料理探偵JOE9000

小林猫太

第1話 死ぬか、食べるか

「山があっても山梨県」どころの騒ぎではなく、山梨県の森林面積率は77.8%、これは全国で3位を誇る。

 つまりほとんど山のような山梨県の、幹線道路から離れた山奥ともなれば、人が間違って足を踏み入れるようなことは滅多になく、世間の目をはばかる秘密施設が建てられていたとしても、容易に知れることはない。


 その施設が大爆発を起こして跡形もなく吹き飛んだことはニュースにはなっても、そこで「本当は」なにが行われていたのかを疑う者はいないし、そんな場所をわざわざ見に行こうとする者もネタのないテレビ局のクルーくらいのものであった。


 だが、仮に、そこでなにが行われていたのかを掴んだ者が、その事実を公表して名を上げようと考えたとしよう。

 数日後、彼は間違いなく冷たい骸となって港に浮かぶか、電車にはねられてバラバラの肉塊と化すか、あるいは森の奥で人知らず土に還されることになるのだ。


          ◯


 味村錠あじむらじょうは鼻をくすぐる異臭で目を覚ました。


(……ここは?)


 ベッドと呼ぶには粗末すぎる木製の台の上だ。おかげで背中がものすごく痛い。

 身体を起こそうと力を入れた味村あじむらは、その痛みを遥かに超える腕や胸や脚、あちこちの激痛と、途端に襲ってきた眩暈に呻き声を上げた。


「下手に動くと、死ぬぞ」


 味村あじむらは霞んで揺れる眼で声の方向を見た。

 痩せて小柄な老人だった。身にまとった服とも古いカーテンともつかぬ灰色の布地には、これまた柄とも汚れともつかぬ濃淡が広がっていて、一見すると浮浪者のいでたちである。すっかり色を失ったボサボサの髪が肩まで伸びている。だが、落ち窪んだ眼の奥の、眼光だけは異様に鋭い。


 老人は石を積み上げたかまどで火を使っていた。異臭はその、火にかけた鍋から立ち上っているのである。

 それは嗅いだこともない、異臭としか言いようのない匂いであったが、なぜか気分が悪くなりそうな類のものではなかった。


「……いえ、俺がここにいると迷惑が」


 言いながら味村あじむらは無理に立ち上がろうとするが、脚に力が入らず、寝台から剥き出しの地面に転がり落ちてしまう。味村は全身を走る痛みに絶叫した。


「助けてやりたいが、今、手が離せぬ。大事なところでな」


 老人は落ち着いた口調で、鍋の中を木べらでゆっくりとかき回し続けた。


 味村あじむらは息を荒げながらなんとか立ち上がると、寝台の縁に腰を下ろしたところで動けなくなった。なによりも眩暈がひどい。

 折れた肋骨の痛みに手をやると、胸には何枚もの板があてられて布で巻かれているようだ。左脚の傷には薬草だろうか、大きな木の葉が貼られている。


「血が足りんのだ」と、老人が言った。「それに、死ぬと言ったのは怪我のことだけではない。『食の穴』にいたのであろう」


「なぜその名を!」


「お主が着ていた制服を見ればわかる」


 老人が壁に目をやると、そこには左半身が血で真っ赤に汚れた、白い調理服が掛けられていた。味村あじむらが着ていたものだ。胸に金糸で刺繍された『食華』の文字も、血の汚れに埋もれてしまっている。


「追われているということは、お主が『食の穴』を爆破した犯人だということだ。だとすれば……」


「奴らに引き渡すか……」


「いや、逆だ。わしらにはお主を助ける理由がある」


「理由?」


 それには答えず、老人は「うむ」と頷くと、鍋の中身を杓子ですくって木の椀に注ぐと、静かに歩み寄って味村に差し出した。


「これは?」


「薬膳だ」と、老人は言った。「血を作るための料理だ」


 口元に運ぶと、生臭さに酢のような刺激臭が混じった匂いが鼻をついて、味村は思わず顔を背けた。だが不思議と、とても口にできないとは思わなかった。それを身体が必要としているからかもしれなかった。


「豚の肝臓レバーと煮干しの粉を牡蠣かきの出汁で溶いたスープだ。具は小松菜。造血のための鉄分、傷を治すのに必要な亜鉛、骨折の治りを早めるカルシウム、それらの吸収を助けるビタミンCが一度に摂れる」


 老人が言った。顔は皺だらけだが、血色は良く、声にも歳を感じさせない張りがあった。


「安心しなさい。こんな山奥だが、食材はいいものが届く」


 味村あじむらは覚悟を決め、息を止めて液体を一口啜った。何とも言えない匂いが鼻を抜け、舌を刺す辛味と相まって顔が自然と歪んだ。


「……不味い」


「味は二の次だ。瀕死の身で贅沢を言うものではない」


「この辛味は?」


「胃液の分泌を促すためだ。胃液にもまた鉄分の吸収を高める機能が備わっている」


 もう一口、二口と飲み進むうちに、舌が慣れてきたのかそれとも痺れて味を感じなくなってきたのか、気がつくと腕は空になっていた。


「おかわりはどうだ……と言いたいところだが、人間が一度に吸収できる量には限界がある。少し休むがよい」


「いったいあなたは……」


 腕を返しながら味村あじむらが問うと、老人は言った。


「わしか……名前などとうに忘れてしまった。人は煮炊夢幻斎にたきむげんさいと呼ぶがな」


          ◯


 味村錠あじむらじょうが『食の穴』に入ったのはまだ中学生の時のことだ。

 味村あじむらは幼い頃から料理が好きだった。親戚の叔母から小学校の入学祝いを尋ねられた彼は、迷わず自分専用の包丁を希望したほどだ。

 学校から帰ってくると、宿題よりも先に台所に立ち、夕食の料理を一品作った。日に日にそのレパートリーも増え、四年生の頃には家族の夕食をすべて一人で用意するようになり、オリジナルの創作料理にも手を広げた。

 料理コンテストのようなものが開かれると、相手が大人であろうと、彼に勝てる者はどこにもいなかった。やがて味村あじむらは「天才料理少年」として新聞やテレビにも取り上げられるようになった。もっとも味村あじむらは、ただ単に自分の好きなことを続けていただけで、その過程で自然に腕と感覚を磨いていただけであった。


 そんなある日、突然両親がこの世を去った。不幸な事故だった。

 途方に暮れる味村あじむらに手を差し伸べたのが、日本最大のフードチェーン『食華しょくはな』だった。

 さまざまな料理店、和食中華フレンチ問わず、大衆食堂から高級レストランまで、最近では海外にも幾多の店を展開する『食華しょくはな』は、文字通り日本の食を統括する組織と言えた。その会社が味村あじむらを雇い、のみならず自社で研鑽を重ねて一流の料理人を目指さないかと言ってきたのである。

 そして味村あじむらが送られたのが、山梨の山深くにある『食華しょくはな』の料理人養成施設『食の穴』なのであった。

 入所した味村あじむらはすぐに頭角をあらわした。彼が習得したレパートリーはゆうに9000。そのどれもが他の追随を許さぬレベルであった。


 だがある日、用事で事務室を訪れた味村あじむらは、幹部職員が不注意でPC画面を開いたまま席を立った『食華しょくはな』の内部資料を興味本位で覗いてしまい、とんでもない事実を知ってしまう。

食華しょくはな』の実体は、食で世界を牛耳ろうとする秘密組織『食禍しょっか』であり、味村あじむらの両親は事故で死んだのではなく、彼を否応なく引き込むために『食禍しょくか』に殺されたのであった。


 味村あじむらは悩み、考え、決断し、実行した。


 夜中に食材倉庫に忍び込み、施設内に大量の小麦粉をぶちまけて充満させた。もちろん気候条件などは計算済みだ。マッチ一本だけで、『食の穴』は粉塵爆発を起こして四散した。

 味村あじむらもまた、爆発に巻き込まれて大怪我を負った。そのうえ生き残った『食禍しょくか』の職員に追われてもいた。


 森の奥になんとか逃げ込んだ味村あじむらは、安堵とともに気を失った。


         ◯


食禍しょくかのルーツは戦後の混乱期に遡る。日々の食事のために奔走し、倫理さえ捨てて犯罪にまで走る人々を見て、ある男が『食を制する者が世界を制する』ことに気づいたのだ」


 夢幻斎むげんさいが遠くを見る目で語った。


「其奴はゆっくりとその力を広げていった。食を操り、街を制し、地域を制し、国を制するに至った。国家予算に匹敵する富を集め、邪魔者は容赦なく排除し、手段を選ばず、あらゆる組織や機関に息のかかった者を送り込んだ。奴等は洗脳にも長けている。もし『食の穴』に最後までいたならば、お主とて食禍の手先としてなんの疑いもなく働いていたであろう」


 そう言って味村あじむらを見据えた。彼を見据えているのは夢幻斎むげんさいだけではなかった。ここにバックパックを背負って食材を運んできた青年も一緒だった。夢幻斎むげんさいは「連絡係の菜川さいかわ」と味村に紹介した。


 味村あじむらは問うた。


「なぜそんなに奴等に詳しいのです」


「それは我々がかねてより奴等と、食禍と戦い続けているからだ」


 そう言って、夢幻斎むげんさい菜川さいかわにちらと目をやった。


「我々?」


 味村あじむら夢幻斎むげんさい菜川さいかわを交互に見た。


「そうだ」と、夢幻斎むげんさいは声を張った。「我々は『烏院ういん」、奴等と同じくして立ち上がった善意の問屋組合をルーツとする、カラスのように目を光らせ、連絡を取り合い、隠されたものを暴き、そして死すとも姿を晒さぬ、食禍しょくかの横暴に対抗する組織だ」


烏院ういん……」


 味村あじむらはその名を反芻はんすうしながら、目の前の見窄みすぼらしい老人をしげしげと見た。食禍しょくかは考えれば考えるほど恐ろしい組織だ。だが、さすがの奴等も、山奥で暮らすこの仙人のような老人が敵だとは夢にも思わないだろう。


「俺もその『烏院ういん』に入れてください!」


 味村あじむらは思わず叫んでいた。


「無論」と、夢幻斎はうなずく。「そのつもりでお主を助けたのだ。食禍しょくかは単身立ち向かうには強大すぎる相手だ。わしが伝えられるものはお主に伝えよう」


「伝えられる……もの?」


 味村あじむらの疑問に、菜川さいかわがやっと口を開いた。


夢幻斎むげんさい先生は、食禍しょくかと戦うために調理人が編み出した戦闘術、『星辰流厨武術せいしんりゅうくりやぶじゅつ』の達人なのです」


(Continue to 第2話)

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