を逸らして仕事が勤まるのか」
「それはお互い様でしょう」
視線を切ったノルドは億劫そうに息を吐き出す。フォルトゥナートが寄ってきたことに興が削がれたのか肩を軽く回してノルドは背を向けて建物の方へと向かう。
「フィル」
言葉を促すようなフォルトゥナートの声にテオフィルは告げるべきか逡巡する。その間に何を嗅ぎ取ったのかフォルトゥナートは眉根を寄せる。
「何か言われたのか」
疑問ではなく断定の口調にテオフィルは何を言っても見透かされている気分に陥る。
「あー、まぁ、うん」
向けられる視線が煩くて視線が凶器だったならば顔は崩壊していただろう、とテオフィルはげんなりとしながら、誤魔化すように顔を背ける。視界に映るユーディットは楽しそうに先程の孤児達と戯れている。
「あれに何をされた」
「別になにも……」
口に出せば面倒事になる予感がありテオフィルは口を噤む事を選択した。詰問されるよりも見詰められる方が余程、心臓に悪いとテオフィルは思いキュッと唇を噛みしめる。
「……何かあったら、話をしてくれ」
根負けをしたのはフォルトゥナートでこれ見よがしに溜息を一つ漏らした。
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