第3話 大妖狐の名

 目が覚めると私は布団に寝かされていた。


 上等ない草の匂いと、小鳥のさえずりが聞こえる。体を起こすと、まだ少し眩暈がした。頬を両手で数回軽く叩き、あたりを見回すと、見覚えのない襖と行灯が目に入る。それだけではなく、この部屋の何もかもに見覚えがない。昨日着ていたはずの白無垢も着替えさせられており、ご丁寧に化粧も落とされていた。どうやら昨日のことは夢ではないらしい。昨日起こった全てが、頭の中を回転する。


 すぐに殺されなかったことを喜んで良いのか、大妖狐様の前で昏倒したこと、あまつさえこの状況を見るに介抱までさせてしまったことに慌てれば良いのかわからない。今は一体何刻で、ここはどこなのだろう。


 ぼんやりした頭をどうにかしようと布団から這い出ると、ふいに自分の手足が目に入った。昨日、石畳の上で倒れたはずなのに、傷一つついていない。まさかとは思うが大妖狐様のお手を煩わせるなんていうことは……考えただけでぞっとする。


 昨夜、暗闇でぼんやりと姿を見た背丈のある黒い着物の、あの方が大妖狐・灰香様だろうか。


 正直、悪名高いなどと村の狐たちが噂するので大男を想像していた。しかし、昨夜のお堂で会ったあの方は全く反対の……。人間のような見た目で、穏やかな雰囲気で……。はっきり覚えていることといえばあの金色の瞳くらいのものだが、あの色は確かに大妖狐の風格はあったかもしれない。全てを押しつぶしてしまいそうな、底の見えない暗い金色だった。


「玉尾様、お目覚めでしょうか」


「は、はい!起きております!」


 突然の声に、心臓が飛び出るかと思った。上ずった声で返事をしてしまったことが恥ずかしくなり手元に口をあてていると、すぐ横の襖がすっ、と開いた。部屋の外には、白い壁を背にした、背の低い昨夜の少年が立っている。少年は、嫌みのない笑顔でにこりと笑うと言った。


「灰香様がお待ちです。朝餉に参りましょう」





「昨夜は怖がらせてしまい申し訳ありませんでした」


「いえ、そんな……私こそ取り乱してしまい申し訳ありません」


 少年に連れられ、廊下を歩く。きれいに磨かれた廊下には塵一つなく、日の光を反射して白く光っていた。暖かくも寒くもない、不思議な感覚の廊下は、裸足で歩いていてもなんの不快感もない。


「私は灰香様の眷属で、こよみと申します。なにか御用があればなんなりとお申し付けください」


 前を歩く小さな背中がふいに立ち止まり、振り返って笑顔で会釈する。慌ててこちらも頭を下げると、また歩き出した。眷属、ということはこの少年も狐か、または他のあやかしなのだろうか。見たところとおくらいの少年だが、妖はいくつも姿を持つと聞いたことがある。この姿も、幾通りもある姿の一つかもしれない。


「灰香様は、玉尾様が思う程恐ろしい方ではありませんよ」


 暦、と名乗る少年が、背を向けたまま話し始めた。


「ただ……200年余りこの山に引きこもっておられる故少し女人が……」


「女人が?」


 聞いたところで、大きな山が一面に描かれた襖の前でぴたりと足が止まる。少年が膝をつき、恭しく頭を下げた。


「いえ、どうぞ、お心を楽にお持ちくださいね」


 山が中央からすっ、と割れる。開いた襖の先にある大きな窓から入る日差しがまぶしくて思わず左手で目を覆うと、細めた目の先に、見覚えのある黒い着物が座していることに気が付いた。朝の陽ざしを浴びて白く光るその人が、とてもきれいに見えて、部屋を少し入ったところで立ち止まってしまう。それは、この世のものとは思えない神々しさだった。


「座りなさい。じきに朝餉も来よう」


 低く響く聞き覚えのある声にはっとして膝をつく。一度頭を下げてから、私の為だと思われる緋色の座布団に急いで正座した。目の前の黒い着物が思ったより近く、頭が上げられない。


「そのように怖がることはない。昨夜は悪いことをしたが、こちらを向いてはくれないか」


「悪いなど、昨夜は私が……!」


 低く沈んでいく声に、慌てて顔を上げると、昨日と同じ、金色の目と目が合った。昨夜は暗がりでよく見えなかったが、黒い着物に黒く短い髪、姿勢の良い長身にやや痩せて見える体躯、そして、整った顔には、額から口元にかけて一際目立つ大きな傷があった。年齢は、見たところ四十路に入り数年、というところであろうか。やはり悪名高い大妖狐、というよりは、良い家柄の主人、という印象である。その不思議な雰囲気に思わず気おされ、言葉が止まった。


「そなた、名はなんという」


「……名、でございますか?」


「ああ、名乗っていなかったか。私は灰香。真の名は四十万しじまという」


 しじま、と名乗る目の前の方は、表情を変えぬまま淡々と話を進めていった。灰香とも名乗っていたし、大妖狐・灰香狐様で間違いはないと思うが、真の名、といのはどういうことだろう。


「そなたが玉尾でないことも、人間であることも知っている。しかし、これから暮らしていく上で、真の名を知っておきたいのだ」


 その上私が玉尾様でないことも知られているらしい。今すぐ殺す、という雰囲気ではないにしろ、いつ私が玉尾様でないと知れたのだろう。やはり昨夜気を失っていた間に調べられたか……。なんにせよ、私の失態で玉尾様や旦那様に危害が及ぶことは絶対に避けたい。かくなる上は、ここで私だけを食い殺してもらい、村は容赦して頂くしか……。


「四十万様、話が性急すぎて玉尾様が困っておられます」


「……暦」


「玉尾様も、私もおります故、どうか怯えないで下さいませ」


 カタ、という音が目の前でしたと思うと、先ほどの少年、暦が、朝餉の乗った膳を私と私の向かいに置いた。暖かい味噌の香りが部屋に広がる。その香りを嗅いでいたら、少し心が落ち着くのがわかった。


「すまない……。そなたを怖がらせたいわけではないのだ」


 きまりが悪そうに頭をかく、目の前の下がり眉を見ていたら、落ち着いてきた心が更に段々と柔らかくなっていくのがわかる。おそらく、この方は信じられる。なんとなくそんな気がした。


「身分を偽り申し訳ございません。私の真の名は、しずか、と申します。紅天屋の一人娘、玉尾様の代わりに、大妖狐・灰香狐様の嫁に参りました」


 ゆっくり手をつき、頭を上げる。もう恐れず、目の前の方に向き合おう、と前を見据えると、腕を組んだまま目線を下げ、小刻みに震えながら体を捻る黒い着物が目に映る。やはり替え玉、しかも人間ということにお怒りなのだろうか、と、どきりと心臓を鳴らすと、低く震える声が青々とした畳に落ちて行った。


「嫁……嫁か……そうだな、ああ、よろしく頼む」


 体躯に比べ意外とたくましい腕の隙間からかろうじて見えたそのお顔は、傷など忘れてしまうくらい、真っ赤に染まっていた。







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