第11話 お姉さんのたばこの味

「お、お邪魔します……」


 人生のなかで最も緊張する瞬間はいつだったか。そう聞かれて即答することは、とても難しいだろう。

 だがしかし、今の俺ならばすぐに答えることができる。今のこの瞬間だと。


「もっと気楽でいいよ。靴脱いであがって」


 未知の領域、ここは神域とでも言おうか。ただの冴えない高校生である俺が、スーパーアルバイターこよ姉の家に入ってしまった。最近俺とこよ姉さんの距離が近すぎるとして警戒レベルが上がっていたらしいが、こんなことがバレたらいよいよ家宅捜索ものなのではなかろうか。


 邪心を払うために、ここは本来立ち入ることができる場所ではないと必死に思い込ませていた俺は、目の前に広がっていた生活感のない風景に圧倒されてしまった。

 おかしいな。ここがこよ姉の家の中心のように見えるのだが……。


「まあ、なにもないけどくつろいでよ」

「ありがとうございます」

「隠すようなことでもないけど、本当になにもないのよ私の家。食べ物と飲み物も、さっきスーパーで買ってきたのくらいしかないし」


 ごく普通のワンルーム。玄関の扉を開ければ部屋の中が丸見えという構造。

 部屋の中心には木製のちゃぶ台が一つ、壁際にはベッドが一つ。玄関横には本棚が一つと衣装ケース。キッチン横には冷蔵庫。ベッドの近くにクローゼットがあったが、中には服や上着だけが入っていた。

 必要最小限度という言葉がこれほど似合う場所が、ここ以外のどこにあるのか。いや、ないだろう。下手すると、コンビニの休憩室のほうがよほど生活感がある。


 物はあるが、存在がない。日本語がおかしいのは承知で、この部屋を言葉だけで表現するならそういう言い回しになる。まさに空っぽだった。


「とりあえず、自由に食べてていいよ。私はたばこ……」


 そう言いながら、こよ姉はキッチンにある換気扇をつけて煙草たばこに火をつけた。

 それに対して慣れた手つきというのも変な表現だとは思うが、あまりにこの部屋とマッチしていた。いつも、この空っぽの部屋で一人で煙草を口にしているのだろう。


「…どした? 食べないの?」

「あ、いえ。すみません」

「いや、無理にとは言わないけど。お腹あんまり空いてなかったか」

「そんなことないです! いただきます!」


 俺は手を合わせて、スーパーでもらってきた割り箸をこよ姉の分を分けて置いた。

 買ってきたのは惣菜の唐揚げとサラダの盛り合わせ、焼きそばと鉄火巻き。飲み物は水とオレンジジュース、そして金麦。

 自分の分をもう少し買えばいいのにと言われたけれど、手伝ってもらってばかりだった俺にそこまでしなくていいと言って断った。そもそも、どうしてこよ姉はここまでしてくれるのか。そこが不思議でたまらなかった。


「ふぅー……。それじゃ、私も食べようかな」


 彼女が煙草を吸い終わるころには、部屋の中の匂いがすっかり変わっていた。この部屋に入るときに感じた違和感は、もしかするとたばこの残り香だったのかもしれない。

 今までたばこという存在が近くなかった俺にとって、それは新鮮だった。まるで見つけられなかった宝物を探し当ててしまったかのようで。決してそんな綺麗なものでないと分かっていたのだけれど、なぜかそう思ってしまった。


「どうぞ。唐揚げ残してますから」

「さんきゅ。っていうか、私は唐揚げだけでいいから。それ以外は食べて」

「そんなの悪いです。こよ姉も食べてください」

「いいから。私は唐揚げと金麦さえあれば十分。やっぱりね、発泡酒の中では金麦が一番おいしいよ」

「……そですか」


 お酒を飲んだことがない俺には、味がどうこうの話は理解できない。というか、これは高校生にする話なのか。


 その後も他愛ないというよりもいつも通りの中身のない話をしながら、ご飯会は平和に終わった。なんというか、こよ姉は大人な見た目とは裏腹に高校生っぽい頭の中を空っぽにしても話せるような話題を振ってくれるので、本当の意味でリラックスして時間を楽しむことができる。

 女っぽくない女の人……といえばいいのだろうか。本人に直接言ったら失礼だと怒られそうだけど。


「だけどさ、赤点回避は確実なんでしょ?」

「はい。なんとか……って感じですけど」

「頑張ったね。私なにもできてない気がするけど」

「いえ、十分助かりました。ありがとうございました……」


 そう返すと、こよ姉はそれまでとは違った心配そうな顔をしてこちらを向いていた。


「おいおいどした。急に泣くなんて」

「…え?」


 目をこすって指先を見てみると、確かに水滴の跡があった。そのときようやく、自分が涙を流しているということの実感が湧き始めていた。本当にどうしてしまったんだろうと考えてみるけれど、心当たりがなく余計に困っていた。

 そんな俺の気持ちに逆らうように、涙は止まらなかった。何が原因なのかということよりも、こよ姉のことを困らせているという事実が痛い。


「寂しくなったの?」

「……そうかもしれません」

「そっかぁ」


 意識がはっきりしていなかったせいか、俺はいつのまにかこよ姉がゼロ距離に居ることにまったく気がついていなかった。いや、どうしてそんなに近くにいるんですか。

 戸惑いのあまり口をパクパクさせていると、こよ姉がそっと俺の頭を包むようにして自分の胸に近づけていった。その瞬間、俺のおでこに彼女の胸が当たっているというとんでもない事態が発生してしまった。


「え、ちょっとこよ姉さん…?」

「二人でいるときは、敬語じゃなくていいよ」

「もう大丈夫ですから」


 俺がそう言うと、こよ姉はそっと俺から離れた。そして、俺の唇に彼女は自分の唇を重ねていた。キスと呼べるほど軽々しいものではなく、口づけと呼んだほうが適切だった。

 自分の体全体にヒヤッとした感触があった。それだけで終わらず、こよ姉はそのまま俺の口の中に自分の舌を入れていた。


「ふぇあ……こよねぇ」

「んん……」


 それまで飲んでいたオレンジジュースの味はすっかり消えてしまい、こよ姉が吸っていた煙草の味で一気に塗り潰されていった。頭の中は真っ白どころか真っ黒になり、なにも考えられなくなった。これからどうなってしまうんだろうかという、漠然とした不安だけが渦巻いていた。

 そのときの俺には、東雲加奈子の顔すら思い浮かんでいなかった。


「これで落ち着いた…?」


 半強制的な密着から解き放たれ、そこに残ったのは煙草の独特な匂いと彼女が使っている香水の香りだけ。

 はだけてしまった彼女の服の隙間からは、胸のあたりが丸見えだった。

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三人の彼女たちの中から、一人だけを選ばないといけないらしい 六条菜々子 @minamocya

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