日高宵

鯖缶/東雲ひかさ

第1話

 珍しく朝早く目覚めました。

 光が淡くカーテンを光らせ、鈍く部屋を照らしています。

 何となく気分がよくて低血圧の眩みが来ないようにヌルッと起き上がり、カーテンを反比例の如く勢いよく開きます。目を刺すのは日光で直後私は目を逸らします。けれどすぐ慣れて雲が点々としかない青空が窓枠いっぱいに映し出されます。

 思わず窓を開けると途端に油蝉の鳴き声が部屋に滑り込んできて夏の様相を見せます。心地よい風が吹き抜け、気温はここ最近では珍しく過ごしやすく感じる涼しさでした。

 身を乗り出して見てみると空の左、奥の奥の方に白と黒の濃淡の程度が甚だしい巨大な入道雲がありました。膨大な水を湛え、分別なく雨を撒き散らす憎むべきあの雲も遠くから眺める分には何故か心がワクワクしたり落ち着いたりもします。不思議です。

 時計を見てみると九時半でそこまで早い時間ではなくて少し遣る瀬ない気持ちになりました。

 朝ご飯を食べて暇なことに気づきました。夏に突入して今までは日中の暑さに悶え、夜になり涼しくなる頃には疲れ果て形もなく眠るのみ。夏休みだと言うのに何も手につきませんでした。つけられなかったの方が正しいかもしれません。

 私は折角の涼風日和に何処かへ行こうと思い立ちました。

 私は紙の本が好きです。別にデジタルが嫌いなわけではないし暗いところで本が読めるのは無二性があります。けれども私は紙の本を手に取ってしまうのです。

 匂い、手触り。読み進めるたび左手側の厚みがなくなっていき、それが頁数と相まって読了への気持ちが高ぶっていくのです。これがたまらないよさのです。読み終えて余韻の赴くまま出版社の電話番号なんかを眺めたりする。そうして本を閉じる。本にもよりますが大抵清々しい。内容は同じくもデジタルにはない感覚だと思います。

 そんなことを思い、出向く場所は図書館に決めました。図書館に行くのは久し振りのことです。

 近所の図書館は広場の横にあります。薄い芝が敷かれた平坦な広場で何もありません。その奥の方には市のよくわからない建物が建っていたりもします。

 もう少ししたらその広場で夏祭りが開催されます。小さい頃に夏祭りに来たときの記憶が掘り起こされて懐かしさを感じました。これは来るたびに感じられます。

 図書館はL字の建物で三階建てで内側の角のところに入り口があって、その前には角に合わせて扇状に造られた広い踊り場を設けた石段があります。段数はそこまでありません。

 私は自動ドアに半ば無理矢理の体で入りました。私は妙なところでせっかちなのです。

 中に入るととても涼しかったです。外気がそれなりに暑いことに気づいて人の適応力はすごいなと人知れず感心しました。

 受付を抜け、立ち並ぶ本棚にお目通りします。本棚は綺麗に規則正しく並べられていて道が彫刻刀で掘り出されているかのようでした。

 私は迷路に迷い込んでしまったようにキョロキョロキョロキョロ、右左忙しなく首を振りながら本棚の間を泳いでいきます。

 本の醸す独特の雰囲気を頼りに面白そうな本を探す。当てはない。でも多分、それが醍醐味なのはわかっています。

 奥まで行って戻ってきてを二、三回繰り返してやっと私は一冊の本を見つけ出しました。ある短編集です。

 見るところ真新しく、発行年を見ると今年の発行でした。

 パラパラ内容を見るわけではなく捲ります。劣化は微塵もなく白に黒が映えています。表紙の装丁も黒を基調とした落ち着いた雰囲気で気に入りました。作者は知らないし内容も見当がつきません。けれどもこれに決めます。全ては一期一会の精神にあるのです。

 私はすぐさまカウンターに本を持ち込み、貸し出しの手続きをします。ポイントカードや定期に押し込められた図書カードを掘り出し、少々オドオドしながら手続きを終えました。

 外に出て気温の差に驚きましたが過ごせない程度ではありません。どうせなら外で本を読むのも乙かと思い、広場のベンチに向かいました。

 図書館には時折来ていますが広場の方は殆ど来ません。曖昧な夏祭りの記憶を頼りにベンチに向かいます。たしかプラタナスの影に隠れるようにベンチがあったはずです。少し歩いて市の建物の裏手に回ります。するとプラタナスらしき一本の木が見えて、その根元にベンチがありました。案外、古い記憶の方が当てになるのかもしれません。

 私は本を膝の上に置いて、ベンチに少しかしこまりながら座りました。ざわざわと風でプラタナスが音を立てています。梢を見上げると木漏れ日がチラチラ光りました。私は目を細めます。

 私はスピンの綴じられているところを開きます。やはり真新しいだけあって誰かが以前読んだような形跡がありません。スピンも綺麗なままで本の真ん中辺りに整然と収まっています。スピンの先も解れていません。

 私が誰も見つけられなかった本を見つけ出し、今ここで私が初めて読む。この本の内容は作者と私だけの秘密。そんなことを何気なく妄想すると得も言えない嬉しい気持ちがぷつぷつと控えめに湧き上がってきました。

 私はスピンを本の裏側に回しました。風でバタバタいって落ち着かないので本と一緒に左手で握りました。

 表紙を開きます。見返しを挟んでタイトル、その次の頁に見開きで目次があります。全四章の短編集らしいです。「一章・夜間飛行」とあります。

 読み進め、読み進め、一頁、二頁と捲っていきます。音も外の気温もどんどん遠くなって私はどんどん物語の世界に沈み込んでいってしまいます。

 内容はファンタジー。芳醇な夜の話でした。空を生身で飛び、等間隔に並ぶ街灯が滑走路を模しているようだ。そんなことを言われてしまえば私は夜の世界を想像しなくてはなりません。

 私は読みながら存在論とか認知論の話を思い出していました。あらゆる事柄とは誰かが見ているから存在しているという話です。だから私の中には見たことのないサグラダファミリアや行ったことのないアメリカは存在しません。今の状態で言えば私は本しか観測していない。ならば私のまわりは存在していないとも言えるのです。

 とすれば私のまわりに広がるのは私が妄想し観測しているこの芳醇な夜の世界のみであります。

 私の知る世界は全て消え失せ、私は本で空を飛ぶ。

 外でご飯を食べるとご飯がおいしく感じられるのは五感が外にいると敏感になってのことらしいですから私のこの妄想も外の読書によって捗っていると言ってもいいのではないでしょうか。

 私は空を飛んでいます。夜の底にはやはり街灯が並び深い闇を力不足ながらぼんやり照らしています。住宅が立ち並んでおり住宅街なのがわかります。ぽつぽつと明かりのついていると家もあります。

 私は浮かんだり沈んだりして夜を全身に染み込ませていきます。仰向けになって背泳ぎの体になります。空にはテラテラと妖しく光る満月が浮かんでいめす。私は夜の箱の中にいて誰かが外から指で開けた穴、それが月なんじゃないか、あれが唯一の夜を抜け出すことのできる抜け穴なんじゃないかと思われるほどです。

 一番夜らしいとも言える月を見てそんなことを思うのは私の世界が今は深い闇しか存在しないからでしょう。

 読み進んで行くと唐突に夜間飛行は終わりを迎えました。短編集でしたから左手側の厚みから終わりが予測できませんでした。

 突然の終わりに呆けて余韻に浸ります。

 俄に風が吹きました。右手の力が抜けていてそのまま風に任せて私は本を閉じました。左手の親指が栞代わりになってくれました。

 目の前に広がるのは芝とよくわからない市の建物。辺りが少し薄暗くなっています。そんなに時間が経ったのでしょうか。

 上を向くと梢からは陽の光が見えません。分厚い黒い雲が陽を隠しています。

 ぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつぽつと次第に雨が降ってきました。

 プラタナスの葉に雨が当たり風のときとはまた違う音を立てます。

 私は呆けています。顔を上げてみれば広がるのは午前の普通の世界。今度は頭の世界が消え失せたのです。

 私は本がこのままでは濡れてしまうとふと気づいて、親指の挟まっている部分を開きます。スピンを左手から出して今度はそれを挟みます。

 そこでスピンが手汗で濡れているのに気づきました。



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日高宵 鯖缶/東雲ひかさ @sabacann

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