第2話 大妖狐・灰香狐
「ようこそ参られました」
お供の狐たちがざわめく中、暗闇の中に橙色の提灯を持った少年がぼうっと現れた。お山から時折吹く強い風が、提灯の中の火と少年の髪を揺らす。暗闇と同じくらい真っ暗な髪の隙間から、少年の大きな金色の目と目が合った。
「あなた様が玉尾様ですか?」
「……はい。玉尾にございます」
突然呼ばれた玉尾様の名前をすぐに自分のことだと認識できず、慌てて頭を下げる。ちらりと後ろを覗くと、狐たちも同じように膝をついて地面に平伏していた。
「お待ちしておりました。では、思い残されることは?」
「……はい?」
暗闇の中、はっきりとは見えなかったが、少年はにこりと笑ったかと思うと、幼い体躯に似合わない言葉を吐いた。まるで断首前の罪人に告げる最後の合図のような冷たい言葉が、少年らしい高い声で響いて消える。
「いえ、ここから先は簡単に村との行き来はできませぬ故、念のため」
怖がらせてしまったのなら申し訳ありません。と、目の前の提灯が少し下がる。恐れ多くも大妖狐・仄香狐様のお使いに頭を下げさせてしまったことが申し訳なくて、慌ててもう一度頭を下げる。ここでこの方の機嫌を損ねて破談なんてことになったら、次は本当に玉尾様にお鉢が回ってしまう。それは絶対に避けなければ。
「失礼致しました。思い残すことはなにもございません」
「左様ですか。では」
暗闇の中、少年の口元が上がったのがかすかに見えた後、ふっ、と息を吹きかける動作が見えたかと思うと、提灯の明かりが消え、また強い風があたりに吹いた。角隠しが風に舞わないようにと、咄嗟に左手を頭に添えると、その手を温度のない小さな白い手に取られる。体がふわりと浮く感覚に眩暈がして、思わず目を閉じた。それはほんの数秒の出来事で、次に目を開けたときには、視界は淡い白の花弁で埋め尽くされていた。
あまりの出来事に頭が混乱する。目の前を舞う大量の花弁以外は何も見えない真っ暗闇なのに、どうしてこの花はこんなにはっきりと見えているのだろう。周りの状況を確認しようと体を少し動かすと、履いていた漆塗りの下駄がカタ、と音を立てる。今立っている場所は、つい先程まで膝をついていたはずの田舎道ではない。少しだけ慣れてきた目を凝らすと、きれいに並べられた石畳が見えた。なんとなくだけれど、ここは神社かお寺だろうか。
「玉尾様、お付きでございます」
馴染みはないが少し前に聞いたことのある、高く幼い声がした。前からとも後ろからともとれぬ、不思議な響きがあたりにこだまする。
声の響きに呼応するようにざわめく葉の擦れる音にふいに怖くなって、青白く浮かび上がる白無垢の袖を掴んだ。玉尾様の為に身代わりに、と決めたときは何も怖いなどと思わなかったのに、いざその時になると震えが止まらない。狐と暮らしていたとはいえ私は何の力もないただの人間。しかも、今から会うのは悪名高い大妖狐だ。目が合った瞬間食い殺されるかもしれない。そう思うと、急に足が震え悪寒が背中を走った。
しばらくすると、なんの音もしなくなった。木々のざわめきも、少年の妖しい声も、今は闇に吸い込まれて聞こえない。この場所に着いてからの時間など、本当のところは幾分も経っていないと思う。頭で理解はしているが、自分の姿さえ朧げな暗闇の中では、四半時は軽く超えたであろうかという、重い時の流れに思えた。
いよいよ体の震えも激しくなり、歯もガチガチと音を立てようかというその時、ぎしり、と木の板を踏む静かな音が聞こえた。それは、確かに私の正面からで、そこに何かが存在する音だった。一度きつく目を閉じて、色のない石畳から目を上げる。すると、目の前の暗闇に青白い灯りが二つ灯った。それらはみるみるうちに列を成し、短い道を作る。灯りの動きが止まる頃には不思議と恐ろしさは消え、私は、いくつもの灯篭が照らす、花弁の降り積もる大きなお堂を見つめていた。
「よく参られた」
もう一度、ぎしり、と音がする。薄暗いお堂から重い扉が開く音がして、それが閉じられた時、するりと黒い着物の裾が進み出るのが見えた。その裾をはらうようにして、闇の中を手が数回動くのがわかる。石畳とお堂の間にある低い階段を二段、ゆっくり下ると、黒い着物がその場に腰を据える。
ふ、というため息とも笑いともつかない息づかいがかすかに聞こえて、ぼんやりした頭が我に返った。着なれないせいで動きづらい白無垢の固い裾を折り曲げ、慌てて石畳に手をつく。お堂から出てきたということは、おそらく目の前の方が、私の嫁入り相手だ。冷や汗が一気にふき出る嫌な感覚がした。
「お初にお目にかかります」
「ああ」
「紅天屋の、玉尾にございます」
「そのような場所に平伏することはない、まずは頭を上げなさい」
想像よりはるかに穏やかな低い声が、あたりに沈み込んでいった。先に聞いた少年の声とは反対に、底響きするような低音が耳に消えていく。今までに聞いたことのない、心地よい声だった。とりあえずすぐに殺されるというようなことはなさそうだ、と恐る恐る頭を上げると、もう一度視界に入った大きなお堂は、暗闇の中でそこだけ浮いているような、妖しい光を纏っている。
そのお堂の中心に、先ほど扉から出てきた、暗闇と同じ漆黒の着物を纏った黒髪の男が座っていた。距離があって顔は良く見えないが、着物の裾から伸びる長い手足から背丈が高いということはわかる。いかにも恐ろしい大妖狐、というより、身分のある家の主人、というような印象のいで立ちだった。ぼんやり見える人相はまるで人間そのものだが、ただ一つ違ったのが、立てた膝に頬杖をつき、こちらを見つめる瞳が鈍く金色に光っているところだった。
目の前の二つの金色が、私をまっすぐ見据える。紅天屋で奉公していたときに見た、お得意様が置いて行った金塊とも、玉尾様が好きだったべっこう飴の金とも違う。私には察せない、暗い何かを含んだ重い金色だった。ずっと覗いていたら、いつの間にか魂を抜かれていそうなその瞳に、一瞬引いたはずの冷や汗がまたふき出る。同時に強い眩暈を覚え、ふらりと足元が揺らいだ。
霞む視界の中で、黒い着物が立ち上がり、落ちた花弁を巻き上げながらこちらへ向かってくる、この世のものとは思えぬきれいな景色が見えた気がした。
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