第5曲 いかないで(想太)
いかないで/想太
ジャンル:ボカロ
URL 【 https://www.youtube.com/watch?v=L0tcMxp8Iy8 】
曲構成 Intro/①Aメロ→①サビ/間奏/②Aメロ→①サビ/Outro
夏の淡い別れの曲であり、さまざまな解釈がコメント欄にはあふれています。
ここではあくまで歌詞に忠実に妄想を膨らませていこうと思います。
①概観:ぼくを置いてって
この曲における主人公「ぼく」と、「きみ」との関係性はさておき、この曲の主眼は、二人の別れにあります。
サビが示すとおり、「きみ」は電車に乗って去っていき、「ぼく」だけが残される。祭りが終わった夜、さみしさだけが残る。夜が滲む。曲調もあいまって、とてもあわれを誘う曲です。
「なんでもないと口をつぐんだ ホントはちょっと足を止めたくて。
だけどもきみは早足ですっと前を行くから ぼくはそれを見つめてる」
この歌いだし(①Aメロ)はとても物語的です。
「ぼく」は「きみ」を引きとどめたい。しかし、「きみ」は足を止めず、早足で行ってしまう。
続く①サビでは、電車に乗って去っていく「きみ」と、それを引き留めたい「ぼく」の悲痛なまでの心情がうたわれています。「夜が崩れていく」という表現は興味深いところです。後述します。
間奏を挟んだ②Aメロでは、おそらく、時間帯が①サビに戻ります。そして②サビでは再び「いかないで」という、タイトルが登場します。
この曲については、大きく、二つの解釈があるようです。一つは、物理的な別れの曲とみる解釈(遠距離説)。遠距離恋愛や、転校など、理由はわかりませんが、二人の間に隔たりがあります。ある意味で正統的な解釈です。
もう一つは、死別説です。実は、「きみ」はもうすでに亡くなっており、「きみ」はそれに気づいていない。一年に一度、夏祭りの日に「きみ」は当たり前にように帰ってくる。この場合でも、二人の間に隔たりがある点は共通しています。
私、蓬葉がどちらを支持するかはのちほど述べるとして、次の節では時間軸を見ていきましょう。
②時間軸考察
まず、この曲における時間軸について考えていきます。
①Aメロは、「きみ」が早足で歩いているシーンで、「ぼく」はそれを見つめています。続く①サビは「きみ」が電車に乗って去っていくシーン。次に、②Aメロは祭りが終わったとき、「きみ」はまだ近くにいます。最後の②サビでは「帰り道」を心配する「ぼく」が描かれます。
これを踏まえるのであれば、①Aメロが①サビに先行するのは確実です。
②Aメロには次のような歌詞があります。
「だけどもきみはいつもよりずっと色っぽく見えて ぼくはそれを見つめてる」
ぼくはそれを見つめてる、ということは現在、目の前に「きみ」がいるということです。これは電車に乗ったあとではありえないため、②Aメロは、①Aメロとほぼ同じ時間帯だと考えていいでしょう。
②サビは、「一人ぼっちさ」とあります。これは、のちほど行う解釈の吟味のカギとなる歌詞だと私は思うのですが、これも後述する理由から、これは「ぼく」一人だけと考えるべきと想定します。よって、②サビは①サビのあとに来ます。順番に並び替えると、次の通りです。
①Aメロ・②Aメロ→①サビ→②サビ
③最終便と「世田谷ラブストーリー」(back number)
back numberに「世田谷ラブストーリー」という曲があります。この曲には次のような歌詞があります。
「もう終電に間に合うように送るようなヘマはしない」
歌詞や物語における最終便(=終電)には、含意があります。つまり、終電間際に引き留めれば、少なくとも始発までの数時間は相手を引き留めることができるというものです。
「世田谷ラブストーリー」のほうはその点がかなり強調されていて、より世俗的、リアルです。
「いかないで」の場合も同じなのか。
私自身は、ある程度世界観の相似がみられるように思います。ただし、「いかないで」には、「世田谷ラブストーリー」とは違い、神聖さ、純粋さを感じます。
これは、歌詞を見ればわかります。
「世田谷ラブストーリー」のほうでは、心の中がかなりクリアに描かれています。「世田谷ラブストーリー」のほうで、主人公「僕」が「君」を引き留めたいのは、「家に誘うため」です。
一方、「いかないで」のほうも心中描写はあるものの、なぜ引き留めたいのかは書かれていません。この点が大きな違いです。何も書かれていない以上、その理由は推定するしかありません。「世田谷ラブストーリー」の理由と同じかもしれませんし、そうではないかもしれません。
ただ、最終便に乗っていく相手を見送り、自分だけが取り残されるというのは、共通しているところです。
④「夜が崩れていく」
①サビに「夜が崩れていく」という描写は、何をあらわしているのか。これはいろいろな想像ができます。①サビの歌詞を見てみましょう
「遠くへと消えていく ぼくを置いてって もう随分見えないよ 夜が崩れていく」
言葉を補うと、遠くへと消えていくのは「きみの乗った最終便」です。となると当然、もう随分見えない、とあるものも「君の乗った最終便」であるはずです。その結果、つまり、電車が見えなくなった結果「夜が崩れていく」ということであれば、この描写は次のように考えられます。
「きみ」を乗せた電車の光が消え去っていき、また暗闇が覆っていった。それはまるで電車の上に夜が崩れてきたかのようだった。
おそらく、この曲を聴いた人の多くは、田舎の景色を想定したはずです。最終便となれば、夜中でしょう。もちろん田舎の最終便は一日が終わるより前に出て行ってしまうこともあるでしょう。しかし、それでも周辺は真っ暗であることが想像されます。であれば、長時間その光は見えていたはずで、夜が崩れるまではかなりの時間があったはずです。それを見届けたということは、「ぼく」は、それだけ「きみ」が去るのが惜しかったということです。
それにしても、夜が崩れていくという隠喩表現は、なかなか秀逸ですね。
⑤遠距離説と死亡説
ここまでの説明から、私自身がどちらの説を推すか分かった方もいるでしょう。
私は、死亡説は取りません。その理由をいくつか述べていきますが、これはあくまで解釈であり、死亡説はありえないと断言する類のものでないことをあらかじめ明記しておきます。
⑤―A 影
まず、死亡説の根拠となる一節はこの歌詞にあると思います。
「街灯に照らされて影ができている 一人ぼっちさ」・・・①
これは②サビに登場した歌詞です。
影の数というのは、アニメやMVなどで死亡説が出る際、かなりの論拠になります。アニメのほうでは、ジブリ映画「となりのトトロ」でメイ死亡説が盛り上がった際、「メイ」の影が消えているというものもありました。MVでは、例えばEveの「sister」など、枚挙にいとまがありません。
二人いたはずなのに歌詞中に影が一人分しかないのであれば、たしかにこれは明確な死亡説の根拠となります。
しかし、影の数は、ここでは論拠にはならないと私は考えます。
まず、この曲にはMVがついています。一枚絵ですが、「ぼく」と「きみ」が描かれています。それを見る限りでは、二人とも、つまり「きみ」のほうにも影は描かれています。
また、さきほど時間軸考察を行ったとおり、ここはすでに「きみ」が去ったあとと想定します。
というのも、上の歌詞の前に、このような歌詞があるためです。
「帰り道 暗いけど 一人で大丈夫かな」・・・②
「ぼく」は「きみ」が去ることに対して抵抗感を持っています。だからこそ何か言葉を言って「足を止めたい」(①Aメロ)し、本当は「いかないで」と「言いたい」(①サビ・②サビ)のです。そして、「最終便に乗る」ところや「夜が崩れていく」ところを見たということ、また、①Aメロで、「きみ」のあとをついていっているところから、「ぼく」は駅まで見送ったことも間違いないでしょう(ホームまで入ったかはわかりません)。
「ぼく」は理由はともあれ、「きみ」を引き留める言葉「いかないで」を言う機会を図っています。ついぞその言葉は言葉にならなかったのですが、「引き留める」心理を持っている人が、同時に向こうについた後の帰り道を心配するでしょうか。帰り道を「きみ」がたどるということは、引き留めるのに失敗したということになります。
引き留めようとしている段階で、失敗したことを想定するというのは、違和感があります。
よって、この歌詞は、もう「きみ」が行ってしまった後のものと考えられます。であれば、街灯に照らされる影はむしろ一人でなければおかしいでしょう。
また、歌詞②の直前には「時間だけが過ぎていく ぼくを連れてって」という歌詞があります。連れてってという歌詞は「連れていく」ということでしょうから、祭りでの「きみ」のひと時という浮世離れした一コマから、現実に戻されるという表現になっていると思われます(似た表現は「世田谷ラブストーリー」にもあります)
であれば、やはり、この②サビはすべての事が終わったあとの歌詞だと想定したほうがいいでしょう。
⑤―B タイトル「いかないで」
「いかないで」というタイトルを、死亡説の根拠とする場合もあります。その場合は、もちろん「逝く」という言葉が念頭にあるわけですが、みなさんはどう思いますか。それだと直接的すぎるので、ひらがな5文字にしたというところでしょうか。
しかし、これは私としては根拠とするのは難しいと考えます。
というのも、もしそうなると歌詞中の「いかないで」もすべて「逝かないで」に変換することになりますが、だとしたら、「きみ」はまだ死んでいないことになります。
これから亡くなるという意味であれば、通りますが、それはこの曲の範疇を超えるでしょうし、なぜ「ぼく」にそれがわかっているのかという疑問もうまれます。
また、想太さんの曲には、ひらがな五文字の曲が結構あります。「またあした」「さようなら」「なんでなの」「はるのよに」などなど。最近の曲は必ずしもそうではありませんが、「いかないで」もそれにのっとったとするほうが自然な気がします。
⑤―C 生の描写
「きみ」には、これといった「死の描写」はありません。しいていえば、あの影の描写がそれだったのですが、それはすでに説明した通りです。
しかし、一方、「生の描写」はあります。それが次の歌詞です。
「だけどもきみはいつもよりずっと色っぽく見えて ぼくはそれを見つめてる」
色っぽい、というのは、「生の描写」です。転じて、ゆるやかな性的表現ととってもいいかもしれません。それを「見つめてる」僕は、「きみ」を生きた存在として見ていることになります。
①Aメロの「早足」や②サビの「帰り道」なども、小さな証明になるかもしれません。「早足」は、最終便に乗り遅れたら帰れなくなるからこその「早足」でしょう。「帰り道」は、前述のとおり、向こうについてからの「帰り道」でしょう。それは生きているからこその表現といえます。
以上、いくつかの観点から、死亡説の難点を挙げましたが、タイムリープ仮説も考えられます。ただ、ここではそれは考えません。というのも、それを考え出すときりがないからです。
大体の曲はタイムリープ仮説を使えばそれっぽいストーリーになります。解釈は人それぞれです。
⑥遠距離説 あるいは心理的に?
遠距離説は、正統的な解釈、悪く言えばいたって普通の解釈です。ただ、その分、無理のない解釈です。
遠距離となぜ言えるのかは、言うまでもないでしょう。死亡説をとる場合でも「ぼく」と「きみ」の隔たりを前提としています。
一応確認しておくと、次のような点です。
・電車で移動する距離であること。
・最終便を逃すとまずいので早足になること。(ただし、遠距離でなくても急ぐのは変わらないか)
・「いかないで」という言葉が繰り返し出てくること。つまり、いま送り出してしまうとしばらく会えないという含意がある。
・電車が消えていく(=夜が崩れていく)描写や、夜が滲んでいくという表現(これは涙の描写か)は、すぐ会える間柄にしてはオーバーか。
・MVの「きみ」がキャリーバッグを持っていること。
ただし、不思議な点は二点あります。
一つは、さきほど「生の描写」で述べた歌詞のところにある「いつもより」という歌詞。
もう一つは、「影」のところで述べた「帰り道 暗いけど 一人で大丈夫かな」という歌詞。
「いつもより」は、比較する時期があってこその言葉です。ということは、顔は結構合わせているのか? もちろん、この曲が投稿されたとき(2013年)にはもうすでにSNSも登場しているので、それ経由という可能性もありますが。
「帰り道」のほうの違和感は、「きみ」が帰る先が「暗い」となぜわかっているのかということです。これは、向こうにつく頃は深夜だろうから暗いだろうという一般的解釈でいいとは思いますが、忠実に考えるのであれば、違和感はあります。
もしかしたら、遠距離というのは、心理的な距離の作用もあるかもしれません。
愛しい人との距離は、物理的に近くてもやけに遠く感じるでしょう。
嫌いな人との距離は、物理的に遠くてもやけに近く感じるでしょう。
それなら、「きみ」との距離は物理的には近い可能性があります。たとえば、高校の知り合いで、夏祭りに誘ったら、意外と来てくれたというような形です。
この場合でも、歌詞は機能します。
愛しい人が去るのは、たとえ距離が近くても惜しいでしょう。「泣いちゃだめ」、「夜が滲む」(=涙を流す)という描写もあながち誇大なものではないといえます。
物理的距離は近いとするなら、「すぐ会えるではないか」と言いたくもなりますが、この曲は「ぼく」と「きみ」の一対一の場面です。おそらく、日常ではそんな関係性ではないはずで、だからこそ、見送りたくはないのです。たとえ距離は近くとも、「いかないで」と言いたくなるのです。
いずれにしても、死亡説では説明のつかない点がみられるといえます。
以上、「いかないで」の考察でした。
素敵な解釈がありましたら、お知らせください。
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